Month: January 2022

ズバイル・イブン・アウワーム – Wikipedia

アッ=ズバイル・イブン・アル=アウワーム(アラビア語: الزبير بن العوام بن خويلد‎、Az-Zubayr ibn Al-Awam 、594年? – 656年)はイスラム教初期の人物で、預言者ムハンマドの直弟子(教友、サハーバ)の一人に数えられる。クライシュ族のアサド家の出身。父のアウワームはムハンマドの妻ハディージャの兄弟、母のサフィーヤ・ビント・アブドゥルムッタリブはムハンマドのおばであり、ズバイルはムハンマドの従兄弟にあたる[1]。正統カリフ・アブー・バクルの娘アスマーを妻とした。 ムハンマドの近親であるズバイルは最初期にイスラームを受容したと考えられており、ムハンマドはズバイルに「ハワーリー(使徒)」という仇名を与えた[1]。656年にムハンマドの寡婦アーイシャ、同じサハーバのタルハとともにカリフ・アリーに反乱を起こすが、ラクダの戦いで敗死した。 ムハンマド存命時[編集] 594年頃にズバイルはメッカ(マッカ)で生まれたと言われている[2]。8世紀のアッバース朝時代の伝承学者イブン・イスハークは、イスラームの教えを受け入れたばかりのアブー・バクルの呼びかけに応じて改宗した最初期の信徒の中に、ズバイルの名前を記している[3]。 ムハンマドたちがメッカ(マッカ)の住民から迫害を受けた際にウスマーンら一部の信徒はエチオピアに避難し、ズバイルも避難者の一団に加わっていた。ズバイルはエチオピア移住団の中で最年少であり、エチオピア王ナジャーシーに対する反乱が起きた際に戦場に赴き、ナジャーシーの勝利を確認して仲間たちに吉報をもたらした[4]。後にズバイルはマディーナのムハンマドと合流し、多くの戦闘に参加する。 624年のバドルの戦いにおいてはムハンマドの従兄弟アリーと共に斥候を務め、水を補給するメッカのクライシュ族に攻撃を加えた[5]。629年のハイバル征服(英語版)では、ズバイルはムハンマドに敵対するナディール族の戦士ヤースィルを一騎討ちで破ったことが伝えられている[6]。ハイバルの攻略後、ズバイルは遠征に参加した他の教友や部族集団と同様に、18に区画された土地の一つを授与される[7]。翌630年、メッカ攻撃に際してムハンマドはズバイルに下手からメッカを攻撃するよう命令し、ズバイルは指示に従って行軍した。 ムハンマドが没した時、ズバイルはアリー、タルハとともにファーティマ(アリーの元に嫁いだムハンマドの娘)の家に立て篭もり、新たな指導者を選出する場に姿を現さなかった[8]。 ムハンマド没後[編集] 640年7月にはエジプト遠征に向かったアムルのために10,000の兵士を率いてヘリオポリスの戦い(英語版)の戦いに参加する[9]。出陣の前、二代目の正統カリフ・ウマルはズバイルにエジプトの統治に興味はないか尋ねたが、エジプトの支配よりも征服活動の従事を望む旨を答えた[10]。フスタートの包囲においてズバイルは梯子をかけて城壁を登り、イスラーム軍の先陣を切った[10]。戦後、ズバイルはイスラーム軍がエジプトの土地の分配を求め、あるいは分配された土地に邸宅を建てたことが伝えられている[10]。644年、ウマルは死に際してズバイル、アリー、ウスマーン、タルハ、アウフ、アブー・ワッカースら6人のサハーバ(教友)に後事を託した。協議(シューラー)においてズバイルは自らの権利を放棄してアリーを推薦したが、最終的にウスマーンが新たなカリフとなる[11]。 ウスマーンの死後、ズバイルはアリーの即位に反対していたが、バイア(忠誠の誓い)を行って一度はアリーの即位を認める。しかし、小巡礼(ウムラ)に発つことを口実にタルハと共にマディーナを脱出し、メッカに滞在していたムハンマドの寡婦アーイシャと合流する。アリーの即位に反対する3人はアリーにウスマーン暗殺の責任を問うことで意見を一致させ、ウスマーン暗殺の首謀者はアリーであると喧伝した[12]。

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株主コミュニティ – Wikipedia

株主コミュニティ (かぶぬしコミュニティ)とは、証券会社が日本国内の非上場株式を、特定の投資家に対して投資勧誘することを認める制度のことである[2][3]。 地方に根差した企業などが資金を調達しやすくなるように、これまでほとんど認められていなかった一般投資家による非上場株式の取引活性化を図ることで、非上場株式を発行する企業の取引・換金ニーズに応え、地場企業の資金調達方法の選択肢を増やすことを目的として2015年5月に創設された株式の相対取引制度の一つである[2][3][4][5]。 上場株式の取引ではなく、また取引できる投資家も株主コミュニティ参加者に限られるため、インサイダー取引規制の適用を除外し、財務内容の開示義務も上場銘柄に比べ緩和されている[2][6]。もっとも、これについては、株主コミュニティ参加者に対してであれば、自由な取引勧誘ができるため金商法第67条の18第4号に規定する「売買その他の取引の勧誘を行うことを禁じていない有価証券」に該当するうえ、株主コミュニティ銘柄は株主コミュニティ参加者内でのみ取引ができるとされるが、投資家が株主コミュニティへ参加することに関してはほぼ制限がないことから金商法第67条の18第4号に規定された「流通性が制限されていると認められる有価証券」にも抵触しないため、開示義務はグリーンシート等と同様に、上場銘柄並みに課すべきとする意見もある[注 1][7]。 この制度は、2018年3月31日に廃止されたグリーンシート制度に代わる制度としての側面も有している[2][3][8]。なお制度の創設は2015年5月29日であるが、実際の指定と運営が実施されたのは今村証券が2015年8月28日に受けたものが最初のものとなる[9]。 投資勧誘[編集] 株主コミュニティは、証券会社が非上場株式の銘柄ごとに株主コミュニティを組成する[10]。このコミュニティに自己申告により参加する投資家に対してのみ[注 2]投資勧誘が認められており、その証券会社の顧客ではない者や、顧客であってもそのコミュニティに参加する意思表示をしていない投資家は、株主コミュニティ内で取引される銘柄について、コミュニティ内での取引をすることはできず、また顧客に対して証券会社がコミュニティへの参加を勧誘することも禁止されている[4][10]。また投資勧誘以外に直近の取引状況や売買需要の報告についても、コミュニティ参加者のみが受けることができるとされる[5][10]。 この制度を推し進める日本証券業協会は、投資勧誘の対象となる株主コミュニティの参加者には、「その会社の役員、従業員、その親族、株主、継続的な取引先といった会社関係者」など、対象となる銘柄に縁のある人、あるいは「新規成長企業等への資金供給により成長を支援する意向のある投資家」、更に、「地域に根差した企業の財・サービスの提供を受けている(又は受けようとする)ことから株主優待を期待する」人が株主コミュニティへの参加を希望すると予測している[10]。実際、2017年12月に日本経済新聞が報じたところによると、同年12月15日現在16銘柄の株主コミュニティが組成・運営されているが、組成・運営されている銘柄の内訳は優待乗車券目当ての投資家がコミュニティに参加する地方の鉄道会社やバス会社が多いということである[2]。 株主コミュニティ制度の運営は、日本証券業協会の登録を受けた証券会社であり、かつその指定を受けている者によリ行われる必要がある。また運営する上では、運営元となる証券会社は取り扱う株式とその株式を発行する会社の財務状況等について審査を行い、適当と認めた場合にのみ、株主コミュニティを作ることができるとされる。 グリーンシートとの関連性[編集] 元々、日本には1997年より非上場株式の売買について、グリーンシートと呼ばれる制度があり、このグリーンシート銘柄として登録された会社の株式であれば、一定の制限の範囲内で売買をすることが可能であった[5][12]。2005年3月31日までは、その中にリージョナル区分という区分も存在し、北日本放送や富山地方鉄道、YKK、立山黒部貫光や北陸鉄道など、現在は株主コミュニティの間での売買が可能である銘柄を含め、北陸地方に本社を置く銘柄が数多く取引されていた。しかし、グリーンシート制度解禁後の証券取引所の上場基準の緩和や、情報開示といったコストが企業側にとって重い負担と見做されるようになったこと、及び取り扱う証券会社の減少や銘柄に対するマーケットインフラとしての機能が不十分であったことなどから、結局のところ、あまり利用が広がらなくなり、実質的に開店休業状態となった[3][5][13][12]。金融庁はこういった事実を重く見た上で、地域に根ざした企業がより資金調達をしやすくすなるような新たな制度を構築していくことの必要性を指摘し、日本証券業協会において、この必要性を踏まえグリーンシート制度に変わる非上場株式の取引・交換ニーズを満たすための新たな制度として誕生させたのが株主コミュニティ制度である[注 3][5][14]。 現状の株主コミュニティ制度には主に次のような課題があることが指摘されている。 適時開示義務をなくした代償として、証券会社は不特定多数の個人を勧誘できない[注 4][3][15]。また、営業の現場では説明と勧誘を明確に区別することは困難であり、営業担当者は必要以上に神経を使う必要がある[15]。 株式を売買できる「コミュニティ」に入るには、銘柄にもよるが運営する中小証券に口座を作る必要がある[3]。 銘柄によっては売買が低調で流動性が低い[注 5][15]。

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マッキム・マリオット – Wikipedia

マッキム・マリオット(McKim Marriott)は、アメリカの人類学者。1955年にシカゴ大学で博士号を取得。 マリオットは、アジアの村人や都市生活者、日本を含むアジアの専門家を研究してきた。彼は、しばしば人々を理解する上で障害となる西洋のカテゴリーを批判し、異なる文化的現実を研究するための代替モデルを考案した[1][2][3][4][5][6]。 主な出版物[編集] 1998 The female family core explored ethnosociologically. Contributions to Indian Sociology. 32: 279-304 1997 A Description

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いい加減にします! – Wikipedia

『いい加減にします!』(いいかげんにします)は、1984年10月13日[1]から1985年3月30日[2]まで日本テレビで放送されたバラエティ番組(お笑い番組)。放送時間は毎週土曜 22:30 – 22:57(JST)[3]。 三宅裕司、伊東四朗(初期は植木等)、西田敏行と、三宅が主宰するスーパー・エキセントリック・シアター(SET)らが出演し[4]、30分間ショートコントだけで構成されていた。関東では既にSETの主宰としてだけでなく、ラジオ番組『ヤングパラダイス』などにより若者の間で人気を博していた三宅裕司の名が全国的に知られ、三宅自身がエンターテイナーとしても才能を発揮する礎となった。 オープニングは当初コントから始まり、最後に植木が「いい加減にしまーす!」と叫んでオチをつけていた。その後、伊東に交代してからは普通のオープニングタイトルとなり、最後に「いい加減にしろ」とサザンオールスターズの桑田佳祐が言うと「いい加減にしまーす!」と出演者一同で答える集団タイトルコールがあった。また、番組最終回のラストではこのアレンジで「いい加減にしましたー!」のコールで締めくくった。 番組は半年で終了したが、その後すぐに同じく三宅出演の『三宅裕司じゃん!』が日曜夕方枠で放送され、さらにその3か月後には『大きなお世話だ』と『ごきげん!月曜7時半』が放送された。後に三宅と伊東の2人で、この番組のノリを持ち込んだ舞台『いい加減にしてみました』を上演している。 『いい加減にします!』が週一レギュラーで始まる前にサザンオールスターズと共演したコント番組『サザンの勝手にナイトあっ!う○こついてる』(日本テレビ、1984年4月~9月・全5回放送)があり、それがきっかけとなって当番組が始まった。三宅は『勝手にナイト』出演で無名だった自分らを有名に押し上げてくれたことで「桑田佳祐は恩人」と発言している。 舞台 1997年7月 「いい加減にしてみました」 出演:伊東四朗、三宅裕司、劇団SET 2002年1月 「いい加減にしてみました2」 出演:伊東四朗、三宅裕司、小倉久寛 2010年3月 「いい加減にしてみました3」 出演:伊東四朗、三宅裕司、沢口靖子 3はWOWOWでも放送された。3作ともDVDが発売されている。 スタッフ[編集]

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桐島ゆか – Wikipedia

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孤独 (アルバム) – Wikipedia

『孤独』 シャ乱Q の スタジオ・アルバム リリース 1998年3月25日 録音 – ジャンル J-POP レーベル BMG JAPAN チャート最高順位 週間6位(オリコン) 登場回数8回(オリコン) ゴールドディスク ゴールド(日本レコード協会) シャ乱Q アルバム

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書道♡ガールズ 青い青い空 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “書道♡ガールズ 青い青い空” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年4月) 『書道♡ガールズ 青い青い空』(しょどうガールズ あおいあおいそら)は、2010年10月9日に浜松市で公開された太田隆文監督による日本映画。 『青い青い空』が最終的な正式タイトルであり、このタイトルで翌2011年に東京都、千葉県でも公開された。東京公開に合わせて公式HP、監督ブログ、チラシ、ポスターは全て『青い青い空』で統一された。タイトルに関する事情は後述する。 ロスアンゼルスで開催された「Japan Film Festival 2011」に出品された。 静岡県浜松市を舞台にした映画で、浜名湖えんため(環浜名湖の観光振興を考える会)の賛同を得て、2007年に浜松・浜名湖地域振興映画製作プロジェクトの第2弾として製作が開始された。映画製作は通常、大手企業が資金などを提供しているが、この作品の製作資金はすべて地元の有志の寄付によってまかなわれた。 この作品は当初『書道♡ガールズ』のタイトルで製作が進められていたが、後発の日本テレビ製作の映画『書道ガールズ!!

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金珉程 – Wikipedia

獲得メダル  大韓民国 柔道 世界柔道選手権 銅 2017 ブダペスト 78kg超級 金 珉程(キム・ミンジョン、朝: 김 민정、英: Kim Min-Jeong、1988年8月8日 – )は韓国出身の柔道選手。階級は78kg超級。身長179cm。体重95kg[1][2]。以前はキム・ウンギョン(英: Kim Eun-Kyung)と名乗っていた[3]。 目次 1 人物

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