アイヌ – Wikipedia

アイヌ(アイヌ語: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны)は、北は樺太から、北東の千島列島・カムチャツカ(勘察加)半島、北海道を経て、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族である[3]

アイヌは永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。すなわち生業から得られる毛皮や海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行っていた。また和人とも交易を行い米などの食料や漆器、木綿、鉄器などを入手していた。

アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する[5]。母語はアイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる[注 1](かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。

現在、アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族[6]」であり、日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住しているが、その正確な数はわかっていない。

日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日にアイヌ民族を「 日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族 」と認定して支援を行うアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律を制定した[7][8]

アイヌ[編集]

シャクシャイン時代の北海道

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[注 2]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族(和人シサム・シャモ[注 3])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。

ウェンペ

アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使っていた。悪い同胞を彼らはアイヌと言わず、ウェンペ(悪いやつ)と呼んだ[10]

地域差

地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。

時代別の呼ばれ方

大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる[11])」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。
その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。

アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原氏ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された[12]

ウタリ[編集]

ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間である[13]が、長年の差別[注 4]の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、1961年から2006年にかけ、行政機関の用語としても使用されていた。

蝦夷[編集]

朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。

東北地方の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、平安時代の民夷融和政策により、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した[18]

中世以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた。

また、黒竜江(アムール川)下流域や樺太に居住する他の諸民族から、樺太アイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれていた[20]

アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集生活様式が継続する続縄文文化の生活様式が営まれていた。大和朝廷による記録として、日本書紀には阿倍比羅夫が齶田/飽田(秋田)・渟代(能代)・津軽の蝦夷を平定し朝貢を受けたこと、渡嶋(現在の北海道と考えられる)へ渡った阿倍比羅夫が当地の蝦夷の要請を受けて、蝦夷と軍事的緊張状態にあった「粛慎」(オホーツク人とする説があるが詳細は不明)を征討したという記事が見られる。7世紀以降[21]、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。この頃より続縄文文化が変化して擦文土器に代表される擦文文化が始まっている。古代の文書に記された「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論があるが、これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである。

13~14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された。12世紀以降、道南に和人の定着が始まり、13~14世紀には鎌倉幕府によって安東氏が蝦夷管領に任じられ、道南に幕府の影響力が及ぶようになった。

擦文時代に自製していた土器[22]は、和人との交易で移入された鉄鍋や漆器が使用されるようになると作られなくなった。住居も縄文時代から続く竪穴式住居から、地面と同じ高さの床を持つチセへ移行する[23]。擦文時代の住居には備えられていたかまどがすたれ、炊事は囲炉裏でのみ行われるようになる。また、多くの遺跡からキビ・アワ・オオムギの種子や農具としての鎌が出土し、鍬先・鋤先出土(9か所)例も有る[24]擦文時代から、農耕を行った形跡のない[25]上川アイヌ(日高アイヌはアワ、ヒエを収穫)、オオウバユリ製デンプン、エゾシカ、サケが主な食べ物であった[26]時代へと移行する。

アイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。また、清から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった(乱後「交易の条件は少しよくなりました[27]」)。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした。幕末、箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。

イオマンテの一場面。熊を檻から引き出し、ロープをかけて広場に連れ出す。右から、熊の世話係だった女性が従う。

1771年(明和8年) – 択捉島のアイヌと羅処和島のアイヌが団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する事件が発生している[28]。1806年・1807年には、植民地建設を行っていた露米会社のフヴォストフが千島アイヌを襲撃。米、衣服などを掠奪し部落や舟を焼き払ったので、多くの餓死者がでた。その他、小規模な海賊行為が横行していた[29]

1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた[要出典]

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した。戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、イオマンテや入墨、耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される。

同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、アイヌ語の禁止などは行われなかったものの、教育が日本語で行われた[注 5]ことでアイヌ語話者は漸減していく。1875年、地租改正によってアイヌの土地も私有財産と見做されるが、多くのアイヌは地権という概念に馴染めず、和人にこれを詐取される者が続出し(貨幣契約経済に馴染めぬ彼らが「従来の耕地は、焼酎一本、酒一升に依って轉々として人手に渡り[31][32])、多くが移住を余儀なくされる。また、乱獲による動物の減少を防ぐためとして伝統的な狩猟、漁撈も制限され[注 6]、生活も困窮の一途をたどっていく(実際、江戸期から交易のためにアイヌによって乱獲されたラッコ[一枚米大俵十]、ワシ[十箇米小俵二十]は絶滅又は寸前。近代漁法の導入で河川の鮭・鱒は激減[33])。

そこで開拓使は土人漁業組合を組織。解散後に財産・収益を分配するが、一戸当たりの配分額は百六十七円余(教員給与の16年分)であった。直接受け取ったアイヌは、蓄財を好まぬ性癖から全て失い離散。開拓使に保管利殖を頼んだアイヌには、大正末期まで莫大な給与が支払われる。[34] 他方政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、土地の無償下付(5町歩=約5haで民間開拓と同じ)や農具の給付、無償医療の提供、冬季生活資糧の給付など、様々な救済措置を実施する。しかし農耕を忌避する文化[35][36]から、アイヌは給与地をおおむね和人に賃貸し狩猟採集生活を脱しきれなかったため、生活改善は遅れた[37]。この実情に鑑み、不当な賃貸借契約を破棄させアイヌの手に取り戻したのが昭和12年に可決・施行した改正保護法で、土地の無償給与(8,338町歩、一戸あたり2.2町歩)、進学者への学資、住宅改築8割補助金の給付等のアイヌ保護育成策をも構じる[38]

昭和21(1946)年政府は一部保護施策を除き保護法を全廃。生活保護法を適用することに改める[39]。1948年マッカーサーが指令した農地改革法により不在地主地は無条件で解放されアイヌは土地を失った[40]が、和人との混住によって自立自営の精神を涵養する機会を与えた[41]

宗教[編集]

アイヌの祭壇「ヌサ」。明治後期。

アイヌの宗教はアニミズムに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。

仏教

文化4年(1807)ロシア船が来寇した時にはこれに帰依する五百人余のアイヌが仏幡を立ててこれを守ったと記録されている。これとは伊達市の有珠善光寺およびその本尊阿弥陀如来で、開基は827年、1613年に再興されたと伝える[42]

キリスト教

北千島(新知郡・占守郡)に住む千島アイヌはロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になったが、国力の乏しい当時の日本にとって生活物資の補給は大変困難であり、開拓使の官吏が北千島の住民を説得し色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。色丹島に移住した千島アイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[43]

また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった[44]」と記述している。

建築[編集]

アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床式倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。

アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれる壕や崖などで囲まれる空間が造営されることも多かった。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用の砦であったという説などがあり、これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。

衣装[編集]

アイヌの伝統衣装はアミㇷ゚と呼ばれ、特にオヒョウやシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパㇻミㇷ゚」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカㇷ゚ウㇽ」がある。

江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖や陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。

口承文芸[編集]

アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはユーカラ(ユカㇻ、叙事詩)などの歌謡と、ウエペケレ(昔話)などの散文に大別される。大正時代にアイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』が出版されたほか、金田一京助、知里真志保らによるユーカラ研究がある[45]

現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている[46]

古式舞踊[編集]

伝統舞踊を披露するアイヌ。

祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リㇺセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録[47]。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。

かつてのアイヌ語の分布

アイヌの言語であるアイヌ語は孤立した言語であり、日本語とは系統が全く異なる。言語類型論上は、膠着語に属する日本語とは異なり、抱合語に分類される。北海道、樺太、千島列島、東北地方北部に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」(critically endangered) な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である[48][49]。危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された[注 7]。系統的には「孤立した言語」とされており、縄文時代の言語をそのまま残しているという説がある。文字を持たない民族であったが[注 8]、北海道はもとより、東北地方北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。[要出典]

アイヌ語の推定起源と普及

アイヌ語は方言間の差異が小さいため、アイヌ祖語からの分岐年代を1300年前頃と見積り、それゆえアイヌ語がオホーツク人の言語の影響を受けた後に拡散した可能性を提示する説もある[50]。ただし、オホーツク人は遺伝的にニヴフやツングース系民族(ウリチやネギダールなど)と近縁であるとされているが[51]、アイヌ語とニヴフ語やツングース語族との間では一部の単語の借用はあるものの[52]、その系統関係は証明されていない。

人口と分布[編集]

北海道のアイヌ人の分布地図 1999年
樺太のアイヌ(1903年)

アイヌの人口分布地は、北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ半島、東北地方北部である。なお、北海道、千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである。
日本の国勢調査において、アイヌ民族の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、正確な数は不明である。

ロシア連邦における調査で、2018年時点でロシア国内におけるアイヌ民族はカムチャツカ地方における105人と報告されている[53]

江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。

1756年に弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対して、平民化政策という同化政策を行った。

1809年に弘前藩では最後となる二度目の同化政策を推進した。以降も「東奥沿海日誌」で居住する彼らの子孫たちが、地域にとけ込んでいた[54]

1855年2月7日調印の日露和親条約で、樺太(サハリン)は日露両国民雑居の地とされ帰属未解決のままにされた[55]

1875年5月17日の樺太千島交換条約後、日露和親条約で不確定だった千島列島を日本領で樺太はロシア領と確定した[55]。困難な生活物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが開拓使によって説得の上色丹島へ移住させられた(『千島巡航日記』)。

1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領側に居住していた[56]

1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島・北方領土を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された[注 9]。残存したアイヌとその子女は2018年の「ロシアの先住民」と認定されるまで日本人とその子孫として扱われた[57][53]

1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[58]

北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された[59]。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。

1992年に日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある[注 10]。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキが樺太アイヌの女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔は日本にいる。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人[59]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、本人がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。

2017年の北海道による調査では、道内のアイヌ人口は約1万3000人となっている。これは2006年の2万4000人から急激に減少しているが、これは調査に協力している北海道アイヌ協会の会員数が減少したことと、個人情報の保護への関心の高まりから、調査に協力する人が減っていることが挙げられ、実際の人数とは合致しないと考えられている[60]

戦後の日露におけるアイヌ[編集]

日本[編集]

1930年代の日本におけるアイヌの夫婦(歴史写真会「歴史写真(昭和7年8月号)1932年」)

2016年に日本政府は日本国内の先住民として認識しているのはアイヌのみであるとしている[61]。ただし、国連人種差別撤廃委員会は、アイヌ民族以外に琉球民族も先住民だとし、日本政府とは異なる見解を示している[62]。2006年(平成18年)の北海道の調査によれば、アイヌの人々に、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、「はい」と答えた人が16.8%、「別の誰かが受けたことを知っている」と答えた人が、19.8%であった。このうち、「直近7年間に自分が差別を受けた」という人は2%程度である。2013年(平成25年)の調査でもアイヌの人々に対して、「現在は差別や偏見がなく平等であると思うか」聞いたところ、「平等であると思う」とする者の割合が50.4%(「平等であると思う」25.3%+「どちらかというと平等であると思う」25.1%)、「平等ではないと思う」とする者の割合が33.5%(「どちらかというと平等ではないと思う」24.3%+「平等ではないと思う」9.2%)、「わからない」と答えた者の割合が16.1%ととの結果であった[63]

しかし、2016年(平成28年)の法務省の調査によれば、「家族・親族・友人・知人が差別を受けている」と回答した人が51%であり、また、同調査で、アイヌの人々に対する差別や偏見の有無について日本国民全体を対象にアンケートをしたところ、国民全体の18%のみが「あると思う」、51%が「ないと思う」と答えている。それに対し、アイヌの人々は72%が「あると思う」、19%が「ないと思う」と答えている[64]。菊地千夏は、アイヌとして生活する者が周囲から差別的に扱われる順番として、第一に義務教育課程でアイヌ文化を扱った授業を受けた時、第二に婚姻・結婚、次に就職など社会に出た場合、とされる。中でも義務教育時代に受けた差別は普遍的な経験になっている、としている[65]

明治以降は和人との結婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少している。大和民族との結婚が増えている理由として、1984年に西浦宏巳は1980年代前半に二風谷のアイヌ調査を行った際には、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと主張している[66]。アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造(1938年11月生)のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力した。また、浦河町のエカシである細川一人(1922年11月21日生)は、和人の両親から生まれたため、自らはアイヌ民族ではなないが、幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたと語っている[67]

2020年に内閣府はアイヌに対して知っていることで世論調査を行った。アイヌの存在93.6%、アイヌが先住民族91.2%、アイヌ語がある81.3%であった。一方で中世以降アイヌと和人の間に争いがあった44.1%、明治以降アイヌが独自の文化を制限され貧しい暮らしを余儀なくされた46.3%、アイヌのなかで文化の復興保存活動をしている46.5%と負の歴史などでは過半数を割る結果であった[68]

文筆家の古谷経衡は日本テレビで起こったアイヌに対して不適切な内容が放送された事に対し日本人の歴史認識の低いと述べ、内植民地化という表現が琉球民族とアイヌ民族にすっぽりと当てはまると主張している。日本人はアイヌの土地を侵略し征服したというアイヌ側の視点を無視し開拓者が北海道を作ったと和人側の認識しか持っていない、同化政策などアイヌに対する加害を無視して歴史を教えている、自分は明治に北海道に移住した人間の子孫であるが後ろめたい歴史があるから開拓者の子孫とは名乗らないと主張する記事を寄稿した[69]

ロシア[編集]

ロシアにおけるアイヌ

「日本人」認定時代

ロシア連邦はカムチャツカ地方の先住民族として認めているのはコリャク、イテリメンなど6民族だけであり、旧ソ連時代を含め、アイヌ民族に関しては「日本人」だとして先住民とは認めてこなかった[57]。ソ連の侵略時に千島に居住していたアイヌ民族は、戦後にソ連によってサハリンやカムチャッカ半島への移住をさせられている[57]。旧ソ連は戦後、サハリン(樺太)や千島列島のアイヌ民族を日本人としたことで戦前に出生していたアイヌ民族の出生証明書はなく、アイヌ民族であることを示す証拠も残らなかった[57]。2008年5月に先住民族認定を求め、初のロシア国内にアイヌ民族団体が設立されている。カムチャツカ地方の団体「アイヌ」の代表となったアレクセイ・ナカムラは、2002年のロシアの人口調査で民族欄に「アイヌ」と初めて書いた際に、「国の登録項目にアイヌ民族はない」と却下されている[57]。2018年12月のプーチン大統領への報告時点でロシア国内のアイヌ民族について、ソ連時代に移住させられたため「カムチャツカ地方に105人しかいない」と説明されている[53]。日本側にはアイヌ民族が住んでいた地域は、歴史的にも日本固有の領土だとする考え方もある[70]

「ロシアの先住民」認定以後

2018年12月、ロシアは方針転換し、プーチン大統領がカムチャッカ地方の「北方領土を含む千島列島」(ロシア名:クリール諸島)などに現存するアイヌ民族をロシアの先住民族として認める考えを示した[71]。北海道新聞は背景に、上記の日本側のアイヌを理由とする北方領土に関する主張をけん制する狙いがあるとの報道した[72]。2014年ウクライナ紛争におけるロシアによるクリミアの併合の際、ウクライナや西側諸国はクリミア併合を違法として承認していないが、ロシアが「ロシア系住民の保護」を理由に軍を投入し、結果的に併合した歴史があるため、2022年ロシアのウクライナ侵攻以後「ロシアの先住民族であるアイヌ民族」を理由とするロシア軍の北海道への侵略がより危惧されている[73][74]。2019年1月11日にはアイヌ団体モシㇼ コㇽ カムイの会が「北方領土と千島列島(クリル諸島)をアイヌ民族の自治州あるいは区にして欲しい」「南クリル地域(北方領土)については、UNESCO世界自然遺産登録地である知床半島(北海道島)との一体的な保全管理をご検討ください。」などとする要望書を、「ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン閣下」「在札幌ロシア連邦総領事館ファブリーチニコフ・アンドレイ閣下」に対して提出されている[75][76]。2022年4月にはロシア国家下院副議長を務めるセルゲイ・ミロノフが、「ロシアは北海道に権利を持っている」「もし日本人は関東軍の運命を忘れたのであれば、それを再現してやろうではないか」と発言した[76][77][78]。セルゲイ・ミノロフは 「多くの専門家は、ロシアが北海道に対してあらゆる権利を持っていると考えている」と主張し、ロシアの政治学者セルゲイ・チェルニャホフスキーが日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間に引くことを決め、北海道が日本領だとされた1855年の日露和親条約は「純粋な誤解」「東京(日本政府は)は、歴史的にロシア領であった北海道を不適切に保持している」と主張していることを紹介している。更には、北海道について、 「ロシア人開拓者が交易のために開発、植民地化を行い、利用していた。そこ(北海道)にはアイヌ民族が住んでいた。サハリンやウラジオストク近郊、カムチャッカの南部に住んでいるのと同じ民族で、ロシアの民族のひとつだ」との意見を紹介したと報道された[78]

形質と遺伝子[編集]

形質[編集]

形質人類学では古モンゴロイドに属す。

明治以来、アイヌは他のモンゴロイド(新モンゴロイド)に比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。これまでアイヌの起源論については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、遺伝的にはコーカソイドとの類縁性はなく、歯冠形質においても明らかにモンゴロイドの系統に属することが判明している[79]。また系統的に類縁性があるのは琉球人である。(ヨーロッパ人と似た外観を持つのはアイヌの一部で、大多数がシベリア人・北アジア人に似ており、特にチュクチ人に最も類似する、との分析もある[要出典]。)アイヌは北海道の縄文人の子孫とされるが、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究[80]もある。

2015年のアイヌを対象にした遺伝子分析により、顔の特徴に関連するDNA対立遺伝子が見つかった。 このDNA対立遺伝子はヨーロッパ人に一般的であり、一部のアイヌがヨーロッパ人のような顔の外見を持つ理由とされる。このDNA対立遺伝子は縄文時代にシベリアから到着したと考えられている[81]

ブレースらによる比較研究 (2001)先史時代のそして生きているヨーロッパのグループと、アイヌと彼らの北海道縄文人の祖先のより密接な形態学的関係を示しました。 この研究は、彼らの祖先の一部は、更新世後期に東にユーラシア北部に移動した集団(ブレースらによって「ユーラシア人」と呼ばれる)の子孫であると結論付けています。 ヨーロッパ関連の人口のこの北のルートは、東南アジア本土からの東アジアの現代のコア人口の拡大よりもかなり前からあります。 著者によると、これらの形態学的類似性は、アイヌが祖先の中にインド・ヨーロッパ語の要素を持っているという長年の主張の根拠を提供します[82]

遺伝子調査[編集]

本土日本人 (Mainland Japanese)、琉球人 (Ryukyuan)、アイヌ人 (Ainu) と他のアジア民族集団の系統樹。本土日本人は集団としては韓国人と同じクラスターに属した[83][84]

一塩基多型(SNP)に基づく遺伝子調査により、アイヌと琉球人は類似性が非常に高い集団であることがわかっている。また、アイヌの3分の1以上に、本土和人/本土日本人との遺伝子交流が認められている。東アジア大陸部の他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示されている。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示唆している[85]。アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[86]

東アジアのY染色体ハプログループ移動図

アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループD1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。ハプログループD1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2が2/16=12.5%と報告されている[87]

母系を示すmtDNAハプログループについては、51人の調査で、ハプログループYが21.6%、ハプログループDが17.6%、ハプログループM7aが15.7%、ハプログループG1が15.7%などとなっている[88]

アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる[89]

日本人の起源としては「二重構造モデル」がかねてから主流であるが、総合研究大学院大学と東京大学の遺伝子調査により、二重構造モデルの予言した通りにアイヌ人は本土日本人より琉球人と近いことが裏付けられた[90]

北海道縄文人集団[編集]

アイヌは北海道縄文人の子孫とされるが、北海道の縄文人は本州や九州の縄文人とは異なっていたとされる。(本州・九州縄文人は現代の東アジア人に似ていたが、北海道縄文は古代シベリア人に近縁であったとされる[91][92]。瀬口(2014)によると、縄文人は旧石器時代の多様な集団から派生し、様々なルートで日本にやってきたとされる[93]。)

母系の系統を表すミトコンドリアDNAの系統解析から、北海道の縄文時代人・続縄文時代人の母系系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団の母系系統の頻度分布と大きく異なることがわかっている[94]。また、坂上田村麻呂による蝦夷征討以前の東北地方の古墳時代人には、北海道の縄文人・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察されることから、東北地方の縄文人も北海道の縄文人・続縄文人と同じ系統に属する可能性が指摘された。これを受けて東北地方縄文時代人のDNAと北海道縄文時代人のDNAが比較され、北日本縄文人の遺伝子型の中心となっているのはハプログループN9bおよびM7aであることがわかった。

北海道縄文人集団には、N9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている。このうち、N9bの頻度分布は64.8%と非常に高い。N9bはアムール川下流域の先住民に高頻度で保持されている。また、D10はアムール川下流域の先住民ウリチにみられる。G1bは、主に北東アジアにみられるハプログループGのサブグループで、カムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない。

他の先住民族との関連[編集]

アイヌ(左)とニヴフを描いた絵(1862年)

近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消している[97]

2009年、北海道で発見されたオホーツク文化遺跡の人骨が、現在では樺太北部や外満州のアムール川河口一帯に住むニヴフに最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリャーク人とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[97][98][99]。また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるハプログループY遺伝子が確認され、アイヌとオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[97][98][99]。アイヌ民族は縄文人や本土日本人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった[98][99]

天野哲也北海道大学教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした[97]。増田隆一北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した[98][99]。この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた[98][99]

HLA IおよびHLA II遺伝子、ならびにHLA-A、-B、および-DRB1遺伝子頻度の遺伝分析では、アイヌはアメリカ大陸の先住民族、特にトリンギット島などの太平洋岸北西部沿岸の人口に関連性が高いとされた。アイヌといくつかのアメリカ先住民の主な祖先は、シベリア南部の旧石器時代の集団に遡るとされている[100][101][102]

2004年の頭蓋特性の再評価では、アイヌの頭蓋特性は縄文人と北東アジア人、縄文人とアメリカ先住民の中間に位置し、アイヌは常に縄文人と関連づけられるが、18項目の内7項目の特性においては縄文人よりもオホーツク人における出現頻度に類似するという結果が出ている[103]

ゲノム解析から推定されるアイヌの遺伝的形成過程[編集]

2010年代以降のゲノム解析に基づく研究は、アイヌの遺伝情報の多くが縄文人に由来していることを示している。2019年に発表された、北海道の礼文島の船泊遺跡から出土した縄文人の人骨(F23)のゲノム解析によれば、アイヌの遺伝情報の66%が縄文人に由来する[104]。また、2020年に発表された、愛知県伊川津貝塚遺跡出土の縄文人骨(IK002)のゲノム解析においても縄文人とアイヌの遺伝情報の高い共通性が示され、アイヌの遺伝情報は平均して79.3%が縄文人に由来することが示唆されている[105]。アイヌの遺伝情報の他の由来についてはすでに人骨の形態とミトコンドリアDNAの解析からオホーツク文化人との遺伝的交流が想定されていたが、ゲノム解析の結果もその想定を支持している。2021年に発表されたオホーツク文化人のゲノム解析研究においてはアイヌの遺伝的形成過程について、縄文人[注 11]とオホーツク文化人、日本本土人(大和民族・和人)との混血が想定され、そのうち最も蓋然性が高いとされる想定によれば、アイヌの遺伝子の49%が直接縄文人に由来し、22%がオホーツク文化人に、29%が日本本土人に由来する[106]。この想定の場合、オホーツク文化人と日本本土人もそれぞれ1割程度縄文人由来の遺伝情報を持っているため、最終的にアイヌが受け継ぐ縄文人由来の遺伝情報は49%よりも高くなる。

諸説[編集]

自然人類学の中には(特に日本人(和人)の学者の中には)「アイヌも本土日本人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ」とする学者もいた[誰?]

また日本人(和人)の側に立って日本人(和人)を研究する研究者であり、「南方系の縄文人、北方系の弥生人」という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、「アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立した」と主張した(2009年)。また「アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫」と主張した。

他文化との関連[編集]

髭を蓄えたアイヌの男性

近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになっている。また、アイヌは、ニヴフをはじめアムール川流域に住むウリチ/山丹人との関連も強く示唆されている[98][99]。擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている[98][99])の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。

先住民族の権利[編集]

1950年代のアメリカ合衆国で先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた。

1997年、アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを先住民族と認定されなかった。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。

2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された[108][109][110]。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業[111]をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ[112]に基づき実施している。その際には、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。

2008年5月12日に鈴木宗男が国会に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。」と答弁している(ただし「先住民族」との認識ではない)。6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた[113](ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)。一方で、『菊と刀』などの著作で知られる文化人類学者ルースベネディクトは、その著作の中で繰り返し、アイヌを日本の先住民族(indigenous group)と書いている[114]

2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請」が行われた[115]

2019年4月19日、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律が成立し、同月26日公布された。同法1条の目的規定において「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌの文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務,政府による基本方針の策定、民族象徴共生空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の作成及び内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」と規定され、法制上アイヌの人々が北海道の先住民族であることを明記した。

同法に基づき、国有林野におけるアイヌにおける儀式の実施その他アイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取について共同使用権の取得に関する規定、内水面さけ採捕事業についての漁業法及び水産資源保護法上の許可の配慮規定などが設けられるにいたった。

2018年12月、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した[116]

札幌市議会議員によるアイヌ民族否定[編集]

2014年8月に東区選出の札幌市議会議員で自由民主党所属の金子快之[注 12]がTwitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところ」とアイヌ民族は今は存在しないとする書き込みを行っていたことが判明[118][119]、アイヌの団体などから批判され、自民党の市議会会派から除名された後、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議[120]をうけた。金子は、北海道アイヌ協会がアイヌ民族の認定を行っていることに対し「アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しない」とし、「アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定しており、出自がアイヌでなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌとしての優遇措置を受けられる、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在しているなどといったことを市議会で告発した。アイヌの文化や歴史自体を否定するものではないとしつつも、利権の問題には今後も取り組んでいくと述べた[121]。しかし一方で除名処分に際し『アイヌ民族は先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない[122]。その後の金子は辞職を拒否して保守系無所属の市議となり、2015年の札幌市議選では東区選挙区から再選を目指したものの落選した[123]

墓地の盗掘と遺骨返還[編集]

北海道や千島、樺太の開発と学術調査が本格化した明治以降、国内外の民族学者や考古学者らが、アイヌを含む北方先住民族の墓地を盗掘して、遺骨を乱雑に扱ったり、国外に持ち出したりした例があった。北海道大学では1995年に「北大人骨事件」が発覚。北大は学内で保管するアイヌの遺骨(16人分)を、日本政府のガイドラインに沿って子孫ら祭祀継承者へ渡す「アイヌ遺骨等返還室」を2015年4月に設置した[124]。またドイツの学術団体「ベルリン人類学・民族学・先史学協会」(BGAEU)は2017年7月31日、ドイツ人旅行者のゲオルク・シュレジンガーが1879年に札幌市内のアイヌ墓地から持ち出したアイヌの遺骨1体を、在ベルリン日本大使館で北海道アイヌ協会へ返還した。この遺骨は8月2日に北海道大学のアイヌ納骨堂に納められた後、同月4日に慰霊祭(イチャルパ)で供養される予定である[125]

博物館、資料館[編集]

関連団体[編集]

関連作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 縄文土器の文様は、長い長い年数をかけてゆっくりと変化してゆき、「後期縄文土器」の文様は、その後の時代の「アイヌ」の人々が用いている文様と酷似しており かなり直接的に、連続的に繋がっている。
  2. ^ 例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中華王朝の史書では「倭人」と記載されているが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族やチェロキー、カザフなどにも、民族名に「人」の意が含まれる。
  3. ^ 当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
  4. ^ 萱野茂によれば、和人の多い学校に通ったアイヌが「あア、イヌが来た(あ、アイヌが来た)」と悪口を言われるのは序の口だったという[14]。1986年には秋玲二の漫画『日本のんびり旅行』で北海道を扱った際、子供が次の行先を決めるために投げた石が犬に当たったのを見て「あっイヌだ!(中略)アイヌコタンへいこう」と言う場面があり[15]、小川隆吉は人権侵犯事案として法務局に申し入れた[16]。また、2021年3月12日放送の日本テレビ系朝の情報番組「スッキリ」で、アイヌの映画を紹介する際にコーナーを担当するタレントが「この作品とかけまして動物を見つけたととく。その心は、あ、犬」という謎掛けを披露し、批判が寄せられた[17]
  5. ^ 義務化されたのは国語、算数、体育、農業の4種目であった。
  6. ^ 毒矢と網の使用禁止、禁猟区と禁猟期の設定。
  7. ^ 他の7言語は与那国語、八重山語が「重大な危険 (severely endangered)」、宮古語、沖縄語、国頭(くにがみ)語、奄美語、八丈語が「危険 (definitely endangered)」に分類されている。
  8. ^ 1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。
  9. ^ 「昭和21年(1946年)12月19日、東京でデレヴャンコ中将と日本における連合国軍最高司令官代表ポール・J・ミューラー中将が、ソ連領とのその支配下にある地域からの日本人捕虜と民間人の本国送還問題に関する協定に署名した。協定では、日本人捕虜と民間人はソ連領とその支配下のある地域から本国送還されなければならない、と記されていた。日本市民はソ連領から自由意志の原則に基づいて帰還することが特に但し書きされていた。」(ネットワークコミュニティきたみ・市史編さんニュース №100 ヌプンケシ[リンク切れ] 平成17年1月15日発行)
  10. ^ 「しかしアキヅキトシユキは実際には1975年の樺太・千島交換条約の際に千島に住んでいた90人のアレウト族の末裔だったのではないかと推測している。そのアイヌがどこのだれのことを示しているのかということに関してそれ以上の情報はでてこなかった」
    David L. Howell. “Geographies of Identity in Nineteenth-Century Japan”. University of California Press. 2014年7月13日閲覧。
    小坂洋右『流亡: 日露に追われた北千島アイヌ』北海道新聞社、1992年。ISBN 9784893639431。[要ページ番号]
  11. ^ この研究では縄文人の遺伝情報として船泊遺跡出土の人骨(F23)の情報が用いられている。
  12. ^ かねこ やすゆき。1970年、兵庫県生まれ。東京大学卒業後、1998年から北海道に在住し、2011年の市議会議員選挙でみんなの党公認で初当選した後、同年4月から自民党に所属していた[117]。落選後NHKから国民を守る党に入党し2019年に渋谷区議に当選するも同年離党、現在は無所属。

出典[編集]

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    Adachi et al. (2013) described the craniometrics and aDNA sequence from a Jomon individual from Nagano (Yugora cave site) dated to the middle of the initial Jomon Period (7920–7795 cal BP). This individual carried ancestry, which is widely distributed among modern East Asians (Nohira et al. 2010; Umetsu et al. 2005) and resembled modern Northeast Asian comparison samples rather than geographical close Urawa Jomon sample.

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参考文献[編集]

関連文献[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]