Month: September 2018

浅野幸長 – Wikipedia

浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊和歌山藩初代藩主。浅野家15代当主。諱は長慶、長継ともいい、幸長は後年の名乗りである。 秀吉の一門衆[編集] 天正4年(1576年)、近江国滋賀郡坂本で浅野長政(長吉)の長男として生まれる。童名を長満(ちょうみつ)。初名を長慶(ながよし)といった。 父・長政は安井重継と長勝の姉との間に生まれた子で、跡継ぎが夭折した長勝の養子となった。母・やや(長生院)の出生には2説あり、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院 / 北政所)の実妹で叔母・七曲殿(長勝の後妻)の養女になったとも、長勝と樋口美濃守の娘(長勝の最初の妻)との間にできた実子とも言う。ねねも長勝の養女であったことから、長政とは義兄妹の関係であり、何れにしても、幸長は甥にあたる。 天正17年(1589年)4月、従五位下・左京大夫に叙任される。 天正18年(1590年)、小田原の役で父に付き従って出陣[7]。これが初陣であり、当時15歳であった。5月、岩槻城を攻めに参加して、20日、本多忠政と共に大手口を破り、力戦した。戦功を秀吉に激賞され、滝川忠征を遣わしてのしつきの刀、脇差しを与えられた。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、肥前名護屋城に陣した。しかし渡海する前に、6月に肥後国葦北郡佐敷で梅北国兼による梅北一揆が起きたので、秀吉は激怒してこの鎮圧を(肥後国人一揆の際に)案内役だった長政に命じ、鎮圧部隊の大将に幸長を指名した。また、秀吉は徳川家康に要請して副将に陪臣である本多忠勝を付けさせた。ところが、現地に到着する前に一揆は鎮圧されていたので、幸長は途中で来た道を戻って、朝鮮に渡海することになった。長政は奉行として一揆の沙汰を行った。 幸長は朝鮮国都表出勢衆の一つとして兵3,000を率いた。伊達政宗は在陣衆とされてまだ出征を命じられていなかったが、長政と懇意にしていたので[9]、幸長の後見人として同行したいと自発的な出征を秀吉に申し出て許可された。幸長・政宗は共に釜山浦で諸将と合流し、西生浦に築かれた倭城に在番した。その後は加藤清正隊と合流して各地を転戦した。 文禄2年(1593年)2月28日、秀吉は敵船の襲撃を撃退したという藤堂高虎を称賛し、慶尚道釜山港に長政・幸長父子を派遣すると告げて、船の通路の安全確保にあたらせた[10]。同年11月20日、秀吉は、五奉行の1人であった長政を呼んで、(加藤光泰が同年8月に朝鮮で陣没したため)長政・幸長父子に(若狭国から移封して)甲斐国府中22万5,000石を与えると伝えた。配分も、幸長に16万石[13]、長政に5万5,000石[14]と、1万石は公料(蔵入地)と定められた。この頃、幸長は出征中だが、甲斐府中城主とされた。 文禄4年(1595年)に日明間で和議が成立したため帰国した。1月3日、秀吉は甲斐府中に戻った幸長を普請奉行の1人に命じて、信濃・甲斐・上野の人足を徴用させて、上野草津温泉に座所を建させた[16]。なお、同月28日付の広厳院文書に甲斐国大泉寺等に禁制を下した書状が残っており、これには長継(ながつぐ)と署名している[17]。幸長は生涯では長継の名を一番長く用いている。5月29日、秀吉は長政・幸長父子を派遣して陸奥国の蒲生秀行の居城・会津若松城と7つの支城を残し、領内の諸城をすべて破却させた[18]。 関白・豊臣秀次に関して騒動があり、幸長は相婿の関係にあった秀次を弁護したことで秀吉の逆鱗に触れたが、前田利家の諫止もあって蟄居に留められた。6月19日、利家が幸長の身柄を引き取ることになって、前田家臣の三輪吉宗(藤兵衛)に能登国津向[19]に配所の準備が命じられた[20]。7月に秀次が高野山で切腹すると、連座する形で幸長も能登へと配流された。慶長元年(1596年)閏7月22日、利家・家康の取り成しがあったのか、およそ1年後に秀吉によって赦免され、勘気が解けた[21]。 慶長の役と武断派[編集] 慶長2年(1597年)、再出兵で慶長の役が始まると、渡海して西生浦に着陣した。 日本軍は全羅道・忠清道に進撃して明・朝鮮軍を破り、朝鮮南部に帰還し、さらに多くの倭城の築城を開始したが、これが諸将の怠慢であると秀吉の怒りを買って出撃を催促されたので、幸長・毛利秀元・黒田長政らは再び北上した。幸長は彦陽に進んで前哨となり、加藤清正は10里離れた場所に蔚山城を築き始めた。12月21日夜、突如、明軍が浅野勢の歩哨を急襲した。幸長は翌日に反撃を試みるが、明軍は数万の軍勢であったので苦戦に陥り、幸長自身も負傷、馬印を奪われた。家臣亀田高綱が敵将を斬って混乱した隙に、蔚山城に撤退した。この時、清正は不在で、加藤清兵衛(直政)らが防戦したが、明・朝鮮軍は外郭を突破したため、諸将は手分けして曲輪を防衛しなければならなかった。幸長は太田一吉・(毛利家臣)宍戸元続らと二の丸・本丸を守った。23日、明将李如梅・楊登山が大手口に陣取って、明・朝鮮軍は四方から城を包囲した。急を聞きつけた清正が機張から500騎を率いて戻ってきたので、城兵の士気は上がったが、築城途中で城内に食糧備蓄がほとんどなく、すぐに兵糧が尽きたため、雑兵が夜に城を出て死人の腰兵糧を漁るほどであった。慶長3年(1598年)1月3日、日本軍の救援部隊が到着し、明将楊鎬は慶州への撤退を決定するが、4日、城内からも打って出て明・朝鮮軍は撃破された。 戦後、傷病兵を先に帰国させた後、幸長は西生浦に戻り、3月16日に帰国の途につく[24][25]。8月の秀吉の死去に伴い、太刀・大三原(国の重要文化財)を遺物として賜った。 同年冬頃から奉行衆筆頭で文治派の石田三成と激しく対立し、幸長・細川忠興・加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・蜂須賀至鎮ら七人衆(七将)で徒党をなし、武断派と称され、五大老筆頭・徳川家康に与した。

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石川県道25号金沢美川小松線 – Wikipedia

石川県道25号金沢美川小松線(いしかわけんどう25ごう かなざわみかわこまつせん)とは、石川県金沢市から小松市を結ぶ県道(主要地方道)である。 起点の金沢市野町広小路交差点から西へ進み、松島北交差点を経て、海浜公園口交差点で南に折れる。その後、海岸線と平行するように、金沢市安原地区、打木町の砂丘地の裾を通り、白山市内に入る。その後も、海岸線と平行するように進み、北陸自動車道徳光PA(ハイウェイオアシス)や、美川IC前、同市美川地区を経て、能美市根上地区に入る。根上地区の中心部を抜け、小松市に入り、小松IC前を通って、同市城南町西交差点で国道360号と接続、東に折れ国道と重複する。そのまま、小松市内中心部に入り、細工町交差点で南に折れ国道と別れる。JR北陸本線小松駅前を通り、立体駐車場前交差点で東に曲り、北陸本線をくぐる。その後も東に進み、終点の沖町交差点で国道305号と交差する。 起点の野町広小路交差点から松島北交差点までは、「西インター大通り」と呼ばれる片側2車線の道になっており、金沢市中心部と金沢西インターチェンジを結ぶ役割をしている。 また、金沢市野田地区と金沢市専光寺地区を一本の道路で貫いている形状から、「野田専光寺線」とも呼ばれており、愛称として市民からは「県道25号」、「西インター大通り」よりも浸透している。 金沢市専光寺町から白山市倉部町にかけては、この県道25号線より海側の砂丘上に「しおさいロード」と呼ばれる片側1車線の道が平行して整備されており、同地域内で所々幅員が狭くなる県道25号線のバイパス的な役割をしている。 金沢市専光寺町から小松市安宅町にかけては、この県道25号に平行し海岸線に沿って走る石川県道294号金沢小松自転車道線がある。 路線データ[編集] 不明(1970年頃):開通。 1972年(昭和47年)3月21日:現路線と現・石川県道20号小松加賀線とを合わせた区間を「金沢小松加賀線」として認定。 1982年(昭和57年)10月5日:「金沢小松加賀線」を廃止。廃止区間を分割した現路線を認定。 1993年(平成5年)5月11日 – 建設省から、県道金沢美川小松線が金沢美川小松線として主要地方道に指定される[1]。 2008年(平成20年)4月1日:石川県内の路線名変更実施に伴い、国道360号だった小松市沖町交差点 – 小松市立高校前交差点も認定され、終点が小松市立高校前交差点に移動。 2009年(平成21年)11月17日:小松市沖町交差点 – 小松市立高校前交差点を除外。これにより終点が小松市沖町交差点に戻る。

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道南いさりび鉄道 – Wikipedia

この項目では、鉄道事業者について説明しています。この事業者が旅客運送を行っている鉄道路線については「道南いさりび鉄道線」をご覧ください。 道南いさりび鉄道株式会社(どうなんいさりびてつどう、英: South Hokkaido Railway Company[注釈 1])は、北海道函館市に本社を置く、第三セクター方式の鉄道事業者(第三セクター鉄道)である。 2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線 新青森駅 – 新函館北斗駅間の開業時に[記事 1][広報 1][広報 2]、並行在来線として北海道旅客鉄道(JR北海道)から経営分離された江差線 五稜郭駅 – 木古内駅間の運営を担う鉄道事業者である[記事 2]。北海道や沿線の地方自治体(函館市、北斗市、上磯郡木古内町)等の出資により、2014年(平成26年)8月1日に「北海道道南地域並行在来線準備株式会社」(ほっかいどうどうなんちいきへいこうざいらいせんじゅんび)として設立された[記事 3]。当初は同年5月に設立する予定であったが[協議会資料 1]、JR北海道の度重なる不祥事により、安全運行体制を整えるために設立スケジュールを見直したため、設立が延期となった[協議会資料

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きぬあかり – Wikipedia

きぬあかりの畑(愛知県刈谷市) きぬあかりの畑(愛知県安城市) きぬあかりは、日本の小麦の品種。愛知県における奨励品種である。 愛知県における小麦は農林61号の作付けが多く、2012年には作付面積の50%以上が農林61号だった。2000年(平成12年)には、愛知県農業総合試験場が愛知県の栽培環境に適合する新品種の開発を開始[1]。2010年(平成22年)にはきぬあかりが愛知県の奨励品種に指定され[2][3]、2011年(平成23年)にきぬあかりが品種登録された[1]。2012年(平成24年)から愛知県で本格的な生産が開始され[4][5]、2013年(平成25年)には愛知県の小麦作付面積の9%がきぬあかりだった[1]。 2017年(平成29年)の愛知県の小麦生産量は全国第4位であり、10アール当たりの単位収量では北海道に次いで第2位だった[2]。2018年(平成30年)時点では愛知県の小麦作付面積の80%以上をきぬあかりが占めている[2]。2018年(平成30年)には愛知県の小麦の10アール当たり収量が423キロとなり、群馬県や北海道などを上回って全国第1位となった[5]。 2018年(平成30年)には、コンビニ大手のセブンイレブンが愛知県産きぬあかりを100%用いたきしめんの販売を開始した[6][5]。2018年(平成30年)3月には、敷島製パンがなごやんに使用する小麦を国産100%に切り替え、55%にきぬあかりを採用した[2]。 きぬあかりの小麦粉 「絹のように美しい明るさを持つうどんができる小麦」が名称の由来である[1][3]。従来品種の1.7倍という収量の多さが特徴であり[1]、愛知県において従来品種からきぬあかりへの転換が進んだ2014年(平成26年)には、10アール当たり収量が北海道に次ぐ第2位に躍り出た[4]。 従来品種より背が低いことから風雨で倒れにくく、従来品種より湿気にも強いとされる[4]。きしめんやうどんにきぬあかりを用いると、コシのあるもっちりとした食感が得られる[4]。愛知県菓子工業組合は「もっちりとした食感を(菓子に)活かせる」として、和洋菓子の原材料としての導入にも取り組んでいる[3]。 愛知県における小麦の生産の中心は西三河地方であり、西尾市・安城市・豊田市・岡崎市などで生産量が多い[5]。三河地方は古くから小麦の産地であり、うどん食が盛んな地域である[7]。2018年(平成30年)の愛知県における小麦の市町村別生産量が最も多かったのは西尾市であり、西尾市の作付面積は約1200へクタール、生産量は5820トンだった[8]。愛知県において小麦は水稲の裏作として栽培されることが多い[5]。2019年(令和元年)時点で愛知県の作付面積は約5500ヘクタールであり、全収穫量は第5位の2.3万トンだった[5]。 ^ a b c d e 「愛知県産小麦 コシで人気 うどん・きしめん最適『きぬあかり』」『中日新聞』2014年2月1日 ^

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お祭り弁護士・澤田吾朗 – Wikipedia

『お祭り弁護士・澤田吾朗』(おまつりべんこし・さわだごろう)は、2000年から2004年までテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」で放送されたテレビドラマシリーズ。全4回。主演は高嶋政伸。 弁護士の吾朗が訪れた祭りで起こる、殺人事件の解決に奮闘する姿を描く。 登場人物[編集] 主人公と家族[編集] 澤田吾朗 演 – 高嶋政伸 東京弁護士会所属の弁護士。金にならない事件でも全力で誠実に取り組む。 学生時代からの無類の祭り好きで、祭りと聞けば仕事が手に付かず、どんな地方にも駆けつけ、参加してしまう。 第1作と第2作では過度の貧乏のあまりに個人事務所を畳んで妻の母の事務所を間借りしている設定だが、第3作では個人の事務所で活動している。 澤田恵 演 – 芳本美代子(第1作 – 第3作) 吾朗の妻。神崎法律事務所の事務員(第1作・第2作)。 神崎雅子 演

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西表炭坑 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年2月) 西表炭坑(いりおもてたんこう)は、八重山列島の西表島北西部から内離島にかけて分布していた炭鉱である。 1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけての最盛期には、各地から1,400名の労働者が集まり、年間12-13万トンの石炭を産出していたが、1960年(昭和35年)に休止となった。 西表島およびその周辺は第三紀中新世に堆積した八重山層群と呼ばれる砂岩や頁岩の地層から成っている。この地層の間に厚さ15-90センチメートルの石炭層が3-4枚挟まれており、特に八重山夾炭層と呼ばれることもある。石炭の地層としては比較的浅い場所にあり、炭層の厚みが薄いことを特徴とする。石炭層にはシイ、カシ、クスノキ、タブノキ、シロダモ、モチノキなどの化石が含まれている[1]。 開発の経緯[編集] 西表島には古くから燃える石に関する言い伝えがあり、18世紀末に書かれた八重山の文書には地域の産物として「燃石」の記述がある。 1853年(嘉永6年)、ペリー提督が沖縄を訪問した際に主任技師R.G.ジョーンズが周辺地域の地質を調査しShioya Bay付近に石炭が存在することを報告した。沖縄島北部にある塩屋湾には石炭を含む地層がないことから、これは西表島西部の石炭を指すものと考えられている。翌1854年には琉球王府が石炭のある土地に木を植えて石炭を隠すよう指示している。 1871年(明治4年)、鹿児島の商人林太助がさまざまな鉱石のサンプルを石垣島の大浜加那に渡して資源探索を依頼した。加那はまず石垣島を調査したが資源は見つからず、西表島を調査したところ南西部の崎山村付近で石炭を発見し、このことを太助に伝えた。太助はすぐに鹿児島へ報告し、1872年(明治5年)1月から4月にかけて鹿児島県役人の伊地知小十郎が現地を調査した。加那は石炭の存在を国外へ漏らしたとして琉球王府によって捕らえられ1873年(明治6年)8月に波照間島へ流罪となった。 琉球処分を経て1885年(明治18年)、政府による調査が行われ林太助もこれに同行した。翌1886年(明治19年)3月、内務大臣山縣有朋が三井物産の益田孝社長を伴って視察し、同年5月に炭坑で囚人を使役することを提案している。この時期に三井物産は西表島西部と内離島で石炭の採掘を開始した。囚人を含む100-200名の労働者が集められ採掘を進めたが、マラリアに襲われ1889年(明治22年)9月21日に撤退した。ひどいときには90%以上の労働者がマラリアに感染する有様で、数十名が死亡している。 1891年(明治24年)頃から大倉組や沖縄開運などいくつかの企業が着手したがすぐに撤退している。このような中で1906年(明治39年)に設立された沖縄炭礦や琉球炭礦は日露戦争から第一次世界大戦にかけての好景気に乗って成功を収めた。産出した石炭は西表島北西部の白浜港や浦内港から横浜、大阪、台湾、上海、香港などへ向けて出荷された。西表炭坑の石炭は発熱量が高かったことから燃料用として重宝された。 大正時代には新規企業の参入や買収・合併などが繰り返される一方で、現場においては個々の炭坑責任者が独自に経営する納屋制度(いわゆる請負制度)が一般的となった。1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけての最盛期には1,400名の労働者が集まり、年間12-13万トンの石炭を産出した。 炭坑は特に内離島と西表島北西部の仲良川河口部や浦内川流域に多く分布していた。当初は内離島や仲良川河口部の炭鉱が開発されたが、浦内川流域の宇多良炭坑に移っていった。 炭坑労働[編集] 西表島はもともと人口が少なかったため炭坑労働者の多くは島外から集められた。募集人の口上に乗せられて日本各地や台湾、中国などから実情を知らされないまま島にやってきた人々は、まず島までの運賃や斡旋料などの借金を負わされ、いわゆるタコ部屋労働を強いられることになる。炭坑で働くことによって借金を返済することになるが、給料は納屋頭と呼ばれる個々の炭坑責任者が管理しており、実際にはほとんど支払われることがなかったといわれる。給料の代わりに炭坑切符と呼ばれる私製貨幣が支給され、会社経営の売店で食料や日用品と交換することができた。炭坑切符はある程度集めれば通貨と交換できるとされていたが、実際には交換されないばかりか責任者が交代すると紙切れ同然となった。すなわち一度炭坑にやってくると二度と帰れないというのが実情であった[2]。 炭坑での労働は過酷なものであった。炭層が薄いため坑道が狭く地面を這うようにして作業しなければならなかった。しばしば落盤事故が発生し年間1-2名が死亡した。衛生状態が悪く寄生虫やマラリアが蔓延していた。多くの労働者は博打に興じ、治安も悪く暴力沙汰は日常茶飯事であった。島外へ逃亡するにも会社の連絡船しか交通手段が無く、運良く近隣の島まで逃げられたとしてもすぐ炭坑関係者に捕らえられ引き戻されるだけであった。 1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、多数の労働者が軍隊に召集され人手不足に陥った。さらには船浮臨時要塞建設への動員や炭坑所有船舶の徴用などが行われ、食糧供給もままならなくなったため1943年(昭和18年)頃までに休止状態に追い込まれた。終戦後はアメリカ軍に接収され、1949年(昭和24年)にいくつかの炭坑を再開したがうまくいかず民間へ払い下げられた。1953年(昭和28年)に琉球興発が事業を再開したものの採算が合わず1960年(昭和35年)に休止状態となった。1959年(昭和34年)に提案された西表開発構想に基づいて資源調査が行われたが、薄い炭層では採算が期待できないことなどから再開には至らなかった。 参考文献[編集] 竹富町誌編集委員会編 『竹富町誌』

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月刊ニュータイプ – Wikipedia

『月刊ニュータイプ』 (Newtype) は、KADOKAWA(角川書店ブランド)が発行するアニメ雑誌。1985年3月8日(4月号)創刊。毎月10日発売。 アニメ雑誌『アニメック』の副編集長だった井上伸一郎が角川書店に移籍した後、テレビ雑誌『ザテレビジョン』のアニメコーナーを担当し、1984年には『ザテレビジョン』別冊でアニメ『重戦機エルガイム』のムックを出版するなど実績を積んだうえで創刊された。初代編集長は佐藤良悦[1]。 大判でビジュアルを前面に出した誌面が本誌の最大の特徴であり[2]、アニメ以外にも音楽や実写映画の情報を取り入れた新しいビジュアル誌というコンセプトで[3]総合カルチャー誌的な構成となっている点で異彩を放った[4]。また、本誌あるいは別冊の『コミックGENKi』で漫画連載も行い、これらはメディアミックスの一環となった。角川書店が1994年初めに一回だけ刊行した『少年キッズ』も、名義上は『ニュータイプ』の増刊である。 社会現象を産んだ『機動戦士ガンダム』の続編として鳴り物入りで制作された『機動戦士Ζガンダム』のスタートと並行して創刊すると共に強力なタイアップをおこない[4][2]、創刊号は表紙から巻頭特集その他、『Ζガンダム』一色で盛り上げられたうえに価格は380円[5]と、小学生から高校生女子向けに設定された『アニメディア』(学習研究社→学研パブリッシング)と同等の、破格の安さだった。従来、紙媒体でガンダムシリーズの情報を発信するメディアは講談社だけだったが、以後は市場に角川書店が積極的に介入するようになり、初の劇場オリジナル作品『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』では、ついに製作者の1つに名を連ねることになる。ガンダムシリーズの原作者の富野由悠季によるノベライズ『小説 機動戦士ガンダム』(1)〜(3)も、版元がソノラマ文庫から角川スニーカー文庫に移籍した。 創刊号の発売前月には関係者向けにプレ創刊号「0号」が配布されたほか、創刊号の発売月にはコンビニ流通もおこなわれた。0号の表紙は『聖戦士ダンバイン』に登場するチャム・ファウ、創刊号の表紙は『Ζガンダム』に登場するガンダムMk-IIと、いずれもサンライズのアニメであり[6]、創刊当初は『アニメック』『ザテレビジョン』の流れからサンライズ作品に強かった。メディアミックスの一環として同誌掲載作品が角川グループでアニメ化されたり、同グループ内のアニメを大きく取り扱うことも多い[7]。 創刊後、それまでトップだった徳間書店の『アニメージュ』に代わって部数がトップとなる。特に『新世紀エヴァンゲリオン』がブームになった1990年代半ばにはアニメ雑誌としては前代未聞の40万部を記録し[2][8][9][10][11]、大判のビジュアルというコンセプトはその後に創刊されたアニメ雑誌にも影響を与え、老舗の『アニメージュ』までが1998年に『ニュータイプ』に倣ったリニューアルを行なっている。さらに、もうひとつの競合誌に当たる『アニメディア』も2010年4月号から『ニュータイプ』と同様の判型(A4ワイド)に変更している。 2002年11月より、主に日本語から英語に翻訳された記事からなる北米版ニュータイプ(ニュータイプUSA)が発売されたが、部数が伸び悩み(5万から7万部と見られる)、2008年2月号をもって北米版は廃刊となった[12]。他の海外版である韓国版は引き続き発売されている。 2013年5月号は『ファイブスター物語』の9年ぶりの連載再開第1回となった影響から発売後3日で完売し、アニメ雑誌としては異例の重版が決定された。 2013年10月号をもって(発売元での)角川書店としての販売が終了し、11月号からKADOKAWAからの発売に移行した。 現在連載中の漫画[編集] その他の漫画(読みきりなど)[編集] 連載された漫画[編集] 連載された小説[編集] 発行部数[編集] 2004年(2003年9月 –

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ジェド・ホロウェイ – Wikipedia

ジェド・ホロウェイ 生年月日 (1992-11-02) 1992年11月2日(29歳) 出身地 オーストラリア・ウロンゴン 身長 1.95 m (6 ft 5 in) 体重 118 kg (18 st 8 lb) ラグビーユニオンでの経歴 ポジション ロック、フランカー、ナンバーエイト シニア経歴 年 チーム

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穆棱市 – Wikipedia

中華人民共和国 黒竜江省 穆棱市 ホーム側から望む伊林駅の駅舎 牡丹江市中の穆棱市の位置 簡体字 穆棱 繁体字 穆稜 拼音 Mùlíng カタカナ転写 ムーリン 国家 中華人民共和国 省 黒竜江 地級市 牡丹江市 行政級別

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長楽寺 (太田市) – Wikipedia

長楽寺(ちょうらくじ)は、群馬県太田市世良田町にある天台宗の寺院である。山号は世良田山。本尊は釈迦如来。隣接して世良田東照宮がある。境内は「新田荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。 臨済宗関東十刹[編集] 1221年(承久3年)世良田義季の開山、臨済宗の僧[1]釈円栄朝を開山として創建されたという。早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には室町幕府から関東十刹のひとつに列せられた。 鎌倉時代の開基~江戸時代までは新田家および足利家(鎌倉公方)の帰依を得、臨済宗関東十刹中でも大寺院であった。 宗旨替え[編集] 徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により天台宗に改宗となった。 重要文化財[編集] 宝塔 – 鎌倉時代後期(1276年)の建立。台石底面に建治二年十二月廿五日の刻銘がある。昭和36年(1961年)03月23日指定。 絹本墨画出山釈迦図 東明慧日賛 – 南北朝時代の作品。昭和39年(1964年)05月26日指定。 紙本墨書長楽寺文書 7巻(115通)[2] – 鎌倉-室町時代の作品。昭和13年(1938年)07月04日指定。 群馬県指定重要文化財[編集] 勅使門・三仏堂・太鼓門

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