Month: September 2022

内閣官房副長官補 – Wikipedia

内閣官房副長官補(ないかくかんぼうふくちょうかんほ、英語: Assistant Chief Cabinet Secretary[1])は、日本の内閣法に基づき内閣官房に置かれる官職のひとつ。事態対処・危機管理担当、内政担当、外政担当の3人が置かれ、内閣官房長官・内閣官房副長官・内閣危機管理監の職務を補佐する[2]。任免は内閣総理大臣の申出により、内閣において行う。国会議員がこの職に就任することはなく、国家公務員が任命される。 現任 歴代 内閣官房副長官補(内政担当) (旧)内閣内政審議室長 内閣官房副長官補(外政担当) (旧)内閣外政審議室長 内閣官房副長官補(事態対処・危機管理担当) (旧)内閣官房副長官補(安全保障担当) 内閣官房副長官補が率いる組織 内閣官房副長官補室 (厳密には、法令上の組織でないものの、事実上、)内政担当、外政担当、両名の内閣官房副長官補をトップに、政策の企画・立案及び総合調整を担当する組織として、内閣府本府庁舎の5階に「内閣官房副長官補室」(通称「補室」)が設置されている[6]。 内閣官房副長官補室は、組織・役職(「内閣官房副長官補付」)として、 「内閣官房副長官補」(次官級) 「内閣審議官」(局次長級・3名) 「内閣参事官」(各省庁で課長級ポストを経験した者・約20名)

Continue reading

テオドール・アイマー – Wikipedia

テオドール・アイマー Die Artbildung und Verwandtschaft bei den Schmetterlingen. グスタフ・ハインリヒ・テオドール・アイマー(Gustav Heinrich Theodor Eimer、1843年2月22日 – 1898年5月29日)は、ドイツの動物学者。 Stäfa生まれ。ヴュルツブルク大学でプロセクターとして若手教員として過ごし、1875年にテュービンゲン大学の動物学と比較解剖学の教授となった。1870年7月18日にアーティストのAnna Lutterothと結婚した。Annaは結婚生活の中で彼の科学出版物を挿絵を描いた[1]。アイマーは変化の方向が制限されるために特定の経路に向けられた進化を説明するために定向進化説(orthogenesis)という用語(元々は1893年にWilhelm Haackeにより導入された)を広めた。彼の理論は1880年代にドイツで人気となったが、1890年に彼の著書Die Entstehung der Arten

Continue reading

カイコガ上科 – Wikipedia

カイコガ上科 (Bombycoidea) は、鱗翅目(チョウ目)に属する上科の一つ。カイコガ科、スズメガ科、ヤママユガ科などのよく知られるグループが属するが、本上科にかんしてはさまざまな分類体系が提唱されており、下位分類は混乱している。 世界のカイコガ上科の目録を作成した Kitching et al. (2018) は、本上科に6092の有効な種を認めている。日本からは100種ちかくが知られる。 前述のとおり、本上科にかんしては多くの分類体系が提唱されている。ここではみっつの分類体系を紹介する。和名は特記のない限り、駒井 et al. (2011) に拠る。 本上科は形態学的に、カレハガ科およびミマロガ科との近縁性が指摘されてきた分類群であり、 なかには本上科とカレハガ科およびミマロガ科をひとつの上科に統合する Brock (1971) のような分類体系もある。近年の分子系統学的研究では、本上科とカレハガ科が姉妹群を形成する一方で、ミマロガ科とは遠縁であることが示唆されている[10]。また、スズメガ科はかつては本上科とは独立した上科として扱われることが多かったが、現在は基本的に本上科に含められる。 日本には(カレハガ科を除き)オビガ科、カイコガ科、ヤママユガ科、イボタガ科、スズメガ科の5科が分布する。

Continue reading

フランス人への112の不満 – Wikipedia

フランス人への112の不満(英語: 112 Gripes About the French)は、解放後のフランスに駐留する軍人に向けて、1945年にアメリカ占領軍の情報教育局が10,000部を発行したハンドブックのこと[1]。アメリカ軍と地元住民のあいだで高まりつつあった緊張を解きほぐす目的で書かれた。同じようなパンフレットに「フィリピン人への29の不満」(1946年)というものもある[2]。 ナチス・ドイツに対する勝利への陶酔感も長続きすることはなく、解放されて数ヶ月でフランス人と在仏アメリカ軍人のあいだには敵対意識が芽生えつつあった。フランス人は相手のことが傲慢で、裕福(にみえる)生活をひけらかそうとしているように思われ、アメリカ人は相手を高慢で怒りっぽいと考えていた。暴力沙汰が生じることもしょっちゅうであり、上層部でさえ、こうした状況が続けば治安が崩壊するのではという危機感が強まっていた[3]。 『フランス人への112の不満』はQ&A方式で書かれている。つまりフランス人について何度も繰り返されてきた不平不満をリストアップし、それぞれに簡潔で気の利いた解答を与えている[2]。当時のアメリカ軍人の「不満」には大きくわけて二つあった。一つはフランス人の「臆病さ」、「腑抜けっぷり」であり、もう一つはその「生活習慣」である[3]。例えば、当時はインフレに苦しむフランスの商売人がアメリカ人から法外な対価をとることが横行していた[3]。85番目の不平はそれに関するものである。 “85. いいお土産を買ったと思ったら、ぼったくられている!” アメリカでお土産を買っても、同じようにぼったくられたでしょう。国でぜいたくな品を買ったことのある人などほとんどいません。ここではそれをやっています。国にいた頃は、自分の彼女にしょっちゅうフランス製の香水を買ってあげていたのでしょうか?予算はいくらでしたか? フランス政府はアメリカの軍人が買う品物にはぜいたく税を免除しています。フランス人は払っていて、我々は払っていません。誰がぼったくっているというのでしょう?[1][2] 本書の目的は、こうした不満の多くは根拠がないか間違った情報がもとになっているだけでなく、当時のフランスが長い占領期間を経た直後であることをふまえるならば仕方ないことでもあると説明することにあった[1]。 書誌情報[編集] (英語) 112 Gripes About The French.

Continue reading

禱苗代 – Wikipedia

禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)12月12日[1] – 1927年(昭和2年)5月13日[2][3])は、明治から昭和初期の教育者、弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 鹿児島県大島郡赤尾木村[4](龍郷村[5]を経て現龍郷町)で、禱朝衡、みよ の長男として生まれた[6]。沖縄師範学校を卒業し[4][5]、1898年(明治31年)、沖縄県国頭小学校校長となり、1905年(明治38年)には東京市東陽小学校校長に就任した[2][7]。その後、日本大学に入り、1909年(明治42年)に卒業した[2][6]。同年、司法官試補となったが、翌年に退官し、東京で弁護士を開業した[2][5][7]。 帰郷して1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(鹿児島県第8区、立憲政友会公認)で当選[5][8]。1924年(大正13年)5月の第15回総選挙(鹿児島県第8区、政友本党公認)でも再選され[9]、最後は新党倶楽部に所属し衆議院議員に連続2期在任した[2][5]。この間、黒糖消費税の減税、小学校教員給与の国庫補助実現などに尽力した[5]。1927年5月、議員在任中に死去した[3][5]。 その他、福徳銀行監査役を務めた[6]。 2005年(平成17年)、龍郷町の5人目の名誉町民となる[10]。 ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、35頁。 ^ a b c d e 『議会制度百年史

Continue reading

地獄パワフル – Wikipedia

地獄パワフル(じごくパワフル)は日本の女性お笑いコンビ。2019年1月から浅井企画に所属[1]。 メンバー[編集] わくわくあや(わくわくあや、 (1989-04-18) 1989年4月18日(32歳) – ) 東京都世田谷区出身[1]。 所属事務所に掲載されているプロフィールによると、身長161cm・体重56kg/B91cm・W66cm・H89cm、足のサイズ24cm、血液型はA型[1]。 都立広尾高校出身[1]。高校3年生の当時、半年間引きこもりだったことがある[2]。卒業直前の高校3年生の1月で、自ら卒業が無理と解って中退[3]。 ドラム、カホンなどの打楽器演奏を特技としている[1]。 趣味は、酒(特に日本酒)、音楽鑑賞(特にスピッツ)、ドラム機材収集、旧車を眺める、深夜ラジオ[1]。スピッツは母親の影響で好きになった[10]。 特技は他に、ラテアート、小道具作り、人に似合う服をコーディネートできる、見ただけでその人の服のジャストサイズがわかる[1]。 猫3匹と同居している[5]。 『鬼滅の刃』が好きすぎて、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を11回も見に行ったり[11]、グッズを蒐集し過ぎたために自室の半分が埋まったりしている。 平熱時の体温が35度台と低め[9]。 元々、小学生の時からバラエティ番組、コント番組はよく観ていた。中学1年生の夏休みの時に、フジテレビのイベントでフジテレビ本社前で行われていたお笑いライブを観たのがきっかけでお笑いライブ好きになる。中学生の時には学校帰りなどにお笑いライブをよく観に行っていた[12]。しかし高校生になると音楽ライブの方によく行くようになり、東京都内のライブハウスだけでなく、大阪のライブハウス『十三ファンダンゴ』などによく遠征もしていた[4]。 宇宙の子(うちゅうのこ、 (1992-12-31) 1992年12月31日(29歳)

Continue reading

塩釜港 – Wikipedia

塩釜港(しおがまこう)は、宮城県塩竈市を中心に松島湾内にある港湾施設の通称。正式名称は仙台塩釜港塩釜港区。港湾法上の国際拠点港湾に指定されている。 ※「鹽竈」「塩竈」「塩釜」は全て「しおがま」と読む。 奈良時代から平安時代にかけて、塩釜港は陸奥国の国府兼鎮守府である多賀城の外港の1つであった。今は内陸になっている香津(こうづ)町が国府(こう)の港を意味する国府津(こうづ)ではないかと推定されている。奈良・平安時代には、「塩竈」は有名な歌枕であり、平安時代前期の左大臣、源融の邸宅「六条河原院」には塩釜の港を模した海水に満たされた池があった。 中世には千賀ノ浦と呼ばれ、鹽竈神社の門前町・港町として、また歌枕としても知られた。一方、仙台湾側には、現在の仙台港がある場所にかつて七北田川の河口および河口港の湊浜があり、千賀ノ浦と共に多賀城(多賀国府)の外港となっていた。 江戸時代の寛文年間に舟入堀[1]が開削されると、それまで塩竈に揚がっていた船荷がここを素通りし、七北田川河口の蒲生に向かうようになった。この結果、船荷を仙台城下へ運ぶ駄賃収入を得ることができなくなった塩竈は凋落した。すると貞享2年(1685年)、歴史ある町の衰微を惜しんだ仙台藩第4代藩主・伊達綱村は、船荷のうち商人荷物と五十集物、材木の塩竈経由を義務付けた。これにより、塩竈は仙台の外港として栄えることになった[2][3]。また、伊達騒動に伴って仙台城下町での遊廓営業が禁止されたため、塩竈に遊郭が移って花街としても賑わった。塩竈の商港としての欠点は、土砂で埋まって浅くなる傾向があることと、町を容れるべき平地が少ないことであったが、江戸時代には浚渫を欠かさず機能を維持した。 明治時代の廃藩置県で塩竈は特権を失い、野蒜築港に力を入れた政府の方針で港湾機能が著しく低下した。港湾修築は野蒜港が不調をきたしてからで、海面を埋立てて港湾用地・工業用地を広げ、あわせて岸壁を作ることを基本とした。その始まりは1882年(明治15年)で、北と南に堤を築いて埋め立てた。 現在の東北本線である日本鉄道本線の仙台区への建設に際し、1886年(明治19年)6月に日本鉄道株式会社が南側を埋め立てて港湾設備を整える工事をはじめた。日本鉄道はここから資材を荷揚げして仙台に向けて線路を敷き[4]、1887年(明治20年)に塩釜駅(後の塩釜港駅)を開業させた。続いて1888年(明治21年)に北側も広く埋立てられて工業用地となり、塩釜は前に勝る繁栄を迎えた。 1910年(明治43年)に塩釜港は第二種港湾に指定され、港湾施設の整備が進んでいった。それまで200トン未満の船舶しか入港していなかった塩釜港は、1923年(大正12年)に800トン級の船舶が 1925年(大正14年)には1000トン級船舶が入港できるようになり、さらにその後の浚渫によって5000トン級の船舶が入港できるようになった。この頃の塩釜港には、三陸海岸や北海道との間に定期船が就航していた。1900年(明治33年)塩竈と気仙沼、宮古、釜石といった三陸沿岸諸都市との間に東京湾汽船が運航を始め、1908年(明治41年)には同じ航路に三陸汽船が参入した。1928年(昭和3年)になると釧路航路、函館航路が開設された。戦後になると、塩釜港はそれまでの商港としての機能に加えて、工業港と漁港の機能も整備されていった[5]。 1971年(昭和46年)、仙台市東部の長浜を掘り込んで仙台港(仙台新港)が造られ、塩釜港仙台港区として開港した。これ以降、仙台市の外港としての役割は塩釜港から仙台港に移り、2001年(平成13年)になると、塩釜港は「仙台塩釜港塩釜港区」と名称を変えた。 2011年(平成23年)、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震により塩竈は津波の被害を受けたが、松島の島々に守られていたため、近隣の沿岸地域に比べて被害が少なかった。 旅客ターミナルであるマリンゲート塩釜があり、日本三景松島への遊覧船や、松島湾内に浮かぶ浦戸諸島への塩竈市営汽船が発着している。また、東北地方を管轄とする海上保安庁の第二管区海上保安本部が置かれ、巡視船が配備されている。 塩釜港はマグロの漁獲高が日本で最も高い港である。また、塩釜港に隣接して缶詰工場団地があり、かまぼこ、ちくわ、さつまあげ等の魚肉練り製品生産量が日本で最も多い。 毎年、日本三大船祭りの一つである塩竈みなと祭が開催されている。 戦前から造船所が設置されている。1910年(明治43年)に設置された三陸汽船の修理工場は、その後経営主体は変遷し規模も拡大したが、1987年(昭和62年)以降は東北ドック鉄工(修繕船事業)及び東北重機工事(新造船事業)により運営が行われている[6][7][8]。 関連項目[編集] ^ 現在の貞山運河の一部である。 ^ 『仙台市史』通史編3(近世1)336頁。 ^

Continue reading

若松政和 – Wikipedia

 若松政和 八段 2018年11月、姫路市で行われた人間将棋にて 名前 若松政和 生年月日 (1939-08-10) 1939年8月10日(82歳) プロ入り年月日 1967年10月1日(28歳) 引退年月日 2000年3月31日(60歳) 棋士番号 98 出身地 兵庫県神戸市長田区 所属 日本将棋連盟(関西) 師匠 藤内金吾八段 弟子

Continue reading

鉄扇公主 – Wikipedia

この項目では、日本では「羅刹女」の名で知られる『西遊記』の登場キャラクターについて説明しています。1941年のアニメーション映画については「西遊記 鉄扇公主の巻」を、1966年公開の香港映画については「鉄扇公主 (映画)」をご覧ください。 鉄扇公主(てっせんこうしゅ)は、『西遊記』などに登場する宝具である扇「芭蕉扇」をもったキャラクターである。日本では「羅刹女」(らせつにょ、或いはらせつじょ)の名前で知られているが、中国では「羅刹女」は「女の羅刹天」を指す普通名詞であるため、この名前(または「鉄扇仙」の名)で呼ばれる。 西遊記雑劇[編集] 元曲の雑劇楊景賢『楊東来先生批評西遊記』(雜劇·楊景賢·西遊記·第五本 第十九折鐵扇凶威[1])では鉄扇公主は「鉄扇子」という名の鉄扇をもち、「妾身鐵扇公主是也 乃風部下祖師 但是風神皆屬我掌管 為帶酒與王母相爭 反卻天宮 在此鐵嵯山居住」とされ、天の風の神で西王母と争い鐵嵯山におりたという。 太田辰夫による『朴通事諺解』と西遊記雑劇の研究によれば、鉄扇公主は大きな鉄扇で雨を降らしていたという。また、『銷釈真空宝巻』での西遊記のエピソードが「見妖精 和鬼怪 魑魅成群 羅刹女 鉄扇子 降下甘露 流沙河 紅孩児 地勇夫人」となっているなどから鉄扇子(鉄扇仙)と鉄扇公主が夫婦である説話があったと推測している。

Continue reading