Month: December 2020

アパイアー – Wikipedia

アイギーナ島のアパイアー神殿 アパイアー(古希: Ἀφαία, Aphaiā, ラテン語: Aphaea)は、古代ギリシアの女神であり、南ギリシアのアイギーナ島で専ら崇拝されていた。その祭祀はアテーナイにも入り、アテーナイにはアルテミス・アパイアーの神殿があったが、本来アイギーナ島の地方神である。古代ギリシアの地方神の多くがそうであるように、アパイアーは習合されて、アルテミスやクレータ島の女神ブリトマルティスなどと同一視された。 すなわち、クレータ島の女神であるブリトマルティス(古希: Βριτομαρτις, Britomartis, クレータ語で「甘美な乙女 Sweet Maiden」の意)が、クレータにあって、ミーノース王等に追われ、後にアイギーナ島に遁れて、そこでアルテミス女神の庇護のもと、アパイアーの名で崇拝されたと古代のギリシアの詩人や歴史家が記している。また実際に、アイギーナ島には、アパイアー女神の神殿跡が確認されており、往古の姿が復元されている。 古代ギリシア・ローマの記録[編集] リベラリスの記述[編集] 例えば、アントーニーヌス・リーベラーリス (Antoninus Liberalis) の『変身譚 (Metamorphoses)』の 40章

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京阪石山坂本線 – Wikipedia

停車場・施設・接続路線 ^ a b c 営業年は京津線の駅石山坂本線は当初より現在位置 ^ 1937年以前に廃止 ^ 1945年休止、1946年廃止 ^ 1956年休止、1974年廃止 石山坂本線(いしやまさかもとせん)は、滋賀県大津市の石山寺駅から同市の坂本比叡山口駅までを結ぶ京阪電気鉄道の軌道路線である。全区間が軌道法の適用を受けている。 京津線と合わせて大津線と総称されている[2][3][4][5]。また、公式の愛称ではないが、地元の人たちを中心に石坂線(いしざかせん・いっさかせん)と呼ばれることもある[6][7]。 全駅にてPiTaPa・ICOCAなどの全国相互利用交通系ICカードが利用できる[3][注釈 1]。一方、自動改札機を含めスルッとKANSAI対応カードは導入されなかった[注釈 2]。 石山寺駅から瀬田川西岸・琵琶湖西岸に沿ってびわ湖浜大津駅を経て坂本比叡山口駅に至る21駅を持つ路線である[8]。沿線には東レや日本電気硝子などの工場、大津市役所や各種学校などの公共施設が多数位置する[8]。そのため、朝のラッシュ時間帯は通勤や通学により一部の列車は混雑するが、夕以降のラッシュ時間帯は下校と退勤で時差があるため朝ほど混雑が見られない[8]。また、石山寺、三井寺、近江神宮、日吉大社などの神社仏閣が多くあるため行楽客で賑わうこともある[9]。 びわ湖浜大津駅 –

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陳懋 – Wikipedia

陳 懋(ちん ぼう、1380年 – 1463年)は、明代の軍人。本貫は寿州。 陳亨の末子として生まれた。はじめ舎人として従軍し、功を立てて指揮僉事となった。陳亨の兵を率いて功績が多く、右都督に累進した。1403年(永楽元年)、寧陽伯に封じられ、禄1000石を受けた。1408年(永楽6年)3月、征西将軍の号を受け、寧夏に駐屯し、降兵を慰撫した。1409年(永楽7年)秋、北元の丞相昝卜と平章・司徒・国公・知院十数人が人々を率いて相次いで来降した。平章の都連らが離反して去ると、陳懋はこれを追って黒山で捕らえ、その部衆や家畜を収容した。爵位を寧陽侯に進められ、禄200石を加増された。 1410年(永楽8年)、陳懋は永楽帝の第一次漠北遠征に従い、左掖を監督した。1413年(永楽11年)、寧夏の辺境を巡察した。ほどなく山西・陝西二都司および鞏昌・平涼諸衛の兵を率いるよう命じられ、宣府に駐屯した。1414年(永楽12年)、永楽帝の第二次漠北遠征に従い、左哨を管轄した。忽失温で戦い、成山侯王通とともに軍の先頭に立ち、都督朱崇らがこれに乗じて、大勝をおさめた。1415年(永楽13年)、陳懋は再び寧夏に駐屯した。1422年(永楽20年)、永楽帝の第三次漠北遠征に従った。御前精騎を率いて敵軍を屈烈河で破った。別に5000騎を率いて屈烈河の東北を巡り、残党を捕らえ、山沢中でこれを殲滅した。軍を返すと、武安侯鄭亨に輜重を率いて先行させ、陳懋は狭隘な地に兵を待ち伏せさせた。敵軍がやってくると、伏兵で攻撃し、敵軍の過半を死なせた。北京に帰ると、龍衣玉帯を賜り、陳懋の娘が麗妃に冊立された。1423年(永楽21年)、陳懋は陝西・寧夏・甘粛三鎮の兵を率いて、北元のアルクタイに対する遠征(第四次漠北遠征)に従い、先鋒をつとめた。1424年(永楽22年)、再び先鋒をつとめ、永楽帝の第五次漠北遠征に従った。 永楽帝が楡木川で死去したとき、明の六軍はいずれも外地にあり、北京の守備は弱体であった。洪熙帝は陳懋と陽武侯薛禄に精鋭の騎兵3000を率いて帰還させ、北京を守らせた。陳懋は前府を管掌し、太保の位を加えられ、侯爵を世襲する権利を与えられた。1426年(宣徳元年)、楽安州に拠る朱高煦の討伐に従った。凱旋すると、寧夏に赴任して駐屯した。1428年(宣徳3年)、霊州城への移鎮を上奏した。黒白2羽のウサギを献上して、宣徳帝に喜ばれ、帝自らが描いた馬の絵を賜った。陳懋は寧夏に駐屯すること久しく、威名は漠北に鳴り響いた。宣徳帝の信任を頼みに勝手気儘に振る舞い、巨万の財産を蓄えた。たびたび弾劾を受けたが、宣徳帝は曲げてこれを許し、陳懋の不正に蓄えた財産を没収するよう命じた。 1435年(宣徳10年)、英宗が即位すると、陳懋は張輔とともに参議朝政を命じられ、平羌将軍として出向し、甘粛に駐屯した。その冬、敵が駐屯所を攻撃してくると、陳懋は兵を派遣して救援し、敵を撃退し、敵兵を斬り捕らえて報告した。参賛侍郎の柴車は陳懋が規律を失って敵の侵攻を招き、残された老弱な敵兵の身柄を奪って、都指揮の馬亮らが功によって賞を受けるのを妨げたと弾劾し、斬刑に相当すると論告した。勅命により陳懋は一死を免じられたが、禄を剥奪された。長らくを経て禄をもどされ、奉朝請とされた。1448年(正統13年)、福建で鄧茂七の乱が起こった。都御史の張楷がこの反乱を討ったが鎮圧できず、陳懋が征南将軍の号を受けて、総兵官とされ、京営・江浙の兵を率いて討伐に向かった。陳懋が浙江に達すると、兵を分けて海口を押さえようという者がいたが、陳懋は「賊を死なせるのはわたしだ」といって許可しなかった。1449年(正統14年)、陳懋が建寧に到着すると、鄧茂七はすでに戦死しており、その残党が尤渓・沙県に集まっていた。官軍の諸将はこれを殲滅しようと望んだが、陳懋は「それは賊の心を堅くするだけだ」といって、招撫して下すよう命じ、反乱軍の多くを降伏させた。道を分かれて追捕にあたり、反乱を全て平定した。沙県で反乱が再び起こったが、平定できなかった。ときに土木の変で英宗がオイラトに捕らえられて北方に連行され、景泰帝が立つと、陳懋は軍を返すよう命じられた。このとき陳懋は弾劾を受けていたが、反乱平定の功績により不問とされた。そのまま太保の位を加えられ、中府を管掌し、宗人府の事務を兼領した。1457年(天順元年)、英宗が復位すると、陳懋は禄200石を加増された。1463年(天順7年)、死去した。享年は84。濬国公の位を追贈された。諡は武靖といった。 陳晟(長男、罪を受けた) 陳潤(兄の陳晟が罪を受けたため、後嗣として寧陽侯となった) 陳瑛(兄の陳潤が死去すると、禄を半減された上で寧陽侯位を嗣いだ。陳晟の子の陳輔が成長すると、陳輔に侯位を嗣がせた) 陳氏(永楽帝の後宮に入り、麗妃に冊立された) 参考文献[編集] 『明史』巻145 列伝第33

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パウロ・ルイス・ベラウド・サントス – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “パウロ・ルイス・ベラウド・サントス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はベラウド、第二姓(父方の姓)はサントスです。 パウリーニョ 名前 本名 パウロ・ルイス・ベラウド・サントスPaulo Luiz Beraldo Santos ラテン文字 PAULINHO 基本情報

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SHADOW – Wikipedia

この項目では、日本のアイドルグループについて説明しています。その他のShadowの用法については「シャドウ」をご覧ください。 SHADOW(シャドー)とは、1989年に元ジャニーズJr.たちによって結成された男性アイドルグループである。 旧グループ名:「新・フォーリーブス」、「新・光GENJI」。 SHADOWの別表記名:「影(シャドー)」。 1年後には「牛若丸」(後述)というグループに発展。 この他にも、「THE BLACK」、「ESCAPE」、「WAXY」、「アンビエンス」(それぞれ後述)といった、後身グループ、派生グループが次々と生まれた。 1988年11月より、フォーリーブスの北公次が展開していたジャニーズ事務所に対する糾弾活動に共鳴し、かつてジャニーズ事務所に所属していた元・ジャニーズJr.たちが北公次の元へ集い、結成した。最初は阿部・平本・倉田・赤木の4名だけで「新・フォーリーブス」の名でステージデビュー。その後メンバーも増え、「新・光GENJI」→「SHADOW」へと改名していった。インディーズながらレコード&CDデビューも果たし、一時はライブも毎月行っていた。また、十数本のプロモーションビデオも制作され、ファンクラブにてインディーズ発売された。その後、メンバーの間で揉め事が起きた為、1990年3月26日のよみうりホールのステージにて解散した。 メンバー[編集] 阿部順一 (リーダー、愛称「ジュン」。1966年6月25日生まれ、東京都出身、血液型・B型。) ジャニーズ時代には、テレビドラマ『3年B組貫八先生』や、『月曜ドラマランド』の「どっきり双子先生・乙女学園男子部」シリーズ(全8話、1983年11月14日 – 1984年3月19日)や、「乙女学園すみれ寮」シリーズ(全4話、1984年4月23日 – 9月10日)で活躍していた。 平本淳也 (1966年6月14日生まれ、神奈川県厚木市出身、血液型・B型) 元「ジャPAニーズ・ジュニア」のメンバー。 ジャニーズ事務所に入る前は「東京宝映テレビ(現:宝映テレビプロダクション)」に在籍した。 祖父がアメリカ人のクオーター。 1983年には映画『あいつとララバイ』にも出演した。

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クール・ジャッパーン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “クール・ジャッパーン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月) クール・ジャッパーン(Cool JAPPAAN)は、富士急ハイランドにあるウォーターアトラクション。1995年夏に「グレート・ザブーン(Great ZABOON)」として開業。2014年8月1日より、「クールジャパン」に由来する「クール・ジャッパーン(Cool JAPPAAN)」へと名称が変更された。 なお、ナガシマスパーランドの「シュート・ザ・シュート」及び城島高原パークにある「ポセイドン30」は、同機種である。 巨大なボートに乗り込み30mの高さまで巻き上げられた後、40度の傾斜を滑り降り最高時速80kmで着水する、世界最大級のウォーターアトラクションである。着水時には18mの高さにもなる水飛沫が上がる。尚、着水時には慣性による衝撃(前に飛び出すような感覚)を伴うので、出発前にスタッフからしっかり踏ん張っているよう注意を促される。夏場はナガシマスカと並んで人気のアトラクションである。 1列4人×5列の計20人乗り。それぞれ4人で1本の安全バーが付いている。 ボートにはアクリル製のカバーがある「フード付き」と、全身ずぶ濡れになる「フード無し」の2種類があり、時期によって変更される。 フード付きボートは主に冬場などの肌寒い時期に運営される。ボートがアクリル製のカバーで覆われているのでそのまま乗り込めばよい。 フード無しボートは主に冬以外に運営される。乗車前にポンチョ(100円)を購入するが、購入せずに乗車する事も可能。但し、水飛沫の量が非常に多くポンチョを着ていてもそれなりに濡れるので、購入した方が無難である。 過去にはフード付きとフード無しが1台ずつ同時に営業する時もあり、この場合はそれぞれ入口が異なるので、好きな方の列に並ぶようになっていた。

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惑星メフィウス – Wikipedia

『スターアーサー伝説I 惑星メフィウス』(スターアーサーでんせつわん わくせいメフィウス、LEGENDS OF STARARTHUR PLANET MEPHIUS)は、1983年およびそれ以降にT&E SOFTから発売された日本のコンピュータゲーム。 本作は、T&E SOFTによる、同社初のコマンド入力形式によるアドベンチャーゲームである[1]。本作は3つのステージに分けられており、カセットテープ版は3本組というボリュームで、当時としては壮大なストーリー性と、それまでの『ミステリーハウス』など従来のアドベンチャーゲームに見られたラインのみの描画表示ではなく、フルカラーのグラフィック表示による演出が特徴的だった[1]。また、本作は国産初のVHD対応アドベンチャーゲームとして移植、発売された。 映画の『スター・ウォーズ』と『アーサー王伝説』が制作のヒントになった[2]。本作はスターアーサー伝説シリーズとして、後に『暗黒星雲』、『テラ4001』が発売された。3シリーズ全てが発売された対応機種はFM-7対応版とPC-6001mkII対応版のみである[1]。 1980年代の発売当時は、パソコンショップなどで配布されていた『T&Eマガジン』にて、漫画版『スターアーサー伝説』が連載されていた。 ゲーム内容[編集] 宇宙暦3826年、惑星シークロンが侵略者ジャミルの手にかかり、壊滅状態となる[3]。主人公であるスターアーサー・ミルバックはジャミルの野望を打ち砕くため、伝説の剣レイソードを求めて惑星メフィウスへと向かう[3]。 スタッフ[編集] 本作はSF映画の主人公となるようなプレイ感覚で人気を博し、初期のアドベンチャーゲーム作品を代表する一作として知られるようになった[3]。 評価[編集] ライターの佐々木潤は、単語数が限定されていることや、単語のチェック機能などが搭載された点について、当時発売されたアドベンチャーゲームの中では初心者に優しい仕様だったと振り返っている[3]。 一方で、佐々木はストーリーを読んでいればテープ1で悪戦苦闘することはないとしつつも、テープ1で躓いたプレイヤーが多かった理由について、マニュアルを読めない状況で遊んでいた者が一定数いたのではないかと推測している[3]。また、佐々木は描画スピードが遅い点についても指摘している[3]。 VHD版は日本ビクターが企画、アニメーションを東映動画が作成し、ソフトウェア部の開発をT&E

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ストレイモイ島 – Wikipedia

ストレイモイ島(フェロー語: Streymoy)は、フェロー諸島において最も大きく人口の密集した島である。フェロー諸島の首都であるトースハウンはこの島に位置する。ストレイモイとは「潮流の島」を意味する。 島は縦長で、概略で北西から南東の方向へ47キロメートル(29マイル)の長さに伸び、幅およそ10キロメートル(6マイル)の距離がある。南東にはコラフィヨルズル (Kollafjørður) とカルバクスフィヨルズル (Kaldbaksfjørður) の、2つの深く刻まれたフィヨルドがある。島には山が多く、特に北西には最も高いコプセニ山(Kopsenni、789メートル)がある。この山の一帯は、500メートルを超える高さの崖が聳え立っている。 フェロー諸島における他の地域と同じく、島には数々の細流や小さな湖がある。生息している主な植物は芝で、木は立っていない。 ストレイモイ島の東側には、フェロー諸島で2番目に大きな島であるエストゥロイ島があり、間をスンディニ海峡 (Sundini) が流れている。西側にはヴォーアル島が位置しており、南側はサンドイ島がある。また、コルトゥル島、ヘストゥル島、ネルソイ島の3つの島々は、ストレイモイ島の南端周辺に位置する。 島には約2万1千人の住民が暮らしており、フェロー諸島全体における人口の40パーセント以上を占めている。彼らの大多数は、およそ1万5千人の人口を有する首都、トースハウンに住んでいる。フェロー諸島政府の中心的な地である上、トースハウンは最大の港があり、大学が位置する他にも島の商業の中心地となっている。 島にある他の重要な街には、それ以前はフェリー港だった西側の街ヴェストマンナ (Vestmanna) 、中心部にあるコラフィヨルズルや人目を引く北側の村サクソン (Saksun) とチャアヌヴィク (Tjørnuvík) がある。歴史的な観点から見ると、島の南端付近にある村のチュシチュボア (Kirkjubøur)

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五味道茂 – Wikipedia

五味 道茂(ごみ みちしげ、1912年 – 1989年10月1日)は日本の新聞記者、作詞家。別名義に蓼沢 猟(たでさわ りょう)[1]、五味 三子穂(ごみ みねのり)がある。 香川県出身。1941年(昭和16年)4月、朝日新聞大阪本社に入社し観音寺駐在員を務める。1944年(昭和19年)6月、大野通信部主任[2]。1948年(昭和23年)には福井地震の現地取材レポートを『週刊朝日』に寄せている[3]。 1952年(昭和27年)3月、長浜通信局長に就任。この時期に「五味三子穂」「蓼沢猟」他の筆名で作詞を精力的に行い、1953年(昭和28年)に長浜市の市制10周年を記念して公募が行われた市民音頭で応募作(五味三子穂名義)の「浜音頭」が入選する。1954年(昭和29年)には、滋賀県が滋賀会館の落成を記念して実施した県民歌の公募で応募作(蓼沢猟名義)が入選し[4]、6月3日付で「滋賀県民の歌」として制定された[5]。 1957年(昭和32年)に福知山、1959年(昭和34年)に加賀通信局長。加賀通信局長時代には朝日新聞社が刊行した『地方記者』に手記「えこじ記者」を寄せている[6]。1963年(昭和38年)より大阪本社調査部に異動し、1967年(昭和42年)8月に定年退職[2]。職を退いた後は大阪府茨木市に居住していたが、1989年(平成元年)10月1日に茨木済生会病院で逝去した[1]。満77歳没。なお、この年の8月には代表作「滋賀県民の歌」の作曲者・古関裕而が80歳で亡くなっている。 大津市の滋賀県庁舎前には、県民歌制定を提唱した公選初代滋賀県知事の服部岩吉顕彰碑を兼ねた「滋賀県民の歌」の歌碑が建てられている[7]。この歌碑ははじめ滋賀会館前に建てられていたが[8]、会館の廃止・解体に伴い2016年(平成28年)に現在地へ移設されたものである。 参考文献[編集] ^ a b 『朝日人』1990年1月号, p172 ^

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