ズバイル・イブン・アウワーム – Wikipedia
アッ=ズバイル・イブン・アル=アウワーム(アラビア語: الزبير بن العوام بن خويلد、Az-Zubayr ibn Al-Awam 、594年? – 656年)はイスラム教初期の人物で、預言者ムハンマドの直弟子(教友、サハーバ)の一人に数えられる。クライシュ族のアサド家の出身。父のアウワームはムハンマドの妻ハディージャの兄弟、母のサフィーヤ・ビント・アブドゥルムッタリブはムハンマドのおばであり、ズバイルはムハンマドの従兄弟にあたる[1]。正統カリフ・アブー・バクルの娘アスマーを妻とした。 ムハンマドの近親であるズバイルは最初期にイスラームを受容したと考えられており、ムハンマドはズバイルに「ハワーリー(使徒)」という仇名を与えた[1]。656年にムハンマドの寡婦アーイシャ、同じサハーバのタルハとともにカリフ・アリーに反乱を起こすが、ラクダの戦いで敗死した。 ムハンマド存命時[編集] 594年頃にズバイルはメッカ(マッカ)で生まれたと言われている[2]。8世紀のアッバース朝時代の伝承学者イブン・イスハークは、イスラームの教えを受け入れたばかりのアブー・バクルの呼びかけに応じて改宗した最初期の信徒の中に、ズバイルの名前を記している[3]。 ムハンマドたちがメッカ(マッカ)の住民から迫害を受けた際にウスマーンら一部の信徒はエチオピアに避難し、ズバイルも避難者の一団に加わっていた。ズバイルはエチオピア移住団の中で最年少であり、エチオピア王ナジャーシーに対する反乱が起きた際に戦場に赴き、ナジャーシーの勝利を確認して仲間たちに吉報をもたらした[4]。後にズバイルはマディーナのムハンマドと合流し、多くの戦闘に参加する。 624年のバドルの戦いにおいてはムハンマドの従兄弟アリーと共に斥候を務め、水を補給するメッカのクライシュ族に攻撃を加えた[5]。629年のハイバル征服(英語版)では、ズバイルはムハンマドに敵対するナディール族の戦士ヤースィルを一騎討ちで破ったことが伝えられている[6]。ハイバルの攻略後、ズバイルは遠征に参加した他の教友や部族集団と同様に、18に区画された土地の一つを授与される[7]。翌630年、メッカ攻撃に際してムハンマドはズバイルに下手からメッカを攻撃するよう命令し、ズバイルは指示に従って行軍した。 ムハンマドが没した時、ズバイルはアリー、タルハとともにファーティマ(アリーの元に嫁いだムハンマドの娘)の家に立て篭もり、新たな指導者を選出する場に姿を現さなかった[8]。 ムハンマド没後[編集] 640年7月にはエジプト遠征に向かったアムルのために10,000の兵士を率いてヘリオポリスの戦い(英語版)の戦いに参加する[9]。出陣の前、二代目の正統カリフ・ウマルはズバイルにエジプトの統治に興味はないか尋ねたが、エジプトの支配よりも征服活動の従事を望む旨を答えた[10]。フスタートの包囲においてズバイルは梯子をかけて城壁を登り、イスラーム軍の先陣を切った[10]。戦後、ズバイルはイスラーム軍がエジプトの土地の分配を求め、あるいは分配された土地に邸宅を建てたことが伝えられている[10]。644年、ウマルは死に際してズバイル、アリー、ウスマーン、タルハ、アウフ、アブー・ワッカースら6人のサハーバ(教友)に後事を託した。協議(シューラー)においてズバイルは自らの権利を放棄してアリーを推薦したが、最終的にウスマーンが新たなカリフとなる[11]。 ウスマーンの死後、ズバイルはアリーの即位に反対していたが、バイア(忠誠の誓い)を行って一度はアリーの即位を認める。しかし、小巡礼(ウムラ)に発つことを口実にタルハと共にマディーナを脱出し、メッカに滞在していたムハンマドの寡婦アーイシャと合流する。アリーの即位に反対する3人はアリーにウスマーン暗殺の責任を問うことで意見を一致させ、ウスマーン暗殺の首謀者はアリーであると喧伝した[12]。
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