Month: September 2021

水崎基一 – Wikipedia

水崎 基一(みずさき もといち、1871年(明治4年)9月28日 – 1937年(昭和12年)11月29日)は、日本の経済学者、教育者。同志社大学経済学部教授を経て、浅野綜合中学校(現・浅野中学校・高等学校)初代校長。クリスチャン。なお、書、漢詩、短歌[1]の雅号は濃川。 少年時代[編集] 1871年(明治4年)9月28日、7月の廃藩置県直後の松本県(11月に筑摩県となった)筑摩郡北深志下下町[3](現・松本市)に、旧松本藩士水崎好照の長男として誕生した[4]。廃藩置県の混乱と大家族だった水崎家の困窮の中で、1878年(明治11年)、2年前に新校舎が建設された、文明開化を象徴する開智学校に入学し、松本新聞社[5]に勤務しながら苦学して通った。1883年(明治16年)に旧制長野中学(現・長野県長野高等学校)に進学、1年修了の頃、小木曽庄吉弁護士の書生となり、2年余り毎日細字を清書して学資を得た[6]。1886年(明治19年)、税務署勤務の父好照の静岡転勤を機に静岡に移り、静岡安西1丁目南裏町にあった、松下之基が開館していた各種学校の文武館[7][8]で英語、数学、漢学を学んだ。当時静岡尋常中学校の生徒だった、13歳の上田敏も同年文武館で松下の教えを受けている[9]。偶然にキリスト教に接し、静岡バンドが源流となった、静岡メソジスト教会(現・日本基督教団静岡教会)に通い牧師や宣教師の教えを聞くうちに、「感ずる所深く、それも教会に入りて、善心を得、誘惑に打ち勝ち、正しき生涯を送らんと欲し、入会を決心」し、1887年(明治20年)6月に同教会でカナダ・メソジスト教会[10]の宣教師キャシディ[11][12][13]より洗礼を受けた[14][15]。 クリスチャンとして[編集] 同志社キャンパス、1886年 同年6月に伊豆国韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)に進学、そこで徳富蘇峰の『将来之日本』[16]を目にし、1875年(明治8年)に京都にキリスト教精神に基づく同志社が新島襄により設立されたことを知った[17]。1888年(明治21年)6月に単身上洛、同志社大学の前身校の一つである同志社普通学校に入学、校長新島襄から直接教えを受け、深い敬慕の念を抱いた。同年11月には新島の起草による「同志社大学設立の旨意」が、蘇峰の国民之友をはじめ、全国の主要な新聞や雑誌に発表された。しかし大学設立のための募金集めに奔走していた新島は、1890年(明治23年)1月に神奈川県大磯で亡くなった。七条駅から新島邸までみぞれの降る中、水崎は多くの学友と共に柩を運び、埋葬の際は若王子山上の墓地まで柩を担いで登った。縁あって1890年(明治23年)から卒業まで滋賀県知事中井弘(桜洲山人)から学資の給与を受けた。後に学資の元利を揃えて中井の遺族に返済したが受け取らなかったため、1905年(明治38年)に中井奨学金と名付けて同志社に寄付した。中井奨学金は同志社の最初の奨学金である[17]。 1893年(明治26年)に同志社を卒業、父と慕い、毎週土曜には清談高論を拝聴した恩人の中井の紹介で、蘇峰の国民新聞社に内定していたが、思う所あって同志社卒業生の例に倣い、北海道集治監の教誨師になることを決心した。中井も快く賛成し、北海道長官北垣国道に懇切丁寧な紹介状を書いてくれた。7月の別れの際に、中井は1枚の写真と寒地故にと着用していた黒紋付きを脱いで渡してくれたが、これが永遠の別れとなった[18]。水崎は8月に樺戸集治監に教誨師として赴任した。日本で最初に監獄改良問題を取り上げ、1876年(明治9年)に内務卿大久保利通に調査意見書を提出した、日本における「監獄改良の父」と称される米国人宣教医ジョン・カッティング・ベリーは草創期の同志社の教壇に立っていたことがあり、同志社卒業の社会事業家の多くは監獄改良事業を出発点としている[19]。 当時北海道では、明治政府の北海道開発計画及びロシアの東進に備える防衛政策と萩の乱、西南戦争等の士族反乱や加波山事件、秩父事件をはじめ自由民権運動による政治犯を含む囚人の激増[20]が結び付き、内務卿山縣有朋の応報刑論に基づく「苦役本分論」[21]の強い影響力によって、人権を無視した非道な囚人労働による開拓が行われていた。初のキリスト教系教誨師の原胤昭は、1888年(明治21年)から北海道の集治監で、囚人労働廃止へ向け監獄改良事業に従事した。1891年(明治24年)、次に空知集治監に赴任した同志社英学校別科神学課卒業の留岡幸助の尽力で、神学を学んだ同志社卒業生が教誨師として次々と招聘された[24]。 1893年(明治26年)8月に樺戸集治監、1895年(明治28年)に釧路集治監[25]に赴任した水崎は、同志社卒業の教誨師とともに、監獄改良や囚人の教化善導に、キリスト教人道主義の立場から献身的に取り組んでいた。1894年(明治27年)の水崎の日記によると、2月にエルマイラ感化監獄の週報を読み、「得る処多」く、3月には浮田和民から同監獄の書籍を贈呈され、「一層奮起勉学するの必要」を感じている。4月2日の日記では、吉田松陰[26]伝が到着し、「喜び何ぞ耐えへんや」と記し、読後は涙を禁じ得なかった[27]。米国マサチューセッツ州のエルマイラ・リフォーマトリー(英語版)は体育・知育・実学の三位一体教育を導入した、感化主義の先駆的施設で、1895年(明治28年)に留岡が視察し、院長のゼブロン・ブロックウェイ(英語版)の教えを受け、犯罪者に懲罰を与えるよりも保護・教育して更生させる感化事業に転じるきっかけとなった[28]。 後に「日本社会事業の父」と呼ばれる、メソジスト教会の伝道師生江孝之は、1894年(明治27年)に樺戸集治監で水崎の指導を受け、監獄改良事業に関心を持ち[29]、原、留岡、水崎ら監獄改良に尽力した教誨師の一群を「北海道バンド(樺戸グループ)」と呼び、横浜、熊本、札幌の日本プロテスタント三大バンドと同等の評価をしている[30]。原が結成した「同情会」は1892年(明治25年)に囚人を対象に、文書による教誨や教育を目的に雑誌『同情』(後の『教誨叢書』)を、1894年(明治27年)には監獄官吏向けに月刊誌『獄事叢書』を発行したが、記事の内容は慈善事業や更生保護事業などに関するところも少なくなかった。キリスト教系誨師達の多くは監獄改良や教誨事業を出発点として、後に感化教育事業や社会事業、教育に携わることになった。しかし1894年(明治27年)8月から翌年にかけて起きた日清戦争により民族主義が高まると、キリスト教への反感の風潮が起き、キリスト教精神による教化を進めた北海道集治監樺戸本監の大井上輝前[33]典獄[34]に不敬の風評が広がり、1895年(明治28年)に非職依願免職となった。後任の石澤勤吾典獄は真宗大谷派の僧侶を教誨師に採用し、原、水崎、牧野、山本らキリスト教系教誨師達は声明文を発表して11月に連袂辞職した[36][37]。辞任後の11月27日、永久保秀二郎[38]の日誌によれば、水崎は山本徳尚とともに釧路の春採アイヌ学校を訪問し、生徒の学業や性質等種々の事を筆記している[39]。 官界から実業界へ[編集] 1896年(明治29年)4月に、日清戦争の結果、清国から割譲された台湾の総督府に通訳の任務を命じられた。職名は台湾総督府民政局内事課通訳事務嘱託である。第2代台湾総督の桂太郎、第3代総督の乃木希典や1898年(明治31年)から1906年(明治39年)まで台湾総督府民政長官を務めた後藤新平、三好重道[40]らと交流し、後藤と知己の浅野総一郎と知り合うきっかけとなった。同年6月に杉村濬外事課長[42]の下で、近藤賢二らと共に総督府総務部外事課勤務を命じられた。同月には雲林事件[43]が起きている。12月に1ヶ月間、厦門、仙頭、香港、広東に私費旅行を試み、欧州列強の動向を観察して英国人の実利的な企業家精神に敬服し、大英帝国の都・ロンドンを実際に見てみたいという思いを強くした[44]。1897年(明治30年)9月に再び中国を巡遊し、11月から3ヵ月間、司法省法律顧問の英国人ウィリアム・M・H・カークウッド[45]に随行して台湾全島を巡視し、当地の実情を詳しく調査した[46]。また台湾総督府勤務の3年間に、日本基督教会の河合亀輔牧師の下で日本人および台湾人に布教活動をした[47]。 1899年(明治32年)4月、台湾総督府を辞し、5月に英国に留学、9月にエディンバラ大学に入学し、1901年(明治34年)6月まで政治、経済、歴史等を研究した。さらに同年9月から翌年の6月までロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) で勉学した[49][50]。英国留学時代の英文の日記[51]によると、1901年(明治34年)8月16日にサマースクールの学生達とジョン・ノックス、サミュエル・スマイルズ、トーマス・カーライルの生誕の地であるスコットランドのハディントン(英語版)[52]に旅行し、自らの人生で行動力の源泉となり、励ましとなった『自助論(Self-Help)』の著者サミュエル・スマイルズを訪ね、深い感銘を受けた。8月24日には朝刊でドレフュス事件に関する記事を読み、ドレフュス大尉が予想に反して、再び有罪になり10年の実刑判決を受けたのを知り、フランスは絶望的な状況にあると記し、9月13日の日記では服役中の体調がすぐれないドレフュスの回復を願っている。3年間に及ぶ留学の帰途、数年前に開通したばかりの西シベリア鉄道[53]に乗り、日露戦争前のロシアの状況を同郷の情報将校でシベリア単騎横断をした福島安正に詳しく報告している[54][55]。 1902年(明治35年)8月、英国留学から帰国し、9月に後の浅野財閥の総帥で「京浜工業地帯の生みの親」と言われる、浅野総一郎が1896年(明治29年)に渋沢栄一、安田善次郎、福沢桃介らの出資を受けて設立した東洋汽船に入社、実業界に転身した。また、後に拓殖大学となる東洋協会専門学校の講師も兼任し、植民史の講義をしている。東洋汽船では秘書として[56]浅野に親しく接することになるが、浅野も水崎の人物を信頼し期待した。1906年(明治39年)には東洋汽船顧問として、浅野石油部技師長の近藤会次郎[57]とともに、浅野の夢だった、船を従来の石炭に代わって重油で動かすために、原油を米国から輸入する目的で渡米して石油事業を視察している。

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アフィン多様体 – Wikipedia

代数幾何学において,代数閉体 k 上のアフィン多様体(あふぃんたようたい,英: affine variety)とは,n 次元アフィン空間 kn において,k 係数の n 変数の多項式の素イデアルを生成する有限族の零点集合である.素イデアルを生成するという条件を外したときの集合は(アフィン)代数的集合と呼ばれる.アフィン多様体のザリスキ開部分多様体は準アフィン多様体(英語版)と呼ばれる. X が素イデアル I によって定義されるアフィン多様体のとき,商環 k[x1,…,xn]/I{displaystyle k[x_{1},ldots ,x_{n}]/I} は X

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福井県第1区 – Wikipedia

福井県第1区(ふくいけんだい1く)は、日本の衆議院議員総選挙における選挙区。1994年(平成6年)の公職選挙法改正で設置。 現在の区域[編集] 2013年(平成25年)公職選挙法改正以降の区域は以下のようである[1][2]。2013年の区割変更により、かつての1区区域のほか、かつて3区だった区域のうち福井市の一部、2区であった区域が含まれることとなった。 2013年以前の区域[編集] 1994年(平成6年)公職選挙法改正から2013年の小選挙区改定までの区域は以下のようである[3]。 第41回から第45回までは毎回1万票以内の差で勝負が決まる激戦区であったが、第46回以降は自民党の公認候補で防衛大臣や党政調会長、党幹事長代行などの要職を歴任した稲田朋美が圧勝している。 小選挙区制移行後初の第41回総選挙では、経済企画庁長官などを務めた自民党公認候補の平泉渉、新進党公認候補の笹木竜三の2人の前職に、元参議院議員で旧民主党公認候補の古川太三郎と3人の国政議員経験者に加え、自民党から公認を得られず無所属での立候補となった通商産業省出身の松宮勲もあわせた争いとなったが、笹木が小選挙区で勝利している(ただし、笹木にとっては現在まで唯一の小選挙区勝利)。 第42回以降は、落選した平泉に代わって自民党の公認を得た松宮が2回連続で小選挙区当選。一方の笹木は新進党の解党を受けて自民党入りを模索したが松宮との公認争いに敗れ、2回連続で無所属での立候補となり、いずれも松宮に敗れているが、双方が接戦となる対決構図となっていた。 この対決構図に変化が生じたのが2005年のいわゆる「郵政選挙」となった第44回総選挙で、松宮が郵政民営化関連法案に反対したため自民党の公認を得られず、無所属での立候補を余儀なくされた。自民党は松宮に対しいわゆる「刺客候補」として稲田朋美を送り込み、民主党の公認を初めて得た笹木も加えて三つ巴の戦いとなった。大接戦の末、稲田が373票差で笹木を下して当選。僅差で敗れた笹木も重複立候補していた比例北陸信越ブロックで復活当選し、5年ぶりに国政に復帰した。その一方で、松宮は議席を失い、自民党から離党勧告処分を受けて離党。その後2007年に民主党へ入党し、選挙区を福井3区へ移した。 2009年の第45回総選挙では、民主党への追い風と自民党への逆風から笹木と稲田の支持が拮抗していると事前に伝えられたが、結果は前回よりも大差の6,850票差で稲田が笹木を破った(笹木も比例復活当選)。 2012年の第46回総選挙では、一転して民主党に対する逆風もあり、稲田が次点以下を倍以上の得票で下し3選。笹木は比例復活も出来ず、議席を失った。 2014年の第47回総選挙では、前回日本維新の会から立候補し、その後維新の党公認候補となった元福井県議会議員の鈴木宏治との選挙協力のため笹木が初めて立候補を取りやめたが稲田が大勝。その後も稲田の大勝が続いている。 小選挙区選出議員[編集] 選挙結果[編集] 時の内閣:第1次岸田内閣 解散日:2021年10月14日 公示日:2021年10月19日当日有権者数:37万5210人 最終投票率:56.82%(前回比:2.03%) (全国投票率:55.93%(2.25%)) 時の内閣:第3次安倍第3次改造内閣 解散日:2017年9月28日

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戸定梨香 – Wikipedia

戸定 梨香(とじょう りんか)は、日本のバーチャルYouTuber。 Art Stone Entertainmentが運営するMCN『VASE』に所属する、”自称”千葉県松戸市ご当地バーチャルYouTuberであり、松戸市のプロモーション活動を行っているとされるが、実際はほとんどそのような活動はしていない。松戸市での知名度は低く、市の公認VTuberではない。[1][2]。2020年4月に活動を開始した[3]。動画投稿サイトで松戸市の魅力を発信したり、各施設で大型スクリーンを通じて住民と交流するなど地域に根差してきた[4]。2021年7月16日より、松戸警察と松戸東警察の交通安全啓発活動に参加した。名前は松戸市に所在する重要文化財である戸定邸と、松戸発祥の名産品、二十世紀梨に由来し、髪も梨と同じ色である。勝手に戸定邸の名前を使われ、不愉快に思う市民もいる。[5][4]。毎朝ショート動画の「まいにちりんか」を投稿し、歌や踊り、『雀魂 -じゃんたま-』をはじめとするゲームプレイ動画を投稿している。2021年2月以降は3Dモデルでも活動した[3]。 2021年10月、交通安全の啓発として松戸市のバイク販売店に戸定梨香の等身大パネルが置かれた[6]。 クラウドファンディングをして、松戸市内にラッピングバスを走らせようとした。ファンのおかげでお金はすぐに集まったが、バス会社に反対意見が寄せられたため難航している。 動画の削除[編集] 2021年9月10日までに、若い世代に興味を持ってもらうためにと千葉県警が公開していた交通安全啓発を目的とする戸定梨香の動画が「全国フェミニスト議員連盟」の抗議を受けて削除された[7][8]。全国フェミニスト議員連盟は、キャラクターが性的で不適切だとの抗議文を千葉県警や松戸市に送付していた[9]。 ネット上では抗議に納得できないとする怒りの声や[10]、「男女不平等を助長している」、「魔女狩り」、「表現の自由の侵害」として全国フェミニスト議員連盟を非難する書き込みが投稿された[11]。また、Art Stone Entertainment代表の板倉節子は、「見た目を理由に、本来の作品の意図を無視して活動を抑制させようとすることは、それ自体が逆に女性蔑視ではないか」と述べ、全国フェミニスト議員連盟の行動に疑問を呈した[12]。大田区議会議員の荻野稔と青識亜論は、Change.orgで全国フェミニスト連盟に対する抗議を目的とした署名を募集し[3][13][4]、7万件以上の署名を得た[14]。千葉県警交通課は、2021年10月29日に取材に対して「戸定さんを起用することに関する協定は、今年7月に結んでいますが、それは現在も有効なものとして考えています」と回答し、戸定梨香の起用協定自体は現在も有効であるとし、再起用の可能性を示唆した。また戸定梨香の衣装等について「性的なものとは考えておらず、不適切ではない」と改めて回答し、全国フェミニスト議連の抗議が削除の理由となったことは認めつつ、「議連の意見を正当なものとして受け入れたわけではない」と説明した[15][16]。 本件以後、戸定梨香のTwitterアカウントはフォロワーが7日間で76%増加した[3]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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白井屋ホテル – Wikipedia

白井屋ホテル(しろいやホテル)は、群馬県前橋市のホテル。アート・ディスティネーション[1]。 前身の白井屋旅館は300年の歴史を持つ老舗旅館で、旧宮内庁御用達であり、乃木希典や森鴎外ら著名人に愛されたが、2008年に廃業した。市外のマンション業者に跡地が売り出され街の景観などに影響が出ることを危惧した『一般社団法人 前橋まちなかエージェンシー』代表理事や『アーツ前橋』館長らの相談を受けた田中仁[2]の財団が、前橋市の町おこしを兼ねてこの旅館を再生させるプロジェクトを立ち上げ[3]、建築家の藤本壮介、芸術家のレアンドロ・エルリッヒ、プロダクトデザイナーのジャスパー・モリソンらが「ほぼボランティアで[4]」参加した[5]。エルリッヒが参加したのは、藤本の建築のファンだったからだという[6]。 2020年12月、開業。 2021年7月、新型コロナウィルスに対応する医療従事者を応援する割引プランの取り扱いを開始[7]。 2021年、米国のインテリア雑誌『AD(アーキテクチュラル・ダイジェスト)』の「2021 AD Great Design Hotel Award」を受賞[8]。 同年、ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー誌の「National Geographic Traveller Hotel Awards 2021」にベストデザインホテル部門で入選[9]。 2021年9月にブルーボトルコーヒーのカフェがホテル内に出店された。大都市以外では初の出店であった[10]。上毛新聞は開店日に百人の行列ができたと報じた[11]。このカフェの設計をしたのは芦沢啓治である[12]。 2021年10月、ドバイを拠点とするGolden Tree

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球辞苑 – Wikipedia

球辞苑 ジャンル スポーツ番組バラエティ番組 出演者 塙宣之 他 オープニング イングヴェイ・マルムスティーン、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団「エレクトリック・ギターとオーケストラのための協奏組曲 変ホ短調『新世紀』」第11曲「プレスト・ビバーチェ」 製作 プロデューサー 安出光伸(制作統括)江刺一誠(制作統括) 制作 NHK(放送波はBS1) 放送 音声形式 ステレオ 放送国・地域 日本 球辞苑

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ユリウス・ポルクス – Wikipedia

ユリウス・ポルクス(ラテン語: Iulius Pollux、英語: Julius Pollux、fl. 2世紀ごろ)は、ローマ帝国期のアテナイで活動した、エジプトのナウクラティス出身の学者[1][2][3]。文法学者、弁論家、第二次ソフィスト。古代の辞典『オノマスティコン』の編纂者として知られる[1]。 ポルクスではなくポルックス[4]、ポッルクス[5]とも表記される。古代ギリシア語に即した表記はイウーリオス・ポリュデウケースまたはユリオス・ポリュデウケス[6](Ἰούλιος Πολυδεύκης, Ioulios Polydeukēs)。 ピロストラトスの『ソフィスト列伝』にポルクス伝があり、略歴や人物評、弁論の例が記されている[1]。 ローマ帝国期のエジプトのナウクラティスで生まれた。同地で少年期を過ごした後、アテナイに赴き、第二次ソフィストのテュロスのハドリアヌス(英語版)のもとで弁論術を学んだ。その後、アテナイで弁論術の学校を開いた。その弁論術の腕前によってコンモドゥス帝から寵愛され、アテナイの弁論術教授の席を賜った[1][8]。弟子にソフィストのアンティパトロス(英語版)がいる[1]。 同時代の風刺作家ルキアノスの『レクシパネース』(Λεξιφάνης)で、風刺の対象になっている[1]。同じくルキアノスの『弁論教師』(Ῥητόρων Διδάσκαλος)のモデルとも推測される[10]。 ポルクスは、全10巻からなる古代ギリシア語の辞典『オノマスティコン』(Ὀνομαστικόν, Onomasticon)の編纂者として知られる[1]。 『オノマスティコン』は、その題名の通り、様々な「オノマ」(名前・名辞、ὄνομα)について説明する書物であり、日本語では『名前の書』[12]、『語彙辞典』[2]、『辞林』[13]などとも訳される。なお、「オノマスティコン」という題名の書物は、同書以外にもある[注釈 1]。 同書は辞典・百科事典のような形式をとりつつも、項目をアルファベット順ではなく分類順に並べて、シソーラスのような形式で書かれている[1][12]。扱う項目は多岐にわたり、現代の西洋古典学や文化史の研究においても時々参照される。とりわけ、演劇史や音楽史、法制史や法廷弁論に関する項目が注目に値する[3]。珍項目として、収税吏(英語版)に対する罵倒語の一覧がある。項目の多くは、1世紀の学者、アレクサンドリアのパンフィロス(英語版)に依拠している[3]。項目にはしばしば、散逸した文献の断片が収録されている。 16世紀には、アルドゥス・マヌティウスらによって『オノマスティコン』の版本が出版された[1]。また、スイスのプロテスタントの神学者、Rudolf

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両国ピーターパン2014〜人生変えちゃう夏かもね!〜 – Wikipedia

ダークマッチ1 東京女子プロレス提供試合 KANNA木場千景○山下実優 8分52秒クラッシュ・ラビットヒート えーりん●坂崎ユカ中島翔子 ダークマッチ2 DDTvsユニオン対抗戦 河村知哉三富政行●SAGAT風戸大智 7分44秒ブエノスアイレス午前二時 勝俣瞬馬伊橋剛太美月凛音星誕期◯ 第1試合 彰人●ヤス・ウラノ 11分07秒ディープ“M”インパクト GENTAROMIKAMI○ 第2試合 「総研グループ」プレゼンツ アイアンマンヘビーメタル級選手権バトルロイヤル 特別リングアナ LiLiCo 出場選手(入場順)佐々木大輔、遠藤哲哉、清水愛、松永智充、平田一喜、FUMA、才賀紀左衛門、DJニラ、アキヒロ(第1006代王者)、ヨシヒコ、大鷲透、越中詩郎、ゴージャス松野、のの子

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michitomo – Wikipedia

michitomo 別名 大華奈央香 生誕 (1977-05-18) 1977年5月18日(44歳) 出身地 日本・北海道帯広市 学歴 北海道帯広柏葉高等学校卒業 公式サイト http://www.michitomo.net/ michitomo(みちとも、1977年5月18日)は日本の音楽プロデューサー・作詞家・作曲家・編曲家・トラックメイカー・リミキサー。北海道帯広市出身。北海道帯広柏葉高等学校卒業。野付牛自動車学校を卒業している。大華奈央香名義で作詞を行った作品がある[1]。 声優 五十嵐雅とのユニット「おこさまブランチ」のメンバー、山田昌治(YU-M エンターテインメント代表取締役)、劔樹人(ベーシスト、漫画家)と「Around 40 Japanese Guyz」を立ち上げ、メンバーでもある。 目次

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立花実山 – Wikipedia

立花 実山(たちばな じつざん、明暦元年(1655年) – 宝永5年11月10日(1708年12月21日))は、江戸時代の茶人で、福岡藩の家老。福岡藩の重臣立花重種(しげたね、黒田平左衛門、薦野増時の孫)の次男。通称は五郎佐衛門。実山は道号で、諱(実名)は重根(しげもと)。出家して宗有と号する。織部流を基本とし、道安流と遠州流を加え、南坊流(立花流)を開いた。若くして貝原益軒や京の木下順庵に学び書や和歌を能くし、また禅にも通じ禅寺を開基した。兄に立花重敬(黒田次郎太夫)、弟に立花増武、立花峯均、立花重躬、子に立花不白、甥に笠原道桂がいる。妻は野村太郎兵衛裕春の次女。 父の重種は1万5000石で黒田姓を許されていた。父の家督は兄の重敬が相続し、実山は3代藩主黒田光之に45年間の長きにわたって仕え、最後には隠居頭取となり3000石余の禄を受けた。延宝5年(1677年)2月、光之は嫡男・綱之を廃嫡し、東蓮寺藩を継いでいた三男・長寛(綱政)を後継ぎと新たに定めたことに異議を唱えたが、聞き入れられなかった。和歌に関しては、中院通茂に古今伝授を受けた。元禄元年(1688年)、光之が隠居して綱政が新藩主となると、綱之の用人として配されたこともあり、光之に仕え隠居頭取となった。 元禄3年(1690年)、千利休およびその高弟南坊宗啓の茶道の秘書といわれる「南方録」を書写し、さらにこれに補足を加え、秘伝9ヶ条にまとめて「南方録」7巻を著した。これは利休の侘び茶を理論的に著述したものである。元禄9年、東林寺を建立し、帰依していた曹洞宗の僧・卍山道白を開祖に同寺を開基した。宝永2年(1705年)、弟子の4人(子の不白、峯均、固本、自得庵)に南方録の書写を許可した。宝永4年、長年仕えた藩主黒田光之が没したのちに東林寺で出家し、住吉村の松月庵に閑居した。 宝永5年6月3日、光之の跡目をめぐっての「綱之騒動」の巻き添えとなり、義父の野村祐春にお預けとなり、嘉麻郡鯰田村に幽閉された。同年11月、黒田綱政の命により殺害された。幽閉中に「瑞鳳山東林寺後々之記」「梵字艸(ぼんじそう)」3巻を著した。没後40年、6代藩主黒田継高により東林寺(現・博多区博多駅前3丁目)に改葬された。 参考文献[編集] 戸田勝久『南方録の展開』 熊倉功夫『南方録を読む』 (西日本新聞)『福岡県百科辞典』 関連項目[編集]

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