Month: July 2020

土佐ノ海敏生 – Wikipedia

この項目に含まれる文字「海」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 「海」の文字の「毋」は公式の表記「母」と異なる可能性があります。 土佐ノ海 敏生(とさのうみ としお、本名:山本 敏生(やまもと としお)、1972年2月16日 – )は、高知県安芸市出身で伊勢ノ海部屋に所属した元大相撲力士。現在は年寄・立川。得意手は突き・押し・右四つ・上手投げで、最高位は東関脇(1997年7月場所・同年9月場所、2004年1月場所)。安芸市立安芸中学校、高知高校、同志社大学商学部卒業。趣味は映画鑑賞、愛称は「トシオ」、好物はケーキ、星座はみずがめ座、血液型はB型、干支は子年[1]。 漁師の長男に生まれる。小学校の低学年の時は野球少年だったが高学年より相撲に転向する。野球部で球拾いばかりだったが、相撲部のコーチから「大きい体をしているなぁ。相撲ならすぐに試合に出られるぞ。」と言われ、翌日には廻しをつけていた。中学・高校と徐々に頭角を現し、同志社大学相撲部時代は1年生からレギュラーとなった。1992年から西日本体重別115キロ以上級・全日本体重別115キロ以上級で2年連続で優勝。同年、大学実業団対抗でも優勝。大学では歴代6位の通算15個のタイトルを獲得し、「東の尾曽(大関・武双山)、西の山本(土佐ノ海)」と並び称され、高校・大学時代を通じて良きライバルであった[1]。真面目で温厚な人柄だが、学生時代には主審の判定への不服から、タオルを投げるパフォーマンスを演じたこともある。また学生時代は本来は押し相撲であるが、格下相手には、とりこぼしを防ぐために安全策として四つ相撲で勝負することもあった。 学生時代には数々のタイトルを獲得し、鳴り物入りで名門部屋である伊勢ノ海部屋に入門し、1994年3月場所に幕下付出で初土俵。ちなみに四股名の「土佐ノ海」は師匠の伊勢ノ海親方が命名したもので、「土佐の太平洋のように、大きな存在となれ」という願いがあった。プロ入り当時から「将来の横綱」と注目され、期待に違わず出世。負け越し知らずで1995年7月場所に西前頭7枚目で新入幕(5月場所に西十両筆頭で14勝1敗で優勝)。新入幕での前頭7枚目という地位は、戦後2番目の大躍進である。日本相撲協会の期待の表れから、新入幕の初日にいきなり大関若乃花、2日目は横綱貴乃花と対戦[注 1](結果は2番とも土佐ノ海の負け)した。新入幕の場所で横綱と対戦した力士は、戦後では土佐ノ海を含め過去4人だけである。この場所では7勝8敗に終わり、初土俵以来初の負け越しとなった。 しかし、翌9月場所では大関貴ノ浪を破るなどの活躍で11勝4敗の成績を修め、入幕2場所目にして敢闘賞を受賞した。西前頭筆頭まで躍進し、本格的な幕内上位進出となった翌11月場所では曙、貴乃花の両横綱を立て続けに破るダブル金星で9勝をあげ、殊勲賞と技能賞を受賞。翌場所の1996年1月場所に新小結となり、この場所も勝ち越し。その後も1997年1月場所で、2横綱1大関に勝ち2回目のダブル金星で殊勲賞。さらに1997年5月場所に新関脇で10勝を挙げると共に、同年は4場所連続で三役に在位するなどして、大関候補の1人と目されるようになった。 1998年は平幕で低迷していたが、休場明けの東前頭9枚目で迎えた11月場所に12勝3敗の成績を残し、この場所を制した琴錦と平幕同士でのデッドヒートを繰り広げた。この11月場所から翌1999年5月場所にかけては4場所連続、合計6個の金星という史上初且つ現在も歴代最高となる記録を樹立。特に1999年3月場所と5月場所は2場所連続ダブル金星(ダブル金星は4回目)であった。7月場所からは三役に復帰して11勝を挙げると共に、貴乃花に勝利したことで5場所連続での横綱戦勝利という史上2位の記録を達成。西関脇で迎えた9月場所は惜しくも1点負け越したが、西小結に下がった翌11月場所には初日から3日連続大関に勝ち6連勝し、横綱・武蔵丸にも勝って優勝争いにも加わる活躍で10勝を挙げた。以後2000年7月場所まで7場所連続で三役に在位し[1]、更に上を期待されるも、この間に5場所連続で小結在位を記録するなど番付運の悪さに泣かされた(麒麟児…後の大麒麟、琴光喜と共に歴代1位)。2001年は平幕で低迷したが、2002年7月場所から再び三役に復帰。西小結の地位で10勝5敗の成績を残し、この場所を制した千代大海に唯一の黒星をつけると共に「千秋楽で自身の勝敗に関わらず千代大海の優勝が決定する」という他力型の条件を満たす形で敢闘賞も受賞した[注 2]。 その後も三役常連として存在感を示し続けたが、上位に強いものの格下相手への取りこぼしも多いなど安定感に欠けるのは変わらず、結局大関昇進は果たせなかった。2003年11月場所では横綱武蔵丸に引退の引導を渡す通算11個目の金星(当時史上3位の記録、現在は4位)をあげたり優勝した栃東に勝つなどの活躍で二桁勝利を記録し、翌2004年1月場所を東関脇で迎えるが、この場所から3場所連続で負け越し、7月場所には自身初めて前頭2桁台まで番付を落としてしまった[1]。しかしその場所では11番勝って格の違いを見せつけた。同年12月25日には、年寄名跡・立川を取得した。 その後少しずつ番付を戻し、2005年3月場所には2大関を破るなどの活躍で、10勝5敗の好成績をあげ、5月場所は関脇に復帰した。33歳での関脇復帰は平成に入って初めての記録であり、33歳3ヶ月の関脇は歴代10位の年長記録であった。だがその後は一転して負けがこみ、西関脇だった5月場所から2006年1月場所にかけて5場所連続負け越した。2005年は年間37勝53敗と、その年の幕内力士の中で年間最多敗となってしまう。特に2006年1月場所では東前頭14枚目で5勝10敗と負け越してしまい、翌3月場所では11年振りに十両に陥落した。関脇復帰から僅か5場所での陥落であり、衰えが顕著になっていた。かつての実績や年齢から引退の可能性を指摘する向きもあったが、1月場所千秋楽を終えた時点で、3月場所に十両に落ちても現役を続行することを明言した。 翌3月場所では西十両筆頭で9勝6敗と勝ち越して、5月場所での返り入幕を果たした。その5月場所では、2005年3月場所以来7場所ぶりの幕内での勝ち越しを決めた。以後は幕内中、下位と十両の往復を繰り返す状況が続き、2008年9月場所までに4度の十両陥落を経験したが、いずれも翌場所は勝ち越し、1場所で幕内に復帰した。しかし、2009年3月場所に東前頭15枚目で4勝11敗と大敗し、翌5月場所に5度目の十両陥落を経験してからは十両が定位置となっていった。 2010年7月場所で8勝7敗と勝ち越し、翌9月場所で9場所ぶりに5度目の再入幕を果たす。この場所は西十両7枚目ながらも大相撲野球賭博問題による幕内からの大量降格により異例の番付アップとなった。38歳6ヶ月での幕内復帰は寺尾の38歳0ヶ月を超え、昭和以降では当時歴代1位となる最年長記録であった[注 3]。だが、その場所では西前頭16枚目で2勝13敗と大きく負け越したため翌11月場所では十両に陥落した。続く2010年11月場所では東十両8枚目で4勝11敗と大きく負け越し、次場所での幕下陥落が確定的となった。そこで、場所後の2010年12月15日に、体力の限界を理由に現役引退を表明した。引退相撲(断髪式)は、当初は2011年5月場所後に予定していたが、大相撲八百長問題の煽りを受けて延期せざるを得ず、2012年2月4日に開催した[2]。通算金星11個は歴代4位、三賞受賞13回は同7位タイの記録である。

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倭国造 – Wikipedia

倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。大倭国造や大和国造とも表記される。 表記[編集] 『古事記』、『日本書紀』では倭国造、『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国造と表記される。 祖先[編集] 『古事記』では若御毛沼命が吉備国の高嶋宮を出発した後、速吸門[注釈 1]で出会い、水先案内や献策などを行った国津神の槁根津日子を倭国造に任命したとされる。 『日本書紀』では日向を出発してすぐに出会った椎根津彦(珍彦)が、神武東征の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。 『先代旧事本紀』「国造本紀」では大倭国で出会い、水先案内を行った彦火々出見尊の孫・椎根津彦命が後に大倭国造に任命されたと伝わる。 系図史料では椎根津彦が宇豆毘古(うずびこ)とも呼ばれ、『百家系図稿』所載の倭国造系図[1]や『諸系譜』所載の「大和宿祢及海直」系図[2]では、綿積豊玉彦命の子・布留多摩命の孫神とされる。 氏族[編集] 倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族ともされる。後裔に久比岐国造や青海氏、明石国造、吉備海部氏などがある なお、和氏は百済の国王・武寧王の子孫なので、別系統である。 穴磯邑大市長岡岬(大和神社旧社地)か。 支配領域[編集] 国造の支配領域は当時倭国と呼ばれていた地域で、後の大和国城下郡大和郷、現在の奈良県天理市周辺にあたる。6~7世紀には磯城・十市地方(奈良盆地東部)も支配していたという。 墓[編集] 御物宿禰(みもののすくね) 古墳時代の人物で崇神朝の国造。椎根津彦の5世孫。 市磯長尾市(いちしのながおち) 古墳時代の人物で垂仁朝の国造。御物宿禰の子。

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神港学園高等学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “神港学園高等学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月) 神港学園高等学校(しんこうがくえんこうとうがっこう)は、兵庫県神戸市中央区山本通四丁目に所在する私立高等学校。 「神港」は神戸港の異称のひとつであり、市立神港高校(あるいはその後身校の神港橘高校)と直接的な関係はない。 1925年、神戸元町通4丁目の私立神港商業学校(市立神港高校の前身)跡地に、財団法人神港中学として開校した。当時神戸の中心部には私立の中学校がなく、地元旦那衆が公立中学校に入学できない自分たちの子弟を進学させるために資金を出し合って設立した学校である。開校時は正式な旧制中学校ではなかったため、“校”が付かない各種学校の扱いであった。 その後中学校令に基づく中学校として認可され、神戸女学院移転後の校地と校舎を買収して移転し今日に至る。現在も敷地内には神戸女学院発祥の地を記す石碑があるが、神戸女学院時代に孫文が講演を行い、また旧制神港中時代にはヘレン・ケラーも訪れたといわれるレンガ造りの瀟洒な講堂は現存せず、跡地はどこにでもある平凡な体育館になっている。校舎は全て戦後に建て替えられたもので、旧神戸女学院の面影は全く残されていない。 1925年3月 – 財団法人神戸区教員会に、私立学校令による私立神港中学の設立許可が下りる。 1925年4月 – 神戸元町通4丁目仮校舎で授業開始。 1927年1月

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チリャルデギ – Wikipedia

チリャルデギ(Txillardegi, 1929年9月27日 – 2012年1月14日)は、スペイン・ギプスコア県サン・セバスティアン出身の言語学者・政治家・著作家。青年期までバスク語を学んだことがなかったが、20世紀後半のバスク・ナショナリズムとバスク文化にとってもっとも影響力のあった人物のひとりである[1]。チリャルデギは愛称・筆名であり、本名はホセ・ルイス・アルバレス・エンパランツァ(José Luis Álvarez Enparantza)。チジャルデギとも。 言語学者として[編集] チリャルデギの父親は印刷業に携わっていた[2]。1929年9月27日、ギプスコア県・サン・セバスティアンに生まれた[3]。両親はバスク語を話すことができたが、チリャルデギはカスティーリャ語の生活環境で育った[2]。彼のようにバスク語を母語とせず、あとからバスク語を習得したバスク語の話し手は「新バスク語人」[4]と呼ばれる。ビルバオの高等工科学校では工学を学んでいたが、19歳の時にバスク語を習得することを決め[2]、パリで言語学を学んだ[5]。1957年にはエウスカルツァインディア(バスク語アカデミー)の遠隔地会員となり、チリャルデギによる標準バスク語の形態や正書法などの提案はエウスカルツァインディアに採用された。1993年には発音委員会のメンバーとなり[5]、エウスカルツァインディアの正会員候補として3度チリャルデギの名前が浮上したが、政治的な理由で辞退している[6]。 著作家として[編集] 著作家や言語学者としてはラレソロ(Larresoro)、イガラ(Igara)、ウサコ(Usako)などの筆名でも活動した。セーレン・キェルケゴール、ミゲル・デ・ウナムーノ、ジャン=ポール・サルトルなどの実存主義に影響を受けており、また著作家のバートランド・ラッセルにも影響を受けた[7]。出版した書籍の多くはバスク語で書き、また多くの小説や政治評論なども著している。1957年の『Leturiaren egunkari ezkutua』はバスク語で書かれた初の現代的な小説とされており[8]、バスク文学に明確な分割線を引いた。その他の小説には『Haizeaz bestaldetik』(1979年)、『Putzu』(1999年)などがあり、随筆には『Huntaz eta hartaz』(1965年)、『Hizkuntza eta pentsakera』(1972年)、『Euskal Herria helburu』(1994年)などがあり、学術研究には『Euskal

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龍禅寺町 – Wikipedia

この項目では、静岡県浜松市中区の町名について説明しています。その他の用法については「龍禅寺町 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 龍禅寺町(りゅうぜんじちょう)は、静岡県浜松市中区の町名。丁番を持たない単独町名である。住居表示未実施[5]。 浜松市中区の駅南地区の一角で地区の名前のとおり、浜松駅から南側に約1.2kmの場所に所在する。 静岡県浜松市中区の南東端に位置し、馬込川を挟んで南区との区境に当たる。 町内の北西部の地域は近隣商業地域に指定されており、それ以外の地域は第2種住居地域に指定されている。 地名の由来[編集] 町名の由来でもある龍禅寺は開創が1200年程前飛鳥時代の大同年間806年~810年と伝えられる。[6] 龍禅寺(りゅうぜんじ)村の旧称は市場村で、天正以後寺号を村名を龍禅寺村とした。[7] 1871年(明治4年) – 浜松県管轄になる。 1876年(明治九年) – 浜松県から静岡県になる。 土呂新田が龍禅寺村へ合併。[8] 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、浜松寺島村、浜松八幡地村、楊子村、寺脇村、福塚村、三島村、瓜内村[大部分]、白羽村、中田島村、龍禅寺村が合併して敷知郡白脇村が発足。 白脇村は町村制施行によって瓜内・白羽・中田島・楊子・三島・寺脇・福塚・寺島・龍禅寺の九か村を大字として成立。[9]

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マレブランケ – Wikipedia

地獄巡りをするダンテとウェルギリウスを案内しようとするバルバリッチャ率いる10名 マレブランケ(Malebranche マーレブランケ)は、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇第二十一歌から第二十三歌に登場する、地獄界の第八圏、第五の嚢(Malebolge マーレボルジェ、マルボルジェ)で亡者達を罰する12人の悪魔(鬼)の総称。その名は「悪の爪」を意味し、マラコーダが統率する。 黒い体に蝙蝠のような翼を生やし、鋭い牙と爪を持つとされる。汚職の罪を犯し煮えたぎった瀝青の池に沈められた亡者を見張り、浮かんできた者を鉤手で苛む役割を持つ。 作中ではマラコーダが命じ、バルバリッチャ率いる10名が地獄巡りをするダンテとウェルギリウスを案内するが、途中亡者の一人であるナバラの男に騙されて逃げられたことから仲間内でもみ合いとなりアリキーノとカルカブリーナが瀝青の池に転落、それに逆上してダンテらに怒りを向けて追い回す。マレブランケは他の嚢に移動することができないため、ダンテらは次の嚢に移ることで難を逃れる。 マレブランケの一覧[編集] 瀝青の池に沈められた亡者を見張り、浮かんできた者を鉤手で苛むマレブランケと見学するダンテとウェルギリウス 各悪魔の名前はマラコーダを除き、ダンテによる造語であるとされている。 マラコーダ(Malacoda) マレブランケのリーダー。その名はイタリア語で「禍いの尾」[1]「邪悪の尾」[2]を意味する。 スカルミリオーネ(Scarmiglione) その名は「乱雑な汚い髪をした者」[1]「汚い乱れ髪」[2]を意味する。スカルミリオーネはマレブランケの中でも下品な性格を代表して表現している悪魔で、亡者ではないため害を加えることのできない主人公のダンテに対して、「尻を撫でてやる」と口にする。 アリキーノ(Alichino) その名は「エレクィンをもじったもの」[1]とされている。捕まえたナバラの男に騙されて逃げられた時、怒りと屈辱に耐え切れずにカルカブリーナと大喧嘩を始め、取っ組み合ったまま煮えたぎる瀝青の池に転落する。 カルカブリーナ(Calcabrina) その名は「霜を踏みにじる者」[1]を意味する。地獄の亡者であるナバラの男に騙されて逃げられた時、怒りと興奮を仲間のアリキーノにぶつけ、取っ組み合ったまま煮えたぎる瀝青の池に落ちる。 カニャッツォ(Cagnazzo) その名は「犬のようなひしゃげた顔をした者」[1]を意味する。マレブランケの一人に捕らえたナバラの男が、「瀝青の池の中にイタリア人はいないか」という詩人ウェルギリウスの問いに対して、「マレブランケ達が自分を解放してくれたら池からイタリア人を呼び出す」と約束する。この時カニャッツォは、チアンポロの言葉を「こいつが池の中に逃げ込む為の口実だ」とはねつける。 バルバリッチャ(Barbariccia)

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シュワルツ試薬 – Wikipedia

シュワルツ試薬 塩化ビス(η5-シクロペンタジエニル)ヒドリドジルコニウム 別称 Cp2ZrClH、ジルコノセンヒドリド 識別情報 CAS登録番号 37342-97-5 特性 化学式 C10H11ClZr モル質量 257.87 g/mol 外観 白色の固体 特記なき場合、データは常温 (25 °C)・常圧 (100 kPa) におけるものである。 シュワルツ試薬(Schwartz’s

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トニー谷長男誘拐事件 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “トニー谷長男誘拐事件” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年6月) トニー谷長男誘拐事件(トニーたにちょうなんゆうかいじけん)とは、1955年7月15日にトニー谷の長男が誘拐された事件。 発生[編集] 1955年7月15日、人気芸人トニー谷の長男が下校途中に誘拐される。同級生から、連れ去ったのは黒い服の中年の男という証言が得られた。 7月16日午後、誘拐犯から身代金200万円を要求する脅迫状が速達で届くと、事件発生とともにマスコミは大スターの子息が身代金目的で誘拐されたとして大々的に報じた(当時は報道協定がなかった)。トニーは記者会見で芸人としてのギミックを一切かなぐり捨て、悲しみに暮れる一人の中年の父親の姿を報道陣の前に見せ、息子を返還するようカメラの前で号泣しながら犯人に呼びかけた。 しかし、当時のトニーは日頃の行いから極めて評判が悪く、芸人仲間の多くがトニーを信じず「これは事件などでなく、話題作りのためにトニー自身が引き起こした狂言誘拐だ」として冷ややかな目で見ていた(実際は狂言誘拐などではなく、本当に起こった誘拐事件だった)。 トニーの自宅には連日マスコミや、やじうまなどが集まり、イタズラ電話も頻繁にかけられる中、7月21日午後8時半頃に誘拐犯から身代金の準備に関する確認の電話が入り、トニーはこの電話を本物の犯人からだと直感。犯人が身代金の受け渡し場所を指定すると、トニーは自分が身代金の受け渡し現場まで行くと話し、トレードマークだったひげまで落として変装したが、報道陣の過熱ぶりから家を出られなくなってしまっていた。このため、代理人を立てることを犯人に提案し、交渉した。 犯人逮捕[編集] 結局、捜査員がトニーに扮して現金を持ち受け渡し場所に向かった。夜10時頃、身代金受け渡し場所に「トニー谷か」と声をかけてくる男が来た。捜査員は別の場所に移動した上で人質を預かっている証拠を提示するよう求めると、男はランドセル、教科書などを提示。真犯人と見た捜査員はさらに別の場所に連れ歩いて共犯がいないことを確認してから逮捕した。長男は長野県更級郡上山田町(現千曲市)の犯人の家に(犯人の)子供と一緒にいることが確認され、無事救出された。東京喜劇人協会の会長だった榎本健一はトニーの自宅に行ってトニーを激励し、トニーの家族とともに解放を喜んだ。 犯人は長野県の雑誌編集者で、地元で雑誌の発行を計画していたが、資金がなかったためにリンドバーグ愛児誘拐事件にヒントを得て身代金誘拐を企てた。犯行の動機について「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語り、事前にとある雑誌でトニーの長男の写真を見ていたため、顔を知っていたことで事件を実行に移していた。 事件後[編集] 世論は、トニー本人の悪役キャラクターに由来する反感が事件の原因となったという論調が支配的となった。トニーは被害者であったが、マスコミによって出自・前歴など秘密にしていた部分の多くを徹底して暴かれ、メディア不信に陥いる。さらには「誘拐の真因はトニーが世間から嫌われることをやっていたからだ」という論調でジャーナリストの大宅壮一や花森安治などからも非難され、この事件を境にトニーの人気は凋落する。

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