浅野幸長 – Wikipedia
浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊和歌山藩初代藩主。浅野家15代当主。諱は長慶、長継ともいい、幸長は後年の名乗りである。 秀吉の一門衆[編集] 天正4年(1576年)、近江国滋賀郡坂本で浅野長政(長吉)の長男として生まれる。童名を長満(ちょうみつ)。初名を長慶(ながよし)といった。 父・長政は安井重継と長勝の姉との間に生まれた子で、跡継ぎが夭折した長勝の養子となった。母・やや(長生院)の出生には2説あり、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院 / 北政所)の実妹で叔母・七曲殿(長勝の後妻)の養女になったとも、長勝と樋口美濃守の娘(長勝の最初の妻)との間にできた実子とも言う。ねねも長勝の養女であったことから、長政とは義兄妹の関係であり、何れにしても、幸長は甥にあたる。 天正17年(1589年)4月、従五位下・左京大夫に叙任される。 天正18年(1590年)、小田原の役で父に付き従って出陣[7]。これが初陣であり、当時15歳であった。5月、岩槻城を攻めに参加して、20日、本多忠政と共に大手口を破り、力戦した。戦功を秀吉に激賞され、滝川忠征を遣わしてのしつきの刀、脇差しを与えられた。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、肥前名護屋城に陣した。しかし渡海する前に、6月に肥後国葦北郡佐敷で梅北国兼による梅北一揆が起きたので、秀吉は激怒してこの鎮圧を(肥後国人一揆の際に)案内役だった長政に命じ、鎮圧部隊の大将に幸長を指名した。また、秀吉は徳川家康に要請して副将に陪臣である本多忠勝を付けさせた。ところが、現地に到着する前に一揆は鎮圧されていたので、幸長は途中で来た道を戻って、朝鮮に渡海することになった。長政は奉行として一揆の沙汰を行った。 幸長は朝鮮国都表出勢衆の一つとして兵3,000を率いた。伊達政宗は在陣衆とされてまだ出征を命じられていなかったが、長政と懇意にしていたので[9]、幸長の後見人として同行したいと自発的な出征を秀吉に申し出て許可された。幸長・政宗は共に釜山浦で諸将と合流し、西生浦に築かれた倭城に在番した。その後は加藤清正隊と合流して各地を転戦した。 文禄2年(1593年)2月28日、秀吉は敵船の襲撃を撃退したという藤堂高虎を称賛し、慶尚道釜山港に長政・幸長父子を派遣すると告げて、船の通路の安全確保にあたらせた[10]。同年11月20日、秀吉は、五奉行の1人であった長政を呼んで、(加藤光泰が同年8月に朝鮮で陣没したため)長政・幸長父子に(若狭国から移封して)甲斐国府中22万5,000石を与えると伝えた。配分も、幸長に16万石[13]、長政に5万5,000石[14]と、1万石は公料(蔵入地)と定められた。この頃、幸長は出征中だが、甲斐府中城主とされた。 文禄4年(1595年)に日明間で和議が成立したため帰国した。1月3日、秀吉は甲斐府中に戻った幸長を普請奉行の1人に命じて、信濃・甲斐・上野の人足を徴用させて、上野草津温泉に座所を建させた[16]。なお、同月28日付の広厳院文書に甲斐国大泉寺等に禁制を下した書状が残っており、これには長継(ながつぐ)と署名している[17]。幸長は生涯では長継の名を一番長く用いている。5月29日、秀吉は長政・幸長父子を派遣して陸奥国の蒲生秀行の居城・会津若松城と7つの支城を残し、領内の諸城をすべて破却させた[18]。 関白・豊臣秀次に関して騒動があり、幸長は相婿の関係にあった秀次を弁護したことで秀吉の逆鱗に触れたが、前田利家の諫止もあって蟄居に留められた。6月19日、利家が幸長の身柄を引き取ることになって、前田家臣の三輪吉宗(藤兵衛)に能登国津向[19]に配所の準備が命じられた[20]。7月に秀次が高野山で切腹すると、連座する形で幸長も能登へと配流された。慶長元年(1596年)閏7月22日、利家・家康の取り成しがあったのか、およそ1年後に秀吉によって赦免され、勘気が解けた[21]。 慶長の役と武断派[編集] 慶長2年(1597年)、再出兵で慶長の役が始まると、渡海して西生浦に着陣した。 日本軍は全羅道・忠清道に進撃して明・朝鮮軍を破り、朝鮮南部に帰還し、さらに多くの倭城の築城を開始したが、これが諸将の怠慢であると秀吉の怒りを買って出撃を催促されたので、幸長・毛利秀元・黒田長政らは再び北上した。幸長は彦陽に進んで前哨となり、加藤清正は10里離れた場所に蔚山城を築き始めた。12月21日夜、突如、明軍が浅野勢の歩哨を急襲した。幸長は翌日に反撃を試みるが、明軍は数万の軍勢であったので苦戦に陥り、幸長自身も負傷、馬印を奪われた。家臣亀田高綱が敵将を斬って混乱した隙に、蔚山城に撤退した。この時、清正は不在で、加藤清兵衛(直政)らが防戦したが、明・朝鮮軍は外郭を突破したため、諸将は手分けして曲輪を防衛しなければならなかった。幸長は太田一吉・(毛利家臣)宍戸元続らと二の丸・本丸を守った。23日、明将李如梅・楊登山が大手口に陣取って、明・朝鮮軍は四方から城を包囲した。急を聞きつけた清正が機張から500騎を率いて戻ってきたので、城兵の士気は上がったが、築城途中で城内に食糧備蓄がほとんどなく、すぐに兵糧が尽きたため、雑兵が夜に城を出て死人の腰兵糧を漁るほどであった。慶長3年(1598年)1月3日、日本軍の救援部隊が到着し、明将楊鎬は慶州への撤退を決定するが、4日、城内からも打って出て明・朝鮮軍は撃破された。 戦後、傷病兵を先に帰国させた後、幸長は西生浦に戻り、3月16日に帰国の途につく[24][25]。8月の秀吉の死去に伴い、太刀・大三原(国の重要文化財)を遺物として賜った。 同年冬頃から奉行衆筆頭で文治派の石田三成と激しく対立し、幸長・細川忠興・加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・蜂須賀至鎮ら七人衆(七将)で徒党をなし、武断派と称され、五大老筆頭・徳川家康に与した。
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