Month: March 2018

女の決闘 (横溝正史) – Wikipedia

『女の決闘』(おんなのけっとう)は、横溝正史の短編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。『婦人公論』1957年(昭和32年)1月号 – 3月号に『憑かれた女』という表題で掲載された[1]。 あらすじ[編集] 秋に入るころ、緑ガ丘のアメリカ人バイヤー宅で、急に帰国することになったロビンソン夫妻のさよならパーティが開かれていた。その席上、隣人の流行作家・藤本哲也の現在の妻である多美子と別れた妻である泰子が並んでソフトクリームを食べていると、多美子が毒に中って倒れる。ソフトクリームは哲也が多美子に頼まれて持ってきたもので、そのあと哲也は中井夫人に誘われて踊っていた。招待されていた金田一は、哲也が泰子に毒を盛ろうとして誤って多美子に行った可能性を指摘するが、泰子はそれを強く否定する。多美子は命に別状無く、ロビンソン夫妻は予定通り1週間後に出国する。 12月になって、バイヤー宅のガレージを借りて居住しているジャック安永がアメリカで映画に出演するため出立することになり、クリスマスを兼ねたお祝いのパーティが開かれた。ロビンソン夫妻さよならパーティの出席者は全員招待されていたが、多美子は悪性の風邪をひいて欠席していた。10時ごろに泰子が帰るが、5分ほどして、途中まで送るといってついてきた哲也が急に苦しみだして倒れたと駆け戻ってくる。哲也はストリキニーネで毒殺されていた。泰子がヒステリー性高熱で入院して尋問できない間に安永は予定通り出国、短時間の尋問に耐えられるまでに回復した泰子は哲也に復縁を迫られていたことを語る。警察は泰子に目をつけるが物的証拠をつかむことができず、その間に泰子の元には椙本が足繁く通い、多美子の元にも井出が通っていた。 哲也が肝臓の保健剤を常用していたことを島田警部補から聞き、さらに哲也が多美子との再婚後1編も作品を発表していないことや、哲也殺害後の「マギー、あなただけは知っているわね」という泰子のつぶやきを気にした金田一は、メルボルンのロビンソン氏に宛てて手紙を書く。1月の終わりに届いた返信に書かれたマギーの言葉によると、世間では哲也が泰子を捨てたように思われているが事実は逆だという。哲也は作家としてマヤカシモノで泰子が代作していた。また、パーティに泰子は呼んでおらず、別に1日を過ごす予定だったという。 真相をつかんだ金田一はロビンソン氏に返信する。哲也の美貌と才能を愛して結婚した泰子は、その才能が1作限りだったことを知り代作することになったが、それは数年で破綻した。そして、代作の秘密は漏らさず、泰子は成人向け小説を書かず、哲也の方が泰子を捨てたように取り繕うという条件で離婚が成立した。多美子も哲也の美貌と才能を愛し、井出の求婚を捨てて結婚したが、哲也の才能の正体を知って復讐を考え、その罪を泰子に着せようとした。まずロビンソン夫人の名を騙って泰子をパーティに呼び、少量のストリキニーネを飲んだ。そして次のパーティで保健剤にストリキニーネを仕込んで殺害した。 多美子は致死量のストリキニーネを飲んで自殺した。一方の泰子は椙本と結婚するという噂がある。 登場人物[編集] 金田一耕助(きんだいち こうすけ) 私立探偵。 ジェームス(ジム)ロビンソン オックスフォード出身。戦前小樽の高商で英語を教えていたが、戦時中は一旦ロンドンへ帰りオーストラリアへ。戦後メルボルンの大学から日本政治史研究のため派遣され、私立大学で英語を教え自宅でも個人教授をしていたが、急遽帰国せねばならなくなった。 マーガレット(マギー)ロビンソン ジェームスの妻。3年ほど前にジェームスがロンドンへ帰ったとき結婚。来日前から茶の湯や生け花に興味があり、木戸に弟子入りして、他の弟子たちに英語を教えていた。 ジャック安永(ジャック やすなが) ハリウッドの俳優だったところ、某映画会社に迎えられて映画監督として帰国したものの没落し、現在何をしているのか不明。アメリカ人バイヤー宅のガレージを借りて居住。金田一のアメリカ時代の友人。

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セルゲイ・ボンダルチュク – Wikipedia

セルゲイ・ボンダルチュクСергей Бондарчук 1969年 本名 Сергій Федорович БондарчукSergei Fyodorovich Bondarchuk 生年月日 (1920-09-25) 1920年9月25日 没年月日 (1994-10-20) 1994年10月20日(74歳没) 出生地 ソビエト連邦 ウクライナ社会主義ソビエト共和国 ヘルソン県(現在のヘルソン州)ビロゼールカ(ウクライナ語版) 死没地

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パトロクロス – Wikipedia

パトロクロス(古代ギリシャ語: Πάτροκλος, Patroklos、英語: Patroclus)は、ギリシア神話の登場人物。 メノイティオスとステネレーの子で、オプースで生まれた。母親はペレースの娘ペリオーピスあるいはペーレウスの娘ポリュメーレーともいう。パトロクロスとは「父の栄光」を意味する[注釈 1]。 トロイア戦争の英雄アキレウスの親友であり、その活躍はホメーロスの叙事詩『イーリアス』に詳しい。 神話 前半生 パトロクロスは少年のとき、サイコロ遊びから喧嘩となり、アムピダマースの子クレイトーニュモスを誤って殺してしまった。このために父親とともにオプースの地を逃れ、ペーレウスのもとで養育された。 パトロクロスはペーレウスの子アキレウスよりも年長だったが、二人は無二の親友となった[注釈 2]。 スパルタの王女ヘレネーに求婚者が殺到したとき、パトロクロスもその一人となった。このとき、他の求婚者たちと同様に、パトロクロスはヘレネーの夫に選ばれた者を守ると誓った。後に、ヘレネーがパリスによって連れ去られると、ヘレネーの夫メネラーオスはかつての求婚者たちに伝令を送り、これは全ギリシアに対する侮辱行為だと訴えた。 トロイア戦争 出征 グラウコスが助けに駆けつけるも、サルペードーンを槍で殺すパトロクロス(右端)。紀元前400年ごろの赤絵式ヒュドリア。ポリコーロ国立考古学博物館。 パトロクロスの遺体を守るメネラーオス。紀元前3世紀ごろ、ヘレニズム時代のギリシアの大理石像の復元。フィレンツェ、ロッジア・ディ・ランツィ。 トロイア戦争が起こると、パトロクロスはアキレウスに従って出征した。アミュントールの子ポイニクスもパトロクロスとともに参戦した。 ミューシアに上陸[注釈 3]したギリシア勢はテーレポスに迎撃され、テルサンドロスが討たれた。この戦闘でパトロクロスはアキレウスの側で戦い、テルサンドロスの遺体をディオメーデースとともに守って矢傷を負った。アキレウスはパトロクロスを手当した。

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河野聡 – Wikipedia

河野 聡(こうの さとし、1968年〈昭和43年〉10月15日 – )は、日本の映画プロデューサー、アニメプロデューサー、実業家。株式会社バンダイナムコホールディングス取締役 IPプロデュースユニット 映像音楽事業担当、株式会社バンダイナムコアーツ代表取締役社長、一般社団法人日本レコード協会・日本映像ソフト協会理事、株式会社サンライズ・studioMOTHER株式会社非常勤取締役。東京都出身[1]。学位は経済学士(流通経済大学・1991年)。 流通経済大学経済学部を卒業後、1991年に東京テアトルに入社。1992年にバンダイに入社を経て、1994年にバンダイビジュアル(現・バンダイナムコアーツ)に移籍。宣伝担当を経て、プロデューサーとして映画やアニメに携わる。 2021年にバンダイナムコアーツ代表取締役社長に就任。2022年4月1日、サンライズ、バンダイナムコアーツの映像部門、バンダイナムコライツマーケティングの合併により発足するバンダイナムコフィルムワークスの取締役副社長に就任予定[2]。 学歴・職歴[編集] 1991年(平成3年)3月 – 流通経済大学経済学部卒業[1]。 1991年(平成3年)4月 – 東京テアトル株式会社入社[3]。 1992年(平成4年)7月 – 株式会社バンダイ入社[3]。 1994年(平成6年)

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山本暎一 – Wikipedia

山本暎一(やまもと えいいち、1932年[1]または1940年11月22日[2] – 2021年9月7日[1])は、日本の映画監督、アニメ監督、演出家、脚本家、アニメーター、プロデューサー、小説家。京都府生まれ。 幼少期に父親が太平洋戦争に応召し、母親とともに母方の実家がある香川県の小豆島へ移住。中学時代よりアニメーターを志し、高校卒業後に横山隆一が主宰するおとぎプロに入社した。1960年、手塚治虫がアニメ映画を作ろうとしていると知り、おとぎプロを退社して手塚を訪問。翌1961年に設立された虫プロダクションの創設メンバーのひとりとなる。 1962年の第1回虫プロダクション作品発表会で上映された同社最初のアニメーション作品『ある街角の物語』(芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞受賞作)で、スタッフの中軸として活躍。以後、1973年の同社倒産まで、演出、作画、脚本、プロデューサーと、多岐にわたる業務をこなした。特に、「アニメラマ」と名づけられた日本ヘラルド映画配給の劇場用成人向けアニメ『千夜一夜物語』『クレオパトラ』、および同路線で文芸色が強い「アニメロマネスク」として制作された『哀しみのベラドンナ』で監督を務めたことが有名である(『クレオパトラ』は手塚治虫との共同監督)。 虫プロ倒産後は、1974年に第1作がテレビ放送された『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに企画段階から参加。「ヤマト」のロゴをデザインした他[3]、脚本を担当して同作の人間ドラマを構成し、脚本と絵コンテチェックも行った[4][5]。その後もいくつかのアニメ作品で監督、脚本等を担当している。 1989年春に虫プロ時代を回想した小説仕立ての『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』を発表。同作で山本の氏名は「安仁明太」としている。あとがきでは、仕事(アニメ制作)に関する記述はほぼ事実だが、プライベートに関する箇所はほぼフィクションであると記しているものの、同書はアニメ研究家にとって虫プロを知る上での基礎文献となっている[6][7][8]。 2021年9月7日、心不全のため死去[1]。 生年について[編集] 生前に山本のインタビューが掲載されたウェブメディアでは「1940年11月22日生まれ」と記載されていた[2]。一方、2021年9月の死去時の報道では没年齢は「88歳」と記されており[1]、仮に日付が同じとすれば1932年生まれとなる。 フィルモグラフィ[編集] 連続テレビアニメ[編集] 単発テレビアニメ[編集] パイロットフィルム、OVA[編集] 劇場用アニメ映画[編集] 『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年4月 あとがきで、師の手塚治虫(2月に病没した)に渡せなかったことを悔いている

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後土御門天皇 – Wikipedia

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、1442年7月3日〈嘉吉2年5月25日〉- 1500年10月21日〈明応9年9月28日〉)は、日本の第103代天皇(在位:1464年8月21日〈寛正5年7月19日〉- 1500年10月21日〈明応9年9月28日〉)。諱は成仁(ふさひと)。 生母である伊与局の出身身分が低く、当初は将来は出家させるつもりで父である後花園天皇の実家である伏見宮家にて育てられていたが、後花園天皇に他の男子が生まれなかったために、生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた[1]。 長禄元年(1457年)12月19日に親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年)12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。 践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられた。避難生活中には、義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通して皇女を出産している(『親長卿記』文明5年10月22日条)。屋敷内での密通は本来であれば室町第の主人である義政や兼子の主人である富子によって厳罰に処せられる行為であったが、その当事者の身分ゆえに天皇・兼子ともに不問にされている[2]。また、その富子との密通も噂されていた。更に応仁の乱の最中にも関わらず義政が度々室町第で酒宴を開いていたとされているが、その酒宴には常に天皇が同席して一緒に飲酒している有様であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)[3]。 乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。それでも、元日・白馬・踏歌の三節会は再興され、現在は国立歴史民俗博物館に所蔵されている「節会諸役人控」は当時(後土御門天皇期)の節会に参列した公家たちの交名(名簿)である[4]。 明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。 後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された[5]。 明応9年9月28日、御所の黒戸にて崩御。宝算59。葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった[6]。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている[7]。一方で、平安時代に後一条天皇の崩御を隠して後朱雀天皇への譲位を行って以来、在位中の天皇の崩御は禁忌となったため、10月に後柏原天皇への「譲位」による践祚を行った後に「旧主(上皇)」としての葬儀を行ったとする解釈もある[8]。また、江戸時代に書かれた『続本朝通鑑』には「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉(霊柩黒戸にあること四十余日、玉体腐損し、虫湧出し、古来未曾有)」と記されているが、同書以外にそのことを記した記録はない。奥野高広は論文「戦国時代の皇室御経済」(1944年)の中に出征中に急死した足利義尚の遺体が水銀による防腐措置が採られていた例を挙げて否定的な評価をした。これに対して久水俊和は防腐措置があっても43日間は余りにも長く、鎌倉時代の四条天皇の棺が葬儀の遅延に伴う長期の放置によって「御骨許相残」の状態(『平戸記』仁治3年2月2日条)になったのと近い状態だったのではないかと推定している。なお、後土御門天皇の葬儀に関しては東坊城和長が詳細な記録(『明応凶事記』)を残しているが、天皇の遺体の状態については記されていない[9]。 後土御門天皇は敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後土御門天皇は、以下の和歌を詠じた[10]。 誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ 罪びとのだれよりも重いのだ 朕の犯せる罪は。 救われると知っておかしたものだから どうして阿弥陀さまは 仏の誓願から朕をはずされないであろうか (別解釈) (罪人や極悪人をも救うという弥陀の)誓願のあることを 思いながら自らの手で

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爆笑100分テレビ!平成ファミリーズ – Wikipedia

『爆笑100分テレビ!平成ファミリーズ 』(ばくしょうひゃっぷんテレビへいせいファミリーズ)は、2007年10月7日から2008年3月30日まで日本テレビ系列で毎週日曜11:45 – 13:25(JST)に放送されていたトークバラエティ番組である。 家族をテーマとし、レギュラーやロケ出演者(準レギュラー)は家族の設定。ゲストも、本物の家族(親子)が登場した。 平成家(レギュラー)[編集] 父・平成一機:小堺一機 – 総合司会を兼任。 3兄弟の父親で部長クラスのサラリーマン。家族にはパパと呼ばれている。3兄弟と隆が居ないところでは、みきにダーリンと呼ばれている。 母・平成みき:真矢みき – アシスタントを兼任。 3兄弟の母親で外資系の大手企業に勤めるOL。日曜日によく出かけて家にいない事が多い。家族にはママと呼ばれている。3兄弟と隆が居ないところでは、一機にハニーと呼ばれている。 平成家に居候している、ケーブルテレビのディレクター。みきの弟で3兄弟の叔父。義兄・一機には、よく思われていないため、悪口を言われるが3人の甥とは仲良し。 平成3兄弟:Hey! Say! JUMP 隆の隣のソファーに座る。 カーペットに座る。時々龍太郎と場所を交換する。

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香川政夫 – Wikipedia

かがわ まさお 香川 政夫 生誕 (1955-06-08) 1955年6月8日(66歳)大阪府大阪狭山市 国籍 日本(1982年に取得[1]) 職業 武道家 団体 日本空手松涛連盟 流派 松濤館流 肩書き 首席師範 香川 政夫(かがわ まさお、1955年〈昭和30年〉6月8日

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ドゥア – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ドゥア” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年2月) ドゥア(Du’a, ? – 1307年頃)は、モンゴル帝国の皇族、チャガタイ家の第11代君主(在位:1283年 – 1307年)で、チャガタイ・ハン国の実質的な建国者である。『集史』などのペルシア語表記では دوا(Dūā)、『元史』などでの漢字表記は都哇。第7代君主バラクの子。 1270年に父バラクがオゴデイ家のカイドゥと対立中に、カイドゥによる毒殺と言われる謎の急死を遂げると、父の仇敵であるカイドゥと対立し、カイドゥの側についた第5代君主アルグの遺児のチュベイらと激しい抗争を10年近くにわたって繰り広げた。 その後、情勢の変化からカイドゥに服属することになり、逆にカイドゥと対立するようになったチュベイらが、モンゴル帝国のカアンであるクビライの政権、大元ウルスに逃亡したので、1282年になってカイドゥによって空席となっていたチャガタイ家の当主の座に据えられた。しかし実際にはドゥアはカイドゥの傀儡であり、カイドゥが中央アジアに成立させた「カイドゥ・ウルス」の一部をなす諸王に過ぎなかった。 1301年、カイドゥとともに大元ウルスに攻め込んだが、カイシャン率いる元軍に撃退され、カイドゥともども重傷を負った(テケリクの戦い)。この戦いで負った傷が元でカイドゥが亡くなるとカイドゥ王国内における長老として発言力を増し復権をはかった。 ドゥアはまずカイドゥによって生前後継者に指名されていたオロスを遠ざけてカイドゥの長男のチャパルを後継者に推し、チャパルの即位を実現させた。1304年にはチャパルとともに、クビライの孫のテムルのもとに使者を送り、カアンへの臣従を誓ってモンゴル帝国の再統合を実現した。 この後、チャパルとオロスがオゴデイ家の主導権をめぐって抗争をはじめると、ドゥアはオゴデイ家の内紛を好機とみてアルタイ山脈を越え、ジュンガリアに侵攻してきた元軍と連携してオゴデイ家の各勢力を各個撃破していった。

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