Month: September 2022

水無瀬町 – Wikipedia

水無瀬町(みなせちょう)は、愛知県瀬戸市陶原連区の町名。丁番を持たない単独町名である。 河川[編集] 水無瀬川(矢田川(山口川)支流) : 町の南端、新郷町・瘤木町との境界付近を西流している。 水無瀬川(水無瀬町内) 学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。また、公立高等学校普通科に通う場合の学区は以下の通りとなる[9]。 町名の由来[編集] 大雨が降らない限り水の流れがないことからつけられた水無瀬川の北岸に位置することから名付けられたとされる[10]。 沿革[編集] 世帯数と人口[編集] 2022年(令和4年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[4]。 人口の変遷[編集] 国勢調査による人口の推移 世帯数の変遷[編集] 国勢調査による世帯数の推移。 1995年(平成7年) 513世帯 [11]

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市原又次郎 – Wikipedia

市原 又次郎(いちはら またじろう、1845年4月9日(弘化2年3月3日[1][2])- 1923年(大正12年)4月17日[1][3])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・広三[4]。俳号・旧池、独笑[1][4]。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県[3]岩瀬郡鏡石村字鏡田[1](現鏡石町[1])で大地主・常松健右衛門謙光、せつ の三男として生まれる[4][5]。生後21日目に同郡、のちの須賀川町(現須賀川市)の酒造業・大庄屋、市原朔助の養子となる[4][5]。須賀川の安藤石瀬塾で漢学を修めた[2]。 家業の酒造業を営み、協済社[注 1]社長、須賀川陶瓦社長などを務めた[1][2][3][4]。 河野広中とは1875年(明治8年)の石陽社の設立当時から親交を持ち、1881年(明治14年)自由党福島部の設立に参画し岩瀬組幹事となり自由民権運動に加わる[3][4][5]。同年、福島県会議員に選出され[1][2][5]、1882年(明治15年)4月の福島県会では三島通庸県令提出の議案の否決に組した[4]。同年12月、福島事件で須賀川警察署に拘引され、その後、若松(現会津若松市)に送られたが、1883年(明治16年)2月に証拠不十分で釈放された[1][2][4][5]。しかし、官吏侮辱罪に問われ重禁固10ヵ月、罰金10円の有罪判決を受け福島監獄で服役した[1][4]。 その後、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)まで須賀川町助役を務め、岩瀬郡会議員、須賀川町会議員などにも在任[1][3]。1899年(明治32年)福島県会議員に再選された[4][5]。1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で福島県郡部から立憲同志会公認で出馬して当選し[1][2][4]、憲政会に所属して衆議院議員に1期在任した[3]。 『独笑翁歌句集』市原孝一[注 2]、1925年。 兄 常松次郎太郎(自由民権運動家)[4] 注釈[編集] ^ 金融業。『福島民権家列伝』136頁。 ^ 又次郎長男。東京帝国大学卒の医学博士で諏訪の病院長在任中に死去した。『福島民権家列伝』137頁。 出典[編集]

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智ノ花伸哉 – Wikipedia

智ノ花 伸哉(とものはな しんや、1964年6月23日 – )は、熊本県八代市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。最高位は東小結(1994年1月場所)。現役時代の体格は175cm、117kg。現在は、年寄・玉垣。本名は成松 伸哉(なりまつ しんや)。愛称は「先生」[2]「成松先生」、趣味は映画鑑賞、ゴルフ。血液型はA型[1]。 幼少時に両親が離婚し、叔父夫婦の援助を受けながら育つ。 叔父が法政大学の相撲部出身であったため相撲を始め、日本大学相撲部では全国学生相撲選手権大会を始めとする数々の大会で活躍し、4年生の時には主将を務めた。 大学卒業後は、山口県の中学校や高校で保健体育の教諭として勤めながらアマチュア相撲で活躍し、1989年にはアマチュア横綱のタイトルも獲得している。[3]日本大学の後輩である舞の海の活躍に触発され、大津高校在職中に大相撲入門を決意した[2]。 1992年3月場所、やはり日大の後輩である大翔鳳がいた立浪部屋から幕下付出で初土俵[4]。27歳での初土俵は年6場所制になってから最高齢であり、藤ノ川が年寄・立川を襲名した年齢をも越えたことや妻子持ちでの初土俵も話題になった。[3](同年中に入門資格が20歳未満、幕下付出資格者は23歳未満と改正されたが、年末には23歳未満、幕下付出資格者は25歳未満に緩和)。当時のその年齢と妻子持ちの高校教員であることから入門を決意した際他のどの部屋も敬遠して冷ややかな目で見ていたが[3]、唯一立浪部屋は歓迎していたのでこれが入門の決め手となった。兄弟子の大翔山が旧藤島部屋(現・貴乃花部屋)への入門を突然翻意して立浪部屋へ入門したことが当時の立浪部屋に幕下付出力士が集まるきっかけとなったことから智ノ花も旧藤島勢から立浪勢の1人として憎悪され、貴闘力は特に本場所の土俵で智ノ花に対して手厳しい相撲を取ったという。 プロでの経験不足の心配をよそに順調に出世し、入門から4場所目で幕下優勝して十両昇進、9場所目で新入幕。初の上位挑戦、初めて大銀杏を結って挑んだ場所となった1993年11月場所では、6日目に綱取りの大関・貴ノ花と対戦。相手の激しい突っ張りを凌ぎ、右下手を取った智ノ花。低い体勢からの回転鋭い下手投げを放つと、貴ノ花は右膝から崩れ落ちた[5][2]。初土俵以来11場所連続で勝ち越し、12場所目の1994年1月場所では新小結に昇進した(初日に曙と対戦、取り直しの末惜敗した。この曙との一戦が自身思い出の一番という)[4][2]。これは、幕下付出からの記録では横綱・輪島を抜くスピード三役昇進である。しかし、同場所では大敗を喫して1場所で平幕に陥落し、三役経験はこれが最初で最後となった[4]。 当時若貴ブームが呼び水となって訪れていた大相撲黄金時代に上手く乗ることができたこともあり、智ノ花の取組の時は視聴率が上昇し、他にもニュース番組(FNNスーパータイムなど)で単独特集が組まれるほどの人気を誇った。[3]しかし、これを境に年齢による衰え・怪我や技を研究されたことにより低迷し、幕内下位や十両で現役を務めた(幕内から十両への陥落時に四股名を「智乃花」に改名)。[4][3] 当時の幕内では舞の海と並ぶ小兵の技能力士であり、舞の海戦の成績は幕内・十両を通算すると9勝9敗と全くの5分である。また、非常に珍しい決まり手である居反りで一度勝利したことのある力士としても知られる[1][4]。現役中の決まり手は34種類で技のデパートと言われた舞の海(33種類)より多い。 2001年9月場所、十両下位で5勝10敗と負け越し幕下への陥落が決定的となったため、11月場所前に37歳で現役引退。引退後は、準年寄・智乃花から年寄・浅香山を襲名した(引退時に年寄名跡を取得していなかったため、大関・魁皇から借用)。智乃花本人によれば幕下に落ちた直後(西幕下3枚目)で勝ち越せば十両復帰できたので続けるつもりだったが、怪我で満足な稽古ができず同場所前に引退を決めたとのこと。 断髪式の際には「自分でも信じられない成績を残すことができた」とコメントした[2]。 2005年4月には7代立浪との部屋経営や指導方針を巡る意見の相違を理由に、立浪部屋から同門の友綱部屋(2022年に大島部屋へ改称[6])へ移籍し、後進の指導に当たっている。彼を始めとして立浪部屋を離れる年寄が続出したのは、年齢や最高位などで7代立浪を上回る年寄が部屋にいては7代立浪がやりにくいだろうという理由からだと、当時は見られていた[7]。2006年3月、年寄・玉垣を襲名(元小結・若浪こと先代玉垣の停年退職後に名跡を取得)[1][3]。2018年5月現在は、役員以外の親方衆で構成される年寄会の副会長を務めている[8]。 従弟の成松由紀夫も元幕下力士で、現在は熊本県八代市議である。 主な成績・記録[編集] 通算成績:379勝381敗78休

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嵯峨直恆 – Wikipedia

嵯峨 直恆(さが なおつね、1950年10月9日 – ) は、日本の生物学者。北海道大学名誉教授。函館国際水産・海洋都市推進機構長。元マリンバイオテクノロジー学会会長。 人物・経歴[編集] 1973年山形大学理学部生物学科卒業。1977年北海道大学大学院理学研究科植物学専攻修士課程修了[1]。1981年北海道大学大学院理学研究科植物学専攻博士課程単位取得退学、日本学術振興会奨励研究員。1982年カリフォルニア大学サンタバーバラ校海洋科学研究所研究員[2]。1983年北海道大学理学博士[3]。1984年ノースイースタン大学生物学部研究員[2]。 1985年水産庁北海道区水産研究所主任研究官。1990年東海大学海洋学部教授。1997年東海大学海洋研究所先端技術センター長[2]。2001年北海道大学大学院水産科学研究科教授[2]。2003年日本藻類学会評議員、日本水産増殖学会評議員。2004年日本植物学会評議員。2005年北海道大学大学院水産科学研究院教授[2]。2007年マリンバイオテクノロジー学会岡見賞受賞。2008年日本水産学会水産学進歩賞受賞[4]。 2010年北海道大学大学院水産科学研究院長・水産科学院長・水産学部長[1]、マリンバイオテクノロジー学会会長。2011年マリンバイオテクノロジー学会論文賞受賞。2012年日本水産学会理事、マリンバイオテクノロジー学会論文賞受賞[4]。2014年弘前大学食料科学研究所所長・教授[1]。2017年函館国際水産・海洋都市推進機構長[5]。2020年函館市魚類等養殖推進協議会会長[6]、公立はこだて未来大学経営審議会委員[7]。 妻は尾崎左永子門下の歌人・嵯峨牧子。 [脚注の使い方] ^ a b c 「弘前大学 食料科学研究所」 vol.弘前大学 ^

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リチャード・オカーン – Wikipedia

リチャード・ヘザーリントン・オカーン(Richard Hetherington O’Kane , 1911年2月2日 – 1994年2月16日)は、第二次世界大戦時のアメリカ海軍軍人、潜水艦艦長。名誉勲章受章者。最終階級は少将。資料によってはオケーンと表記されることもある。 “ディック”ことオカーンは1911年2月2日、ニューハンプシャー州ドーバーに生まれた。その名から分かるように、アイルランド系のアメリカ人(オカーンとは「カーンの息子」の意)である。1934年アナポリスを卒業し、巡洋艦チェスター (USS Chester, CA-27) および駆逐艦プルーイット (USS Pruitt, DD-347)で海軍士官として最初の年を過ごす。1938年潜水艦勤務を命じられ、アルゴノート (USS Argonaut, SS-166) で1942年まで勤務した。1942年オカーン中尉は新鋭艦のワフー (USS

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ジャニーズWEST LIVE TOUR 2020 W trouble

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ジャニーズWEST LIVE TOUR 2020 W trouble” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年9月) 『ジャニーズWEST LIVE TOUR 2020 W trouble』

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デュ・バル特異点 – Wikipedia

この項目「デュ・バル特異点」は途中まで翻訳されたものです。(原文:en:du Val singularity)翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページや履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2018年1月) 代数幾何学において単純曲面特異点(英:simple surface singlarity)、クライン特異点(英:Kleinian singlarity)、もしくは有理二重点(英:rational double point)とも呼ばれるデュ・バル特異点(英:du Val singlarity)は複素曲面の孤立特異点である。ADE分類(英語版)のタイプのディンキン図形に二重な交差のパターンをもち、滑らかな有理曲線の木をもったその特異点の置き換えによって得られる最小特異点解消(英:minimal resolution)をもつ、平面の二重分岐被覆によってそれはモデル化される。それらは二次元の標準特異点(または、同値的に、有理ゴレンスタイン特異点(英:rational Gorenstein singularity))である。それらはPatrick du Val (1934a, 1934b, 1934c)とフェリックス・クラインによって研究された。 二項正多面体群として知られるSU(2)の有限部分群(英:finite subgroup)に同等の、SL2(C)の有限部分群による、

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渥美心 – Wikipedia

この記事の出典や参考文献は、一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼っています。信頼できる第三者情報源とされる出典の追加が求められています。出典検索?: “渥美心” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) 渥美 心(あつみ こころ、1995年10月27日 – )は、静岡県浜松市出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。中京大学出身。 TONE RT SYNCEDGE 4413 BMWに所属している。FIM世界耐久選手権に参戦している。2019年鈴鹿8時間耐久ロードレースではSSTクラスで優勝。同年、セパン8時間耐久ロードレースではSSTクラスで3位を獲得。 1999年、4歳の誕生日にポケバイを父から貰う。2002年からポケバイレース参戦開始。2007年、鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS-J、現SRS-Moto)に入校。同年、ツインリンクもてぎで開催されたNSF100

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サミュエル・ベラミー – Wikipedia

サミュエル・ベラミー(英語: Samuel Bellamy、1689年2月23日‐1717年4月26日)はイングランド出身の海賊である。彼が海賊として活動していたのは1年ほどだったが、活動期間内に拿捕した船舶は53隻、獲得した金額は120万ドル相当(2008年換算)に上り、同時代の海賊の中では誰よりも稼いでいた[1]。28歳のとき、コッド岬沖を航海中、嵐に遭い旗艦ウィダー号(英語版)とともに消息を絶つ。以来、1984年に沈没したウィダー号が発見されるまで、彼の存在は“ブラック・サム”(Black Sam)の異名とともに伝説の中にあった。拿捕した船員への寛大な対応から、“海賊のプリンス”(Prince of Pirates)とも呼ばれ、義賊的な海賊として伝えられた。 サミュエル・ベラミーはデヴォン州ヒティスリー(英語版)にて、父スティーブンと母エリザベスとの間に6人兄弟の末っ子として生まれた。サミュエルが洗礼する3週間ほど前に母エリザベスが他界[2]。前半生はイギリス海軍に所属して幾つかの戦いを経験している。妻子はいたかもしれないが、記録には残っていない。 1715年にベラミーはコッド岬にいる親戚を訪れているが、伝説によれば彼はそこで“ウェルフリート(英語版)の魔女”の異名を持つグッディ・ハレット(Goody Hallett)という美女と出会っている[3]。1934年に出版されたコッド岬の民話集、『The Narrow Land: Folk Chronicles of Old Cape Cod』では、著者エリザベス・レイナードによって“マリア”の名前が付けられた。当時清教徒が多く住むニューイングランドでカトリック風の名前は似つかわしくないにも関わらず、その名はグッディの俗称となった。現代の作家は、マライア(Mariah)やマリー(Mary)といった名前で変更を試みている。彼女の年齢、そして既婚者か否かは作者によって異なっている。16歳から25歳ほどの若い女性として書かれていたり、あるいは老婦人として登場した作品もある。ある作品では彼女の両親はベラミーに好意を持っていたが、この貧乏で自信家の船乗りが夫になるとは思ってもいなかったとしている[4]。いずれにせよ、グッディが既婚者であるということは共通しており、富を得て彼女を連れ去ろうとするベラミーの意図があったとしている[5]。 いずれにせよ、ベラミーは1716年前半に前年遭難したスペインの輸送船を捜索する一団に加わってコッド岬を発った。この時、彼らに資金を提供したのがロードアイランド州司法長官ジョン・ウィリアムズの息子、ポールスグレイブ・ウィリアムズ(またの名をポール・ウィリアムズ)だった[6]。彼がコッド岬を離れた後、グッディがベラミーの子を宿していることが発覚した。彼女は出産後、食べ物を探すために子供をとある納屋に隠しておいたが、戻った時には子供は藁に埋もれて窒息死していた。ある作品では、その納屋はチャールズ・ノウルズが所有するものだったとし、別の作品では後に彼女を追放した裁判官ジョセフ・ドーンのものとしている。いずれにせよ、彼女は殺人罪で告発され、バーンステーブル刑務所(英語版)に収監された。ちなみに、この刑務所はアメリカで最も古い木造の刑務所であり、後に幽霊の出没スポットとして知られるようになる。しばしば逃走して海岸を徘徊するなど奇行が見られたため彼女の刑期は短かったが、彼女は町を追われ、イースタム(英語版)に移り住みベラミーを待った[4]。一方、船の捜索隊は発見の見込みがないことからベンジャミン・ホーニゴールドをリーダーに海賊稼業に転身した。彼が指揮したマリアンヌ号(Marriane)の航海士には“黒髭”で知られるエドワード・ティーチもいた。 1716年の夏頃、海賊たちはホーニゴールドが故郷であるイングランドの船舶を攻撃しないことに不満を募らせていた。多数決の結果、ホーニゴールドはリーダーとして相応しくないという結果になり、彼は支持した腹心たち(これにはティーチも含まれていた)とともに船団を離脱した。残った90人の船員はベラミーをリーダーに選出した。 その直後、ガレー船スルタナ号(Sultana)を拿捕し、ポール・ウィリアムズを船長に据えた。そして、1717年春頃にイスパニョーラ島とキューバの間、ウィンドワード海峡を航海中のウィダー号を拿捕した。ウィダー号は1715年にイギリスで建造された、全長120フィート(約31m)、重さ300トン、18門の大砲を設えた奴隷運搬船で、アメリカとアフリカとの奴隷交易の最中だった。船には金やインディゴ、キナ皮(アカキナノキの樹皮。キニーネの原料)、象牙、そして312人の奴隷を獲得した。ウィダー号(拿捕当時は“キングダム・オブ・ウィダー”(Kingdom

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横浜メディアタワー – Wikipedia

横浜メディアタワー(よこはまメディアタワー)は、横浜市西区のみなとみらい地区(41街区の北区画)にある超高層ビル。ビルの屋上には巨大な電波塔(鉄塔)が建っており、鉄塔部分を入れると、同地区では横浜ランドマークタワーについで2番目の高さ(約253m)となる。 グランモール公園沿いにて1999年4月に竣工。NTTドコモ神奈川支店が入居しており、NTTドコモの通信設備も入っている(かつてはNTT東日本-神奈川も入居していた)。建物本体は22階建てで高さ約100mであるが、当ビルの上部に約150mにも及ぶ鉄塔が建っており、この鉄塔部分で建物全体の高さの5分の3を占めている。鉄塔部分にはNTTドコモおよびNTT東日本が利用するマイクロ無線用のアンテナが無数に付いている。 また、横浜市の防災無線統制局も入居しており、災害時などに市役所および市内全区役所などからの行政用無線を受送信する役割を担っている[1]。 商業テナント[編集] この他、2階には自動販売機コーナーの「PLUS APPLI」もある。 過去のテナント 建物の構造等[編集] 敷地面積:6,518m2(建築面積:3,907m2) 延床面積:53,003m2 構造規模:地下2階、地上22階(鉄塔込みの高さは約253m) 構造:S造(地下部分はSRC造)、粘性体制震壁 設計:NTTファシリティーズ 施工:大成建設 所在地・アクセス[編集] かつて存在した施設 ビルは携帯電話(アンテナが伸びているストレート式の端末)の形をイメージして作られた。 鉄塔は夜になるとライトアップされ、月毎に照明の色が変わる。青、赤、緑、黄緑、オレンジなどがある。 横浜市防災無線の中枢として利用されている。 ラジオ用のスタジオがかつてあり、FM横浜の番組などが公開収録されていた。 

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