Month: September 2021

立花高等学校 – Wikipedia

この項目では、福岡市にある立花高等学校について説明しています。 神奈川県松田町にある学校については「立花学園高等学校」をご覧ください。 1972年から1980年まで「立花高等学校」の校名だった愛知県の高等学校については「日本福祉大学付属高等学校」をご覧ください。 全国各地にある同じ読みの高等学校については「橘高等学校」をご覧ください。 立花高等学校(たちばなこうとうがっこう)は、福岡県福岡市東区和白丘二丁目に所在する私立高等学校。設置者は学校法人立花学園。 設置学科[編集] 設置学科 [編集] 学科内専門コース[編集] 2年次より各コースに分かれる 進学コース DS(就職)コース 全教科の授業に加えて体験授業がある。 1957年 – 明林高等学校として開校(創設者、安部清美) 1963年 – 第二高等学校と改称 1965年 –

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天臂城 – Wikipedia

この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年12月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 Devdaha Municipality देवदह नगरपालिका Municipality Devdaha Municipality Location in Nepal ネパールの地図を表示 Devdaha Municipality

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DEEN – Wikipedia

日程 ツアータイトル 会場 備考 1996年8月23日 LIVE 川崎クラブチッタ 全1会場・1公演CLUB CITTA’ 川崎 初のライブ、DEEN LIVE JOY-Break1 〜I wish〜の直前に行われた、ファンクラブ会員限定のライブ 1996年9月19日 〜 1996年10月5日 DEEN LIVE JOY-Break

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みんなのテニス ポータブル – Wikipedia

『みんなのテニス ポータブル』は、2010年2月25日に発売されたPlayStation Portable用のテニスゲーム。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント。2014年3月6日に廉価版であるPSP the Bestが発売された。 本作は『みんなのテニス』のPSP向け移植ではなく、キャラクターを一新した新作である。お笑い芸人の桜塚やっくんが操作キャラクターおよび審判としてゲスト登場している。 また、初めてストーリーモードが搭載された。主要ライバルキャラクターとの対戦前には、「みんなのGOLFポータブル2」のように、プロフィールを兼ねたロード画面が登場する仕組みになっている。 キャラクター[編集] エミ:伊藤静(女性主人公) バン:下野紘(男性主人公) タイガ:斎賀みつき(1面、なかがわテニスクラブのボス。以下はライバルキャラ) ウェンディ:折笠富美子(2面、アスリートユニバーシティのボス) ブラッド:平田広明(3面、ワールドテレビスタジオのボス) ロゼッタ:松岡由貴(4面、ヴィクトール邸のボス) ミツザネ:細谷佳正(5面、不知火城のボス) パオラ:浅井清己(6面、ラグーナアイランドのボス) ファン:チョー(7面、天竜山武芸道場のボス) レイチェル:甲斐田裕子(8面、シリウスカンパニーのボス) シュナイダー:星野貴紀(9面、セントラルフェニックスのボス。彼に勝利するとスタッフロール。敗北した場合はゲームオーバーとなる) ノーマ:生天目仁美(メニューキャラであるが、エンディング後、特定の条件を満たすと対戦できる)

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ディズレーリ (1916年の映画) – Wikipedia

ディズレーリ Disraeli 監督 チャールズ・カルヴァートパーシー・ナッシュ 脚本 ルイス・N・パーカー 原作 ルイス・N・パーカー 製作 アリゴ・ボッチ (Arrigo Bocchi) 出演者 デニス・イーディーメアリー・ジェロルドデヴィッド・トレンスシリル・レイモンド 配給 NBフィルムズ(英語版) 公開 1916年11月 (1916-11) 上映時間 6巻

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H.C.栃木日光アイスバックス – Wikipedia

H.C.栃木日光アイスバックス(ホッケークラブ とちぎ にっこうアイスバックス)は、日本の栃木県日光市にホームを置く、アジアリーグアイスホッケーに加盟するプロアイスホッケークラブである。 チーム概略[編集] 1925年(大正14年)創部した古河電工アイスホッケー部の廃部を受け、1999年8月に日本アイスホッケー界初となる市民クラブとして誕生。チーム名はシカをモチーフにした「バックス」、クラブカラーは「オレンジ」。ホームタウンは栃木県日光市、ホームリンクは栃木県立日光霧降アイスアリーナである。チーム創設以来、日本リーグ、アジアリーグとトップリーグに参戦している。アジアリーグ2011-2012シーズンには、チーム創設以来、最高の準優勝を果たした。 整列するH.C.栃木日光アイスバックスの選手たち(2008年1月27日、対SEIBUプリンスラビッツ戦より〜ダイドードリンコアイスアリーナ) チームの前身は1925年(大正14年)に創部した日本最古のアイスホッケーチーム『古河電工アイスホッケー部』である。日本で初めて自前のホームリンクを持ち、天覧試合の栄誉を受けた名門実業団チームであった。 1999年1月の古河電工アイスホッケー部廃部発表を受け、栃木県アイスホッケー連盟会長の千葉哲夫と地場でゴルフ練習場などを経営する高橋健次がチーム存続をかけて、同年8月に有限会社栃木アイスホッケークラブを設立、日本リーグ初の“市民クラブ”として発足した。日光猿軍団・元気寿司の両創業者とTKCなど地場企業と旧・日光市の資金援助およびファンからの募金、古河電工アイスホッケー部選手を転籍・出向扱いとし選手人件費を肩代わりすることによる古河電工の支援で、初年度の運営資金3億5000万円を確保することとなった。 しかし、2年目となる2000-01年シーズンに古河電工アイスリンクの廃止など古河電工が事実上支援を打ち切ったことと、日光猿軍団と元気寿司は創業者のポケットマネーから支出しており、継続的な大口出資が不可能であり資金難に陥ったことで、同年11月にチームの廃部と運営会社の清算を発表。2001年1月に栃木県知事に就任した福田昭夫が支援表明したことで、企業・個人に加え旧日光市・今市市から援助を得て、2001年5月に有限会社日光アイスバックスとちぎを設立し、チームを引き継ぐことになった。なお、設立に奔走した高橋健次は2000年に膵癌で余命1年の宣告を受けており、ここまでの軌跡が同年に『ZONE』やノンフィクション本でまとめられ、2002年8月15日に53歳で逝去した。 2005年1月に元銀行員の塚本純司が2003年に神戸市で起業した株式会社日本セールス&マーケティングが1千万円出資するとともに、日光アイスバックとちぎの代表取締役社長に就任。ホームタウンの日光市に加えてサブホームタウンとして神戸市に活動拠点を置くダブルフランチャイズ制を採用、2006-07シーズンまでチーム呼称を「日光神戸アイスバックス」に変更した。 2006-07シーズンからサッカー評論家(元藤和不動産サッカー部)のセルジオ越後がシニアディレクターに就任。慢性的に財政難であるが、特にこのシーズンは遠征費用にも事欠く状況だったため、2006年12月に「IceBucks募金」として1口1万円の寄付を募り、翌年3月までに817万円を集めた。 2007-08シーズンから新会社・栃木ユナイテッドに運営権が移行され、神戸市とのサブフランチャイズを解消。チーム名を「HC日光アイスバックス」に戻した(ただしスポンサーとの関係上神戸での試合は継続した)。 2011-12シーズンはレギュラーリーグで初めて3位となる。プレーオフ準決勝でもリーグ2位のアニャンハルラを3勝2敗で降してファイナルに進出。ファイナルでは王子イーグルスに1勝3敗で敗れたがアジアリーグチーム歴代最高の準優勝を達成した。 2014-15シーズンは第82回全日本アイスホッケー選手権大会で準決勝の日本製紙クレインズを6-3で破り、アイスバックスとなってからは初の決勝進出を達成。決勝の東北フリーブレイズ戦は第3ピリオド途中まで1-2でリードを許していたが、試合残り17秒で上野拓紀が同点ゴールを決めて同点に追いつくと、オーバータイムで佐藤大翔が決勝ゴールを決め、3-2で勝利してアイスバックス創部以来初の優勝を達成(古河時代を含めると52年ぶり5度目)。プロチームとしても全日本選手権史上初の優勝となった。MVPは上野が受賞。 1925年(大正14年) 「古河電工アイスホッケー部」創部 1999年(平成11年)1月 アイスホッケー部活動停止決定 1999年(平成11年)5月 「古河電工アイスホッケーを愛する会」が日本アイスホッケー連盟へ4万人の署名提出 1999年(平成11年)8月 「有限会社栃木アイスホッケークラブ」設立、市民クラブ「HC日光アイスバックス」として再スタート 2000年(平成12年)11月 資金難から有限会社栃木アイスホッケークラブの会社清算・廃部決定 2001年(平成13年)1月 栃木県、日光市、今市市が行政支援を決定、バックスの存続を求める署名は10万人に達する

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蠟山政道 – Wikipedia

蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 – 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者・政治家。お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり[要出典]、行政学研究の先駆的存在である[要出典]。 出生から終戦まで[編集] 新潟県刈羽郡鵜川村生まれ。群馬県高崎市で育つ。1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。在学中に吉野作造の影響を受け東大新人会に参加、政治学の研究を志す。特に雑誌『社会思想』の同人であった河合栄治郎[要出典]のすすめから、イギリス社会主義の研究をはじめ、その後の民主社会主義理論家としての素地を作る。 1920年7月大学を卒業と同時に法学部助手に採用、1922年同助教授を経て、1928年教授に任官。1927年からは新設された行政学講座を担当する。1939年4月に行なわれた東大経済学部の人事処分(平賀粛学)をめぐり、親交のあった河合栄治郎が休職処分とされたことに殉ずる形で抗議の辞任[1]を行い、大学在職時から続けていた雑誌等での言論活動に主軸を移す。 政治的には二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載するなど、軍部に対して批判的な姿勢を見せたが、一方で社会大衆党などの右派無産政党や近衛文麿に接近し、1934年5月、当時貴族院議長の近衛が親善特使として米国に派遣された際にも同行している。また、1930年代の政党政治の行き詰まりや軍部台頭のなかで国内政治体制の刷新のため「立憲独裁」を提唱して近衛のブレーン組織である昭和研究会設立構想に参加、日中戦争下の1938年には『改造』に掲載した論説により「東亜協同体」をめぐる論争の口火を切った。 1942年4月の翼賛選挙では近衛や井上房一郎の勧めを受けて推薦候補として群馬二区に立候補、衆議院議員に当選する[2](任期途中で翼賛政治会を脱会し、翼壮議員同志会に参加)。また、戦時期にはフィリピンの軍政監部顧問であった村田省蔵の指名により、大学以来の旧友・東畑精一とともに占領地の調査に参加した。 戦後の活動[編集] 終戦後の1945年12月1日に議員を辞任し[3]、中央公論社副社長・『中央公論』編集主任に就任するが、1946年11月には言論活動に専念するため辞職している。また、1947年には公職追放を受けたが、翌年には追放を解除された。この追放にあたっては木村健康・丸山真男・辻清明らが追放解除の嘆願書を占領軍に送っている。1948年に日本政治学会理事に就任したのちは要職を歴任し、1949年に公益事業学会理事長に就任、1950年には自らが主導して日本行政学会を設立、初代理事長になった。 大学教育にも復帰し、1950年1月にはお茶の水女子大学学長に就任、1959年12月まで務めた後、1962年4月から国際基督教大学教授に就任、同大の大学院行政学研究科設置に協力した。 お茶の水大学学長当時、「チェーホフの会」という愛好会の立ち上げを発案。学長退任まで定期的に読書会などを開いていた。(「私のチェーホフ」旭季彦著、新興出版社、1974年、のp201〜お茶の水大学「チェーホフの会」のことども) この間も学外の要職を歴任し、民主教育協会会長(1954-1962年)、東京都教育委員長(1968-1979年)のほか、中央教育審議会委員(1969年就任)・NHK番組審議会委員(1959年就任)・憲法調査会委員(1957年就任)・第一次臨時行政調査会(第一次臨調)委員(1962-1964年)をはじめとする各種委員を務めた。 また1951年からは民主社会主義連盟理事長として社会党右派の政策路線を学問的・理論的にサポートしており、1960年の民主社会党結成時には執行委員長への就任も取りざたされたが、蝋山はこれは辞退した。しかし、民社党結成と同時に発足した同党の政策を理論的に補完する民主社会主義研究会議の議長に就任し、理論的イデオローグとして特に日米安保肯定論で民社党の外交・防衛政策を理論づけたことは有名である。 1966年4月勲一等瑞宝章を受章し、1968年には日本学士院会員となるが、1980年急性心不全で死去する。 戦前・戦後を通じた研究者・言論人としての旺盛な活動、現実政治への関与から今日も蝋山に対する関心は高く、「行政学研究のパイオニア」「1930年代を代表する『革新派』知識人」などの視点から蝋山自身を対象とする研究が蓄積されている。また、蝋山が端緒をつけた行政学研究は、蝋山の講座を継承した辻清明や今村都南雄らによって継承発展することとなる。 家族[編集] 蝋山は六人兄弟の長男で、弟には講座派マルクス経済学者・京都大学教授の山田勝次郎(二男)、アジア・アフリカ問題評論家の蝋山芳郎(五男)がいる。生前蝋山は「蝋山家は子沢山で、左は共産党から右は自民党までいる。いきおい長男の私は(中間の)民主社会主義でいくことになる」とよく冗談で語ったとされる。国際政治学者・上智大学名誉教授の蝋山道雄は長男、生物学者・カナダ国立海洋森林研究所所長を務めた蝋山朋雄は二男。中央公論社社長を務めた嶋中鵬二の妻雅子[4]は長女。

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ニュージーランド大学 – Wikipedia

ニュージーランド大学 (ニュージーランドだいがく、英語: The University of New Zealand 、略称:UNZ)は、1870年から1961年までニュージーランド全国に設置された大学および大学群の総称。正式名称は「連邦ニュージーランド大学」。1870年に設置され、1961年に解体された。 1870年に連邦ニュージーランド大学法が制定され、オックスブリッジをモデルとするカレッジをニュージーランド各地に設置した。連邦ニュージーランド大学法制定後、カンタベリー・カレッジ(1873年)、オタゴ大学(創立は1869年、ニュージーランド大学への加盟は1874年)、カンタベリー農業カレッジ(1878年)、オークランド・カレッジ(1883年)、ヴィクトリア・カレッジ(1897年)、マッセー農業カレッジ(1926年創立、1927年開校)の6校を設置し高等教育機関としての運営を担当した。各カレッジの学位記はニュージーランド大学より授与された。 オタゴ大学は1869年に最初の高等教育機関として創立され、1871年に開校した。連邦ニュージーランド大学法制定前に誕生したニュージーランド唯一の大学であったが、1870年に連邦ニュージーランド大学法が制定されたため、ニュージーランド大学への加盟は1874年になる。この間、オタゴ大学からアレキサンダー・ウィリアムソンに文学士の学位が授与されている。オタゴ大学のみ創立当初から現在の大学名を採用している。  ニュージーランド大学解体後[編集] 1961年にニュージーランド大学は解体され、6つの高等教育機関はそれぞれ独立した大学運営を行える大学自治権を取得した。学生数の少ないカンタベリー農業カレッジは「リンカーン・カレッジ」へ改称しカンタベリー大学の構成校となった(詳しくはリンカーン大学の項目を参照)。 1964年にワイカト大学が新設され、2000年にはニュージーランドで8校目の大学としてオークランド工科大学(旧・オークランド工科校、ポリテクニックから昇格)が新設された。 ニュージーランド大学の歴史[編集] 1869年 – オタゴ大学創立(1871年開校、創立当初よりカレッジの名称を使用せず)。 1870年 – 連邦ニュージーランド大学法制定。評議委員会がウェリントンに設置される。

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しもべえ – Wikipedia

『しもべえ』は、村田ひろゆきによる日本の漫画作品。および、それを題材とするテレビドラマ[2]。 『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて、2019年31号と32号に掲載された後、『月刊ヤングマガジン』(同)にて2019年8号から11号まで掲載[3]。平凡な女子高生と謎のおじさんの奮闘を描いた作品。 あらすじ[編集] かつての幼なじみ・辰馬が転校してきたことで、幼い頃の夢だった医師を目指すことになった女子高生・ユリナ。今の彼女の成績では現実的でないが、そこへ現れた謎のおじさん・しもべえと共に夢へ挑むうちに、平凡だった彼女の人生が一変する。 登場人物[編集] 鴨志田ユリナ(かもしだ ユリナ) 17歳。明るく、のんきな女子高生。 鴨志田康子(かもしだ やすこ) ユリナの母。 佐々木辰馬(ささき たつま) 転校生。ユリナとは幼なじみ。 亜紀(あき) ユリナの友人。 多田(ただ) ユリナの友人。 しもべえ 謎のおじさん。

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巌雄謙治 – Wikipedia

巌雄 謙治(がんゆう けんじ、1970年8月6日 – )は、兵庫県姫路市出身で北の湖部屋所属の元大相撲力士。 本名は平野 建司(ひらの けんじ、後に兼司)、李 建司。身長185cm、体重173kg。得意技は右四つ、寄り、叩き。最高位は西前頭筆頭(1997年9月場所)。現在は年寄、山響。 姫路市立朝日中学校時代はバスケットボールや砲丸投などに借り出されていたが、中学校3年から新日本製鐵広畑相撲教室に通い本格的に相撲を始めた。引退間もない北の湖親方に入門を勧められ、1986年3月場所で初土俵を踏む。ちなみに彼が北の湖部屋最初の入門力士(北の湖の一番弟子)である。 入門から2年半で幕下に昇進するなど早くから頭角を現すが、一時は怪我で序二段に下がるなど苦労した。それでも1991年11月場所において、東幕下筆頭の地位で1勝3敗から3連勝して勝ち越しを決め、入門からおよそ7年かけて新十両昇進を果たした。しかし新十両の場所は7日目からの9連敗もあって3勝12敗の成績で1場所で幕下に陥落。その後は故障もあって幕下で長く低迷したが、1995年5月場所において西幕下7枚目の地位で幕下優勝を果たし、翌7月場所で3年半ぶりの十両昇進を果たした。この場所を9勝6敗と関取として初の勝ち越しを決めると、そのまま勝ち越しを続けて1996年3月場所において新入幕を果たした。幕内昇進後は主に幕内中位で安定した成績を残した。時折番付運に恵まれて上位に顔を出したが、いずれも大敗して上位定着はできなかった。幕内を連続23場所務めたが、2000年1月場所において東前頭14枚目の地位で10敗5休という成績で十両に陥落。陥落後も2場所続けて負け越し、同年5月場所には幕下まで陥落したため場所前の4月に引退した。番付上は2000年5月場所の幕下が最後となる。 仕切り線に近い所で仕切って立ち、体格を生かして左上手を取って寄る取り口で、両膝を負傷していたため、下がり出すと脆かったので上位に定着できなかった。立合いに変わっての叩き込みが多かった。 引退後は、準年寄・巌雄、年寄・小野川を経て山響を襲名。 2014年1月30日に日本相撲協会が公益財団法人に移行したことに伴い、湊川親方、大嶽親方と共に日本相撲協会の評議員に就任した。これに伴い、評議員在任中は番付上の表記が本名の「平野 兼司」となっていた。2016年1月21日に、同年の理事候補選挙への立候補を理由に辞表を提出し、同日中に評議員退任が承認された。[1] 2015年11月場所(九州場所)中の2015年11月20日、部屋付き親方として所属する北の湖部屋の師匠、北の湖敏満(公益財団法人日本相撲協会理事長)が直腸がんによる多臓器不全により死去したため、翌21日の日本相撲協会臨時理事会により、所属力士は親方(師匠)がいないと本場所の土俵に上がれないための緊急措置として師匠代行となり、2015年11月場所中は所属力士は場内アナウンスや星取り表上など北の湖部屋で行われた。場所後に部屋を継承し、北の湖部屋から改称された「山響部屋」の師匠となった。[2] 2016年1月29日に日本相撲協会の理事候補選挙が行われ、10票を獲得して当選を果たした[3]。この時から山響は貴乃花派と見られており[4]、同年3月28日の理事会で行われた理事長選では、当選した現職理事長の八角(元・北勝海)ではなく貴乃花を相撲協会の新しい理事長に推している[5]。 日本相撲協会理事としては2期4年務め、在任中は相撲教習所の所長を務めた[6]。 2018年2月3日の理事候補選挙では事前の報道によると前回獲得した票数である10票に達することは難しいと見られており、実際に8票しか獲得できなかったが、2016年1月の理事候補選挙で自身が推していた貴乃花が2票の獲得にとどまったため2選を果たす[7]。2020年の理事候補選挙では3選を目指していたが劣勢が予想されており、出馬を見送った。これにより選挙は6期12年ぶりの“無風”で立候補者の無投票当選が決定した[8]。 エピソード[編集]

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