Month: May 2018

貫井南遺跡 – Wikipedia

貫井南遺跡(ぬくいみなみいせき)は、東京都小金井市貫井南町二丁目にある後期旧石器時代および縄文時代の遺跡である。 遺跡の概要[編集] 後期旧石器時代~縄文時代の集落遺跡である。これまで7次にわたる発掘調査が行なわれている。後期旧石器時代は、縄文時代遺構覆土・包含層から石器を検出しているが、立川ローム層の発掘は行なわれていない。縄文時代は中期の竪穴住居跡24軒、土坑170基以上が検出されており、大規模な集落跡であったと考えられる。 武蔵野台地の南端、国分寺崖線の南側、立川面に立地し、野川が崖線から離れて南側に大きく蛇行する部分の右岸に位置する。野川との比高は約2mで、下弁天(元弁天)池と呼ばれる湧水池に隣接する。立川ローム層はⅪ層まで確認され、以下シルト・砂層~礫層に移行し、立川1面に相当する。標高は53~54mで、隣接する武蔵野面上の遺跡との比高は15~18mを測る。 近隣には、同じ野川右岸、立川面上の遺跡として西側に荒牧遺跡、東側に前原遺跡、北側の国分寺崖線上の武蔵野面にはけうえ遺跡があり、野川流域遺跡群を構成する。 調査の歴史[編集] 昭和初期には遺跡の所在が知られていたようである。その後1971年(昭和46年)に、東京学芸大学考古学研究会による分布調査により周知の遺跡となった。1972年(昭和47年)に都道府中・清瀬線(新小金井街道)建設に伴い遺跡西側を南北に縦貫するかたちで発掘調査が行なわれ、縄文時代中期の竪穴住居跡17軒、土坑12基などが検出された(第1次調査)。1979年(昭和54年)には、第1次調査区の東側、野川低地に面した箇所で発掘調査が行なわれ、竪穴住居跡1軒、土坑1基、集石2基などが検出された(第2次調査)。1982年(昭和57年)には、第1次調査区の東に隣接した遺跡範囲の南寄りの箇所で店舗建設に伴う発掘調査が行なわれ、竪穴住居跡6軒、土壙墓を含む土坑約170基、集石土坑6基などが検出された(第3次調査)。遺跡範囲南側の集落の中心部にあたると考えられる。続いて、第1次調査区と第2次調査区の間で行なわれた第4次・第5次調査では、遺構等は検出されなかった。2006年(平成18年)には、第3次調査区の東側で発掘調査が行なわれ、竪穴住居2軒が検出された(第6次調査区)。また遺跡範囲の東端付近で第7次調査も行なわれている。 主な遺構[編集] 主な出土品[編集] 遺跡の変遷[編集] 後期旧石器時代[編集] 縄文時代の遺構覆土・包含層からナイフ形石器1点、石槍5点の計6点の石器が出土している。立川ローム層の発掘調査は行なわれていない。 縄文時代[編集] 中期[編集] 勝坂1式期~加曾利E3式期の竪穴住居跡が検出されている。既往調査区全体で見ると、北側(第1次調査区北・第2次・第5次調査区)と南側(第1次調査区南・第3次・第6次調査区)に分布が二分される傾向が認められる。 勝坂式期:勝坂1式期には北側で集石土坑、南側で竪穴住居跡、土坑が検出されている。勝坂2~3式期の竪穴住居跡も遺跡範囲の南側に分布しており、第3次調査区の多量の土坑を含めて集落の中心部の位置と範囲が推測される。 加曾利E式期:加曾利1式期には少数の竪穴住居跡が南側に分布する一方、北側にも再び竪穴住居跡が検出されている。続く加曾利E2式期には北側にのみ竪穴住居跡が分布する。 後期[編集] 堀之内式期:南側で半完形の堀之内2式土器が出土しているが、遺構は検出されていない。 出土資料[編集]

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教育 – Wikipedia

この項目では、一般的な概念としての教育について説明しています。その他の用法については「教育 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 FIRST Robotics Competitionにおける学生徒弟 教育(きょういく、英語: education)という語は多義的に使用されており[1]、以下のような意味がありうる。 教え育てること[1]。 知識、技術などを教え授けること[1]。 人を導いて善良な人間とすること[1]。 人間に内在する素質、能力を発展させ、これを助長する作用[1]。 人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動[1]。 高等動物では教育またはしつけに近い行動が見られる例があり、猫などの肉食獣では子供に狩りの練習をさせるために弱らせた獲物をあてがう。以下では、人間社会における教育について述べる。 語源・語義からの定義 漢語としての「教育」は、『孟子』に「得天下英才、而教育之、三楽也」(天下の英才を得て、而して之を教育するは、三の楽しみなり)とあるのが初めである。 語源・語義からの定義の例を挙げると、「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。 リチャード・ピーターズの定義

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八戸市立田面木小学校 – Wikipedia

八戸市立田面木小学校(はちのへしりつたもぎしょうがっこう)は、青森県八戸市にある市立小学校。 1881年(明治14年)1月10日 – 田面木小学[1]として創立。当時の住所は、三戸郡館村大字田面木字上田面木14番地。 1886年(明治19年)9月25日 – 館村大字田面木字上田面木36番地に移転。 1887年(明治20年) – 田面木簡易小学校と改称[1]。 1892年(明治25年) – 田面木尋常小学校と改称[1]。 1900年(明治33年)3月26日 – 館村大字田面木字上野道下30番地に校舎新築移転。 1922年(大正11年)7月1日 – 館村学区を統一し、田面木第2学区廃止。 1940年(昭和15年)3月31日

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みっきぃよかたんバス – Wikipedia

みっきぃよかたんバスは、兵庫県三木市(旧吉川町地区)でかつて運行していたコミュニティバス。および、コミュニティバス廃止後、同路線を継承した神姫バスが運行する路線バスの愛称である。 コミュニティバス時代より神姫バス三田営業所が運行を委託されている。 旧吉川町のコミュニティバス『吉川町コミュニティバス』(通称・よかたんバス)として、2001年(平成13年)11月より運行開始され[1]、2015年(平成27年)10月、三木市のバス交通の見直しにより一般路線バス・コミュニティバスの区分をなくし市内全てのバスを一般路線バスとして運行することとなった[2]。路線は吉川町内循環が4ルートあり、いずれのルートも健康福祉センターを発着点として運行している他に、町内からイオンモール神戸北(神戸市北区)とを結ぶ路線がある。 一般路線転化後の運用[編集] イオンモール神戸北バス停一般路線転化後に新規開設した路線であるが、愛称が用いられている。 2015年、上述のバス交通の統合実施以降、三木市はコミュニティバスの文言を使用せず単に「吉川第1~4ルート(よかたんバス)」と表記しており[3]、バス停標やバス停の時刻表、バスの表示等おいては従前どおりの呼称をそのまま継続して使用している。 三木市のコミュニティバスには他にみっきぃバスがあるが、そちらは運賃や路線図[4]は神姫バスの一般路線バスとして同一化したのに対し[5]、本バスについては地域内運賃設定区間として後述の均一運賃が設定されているほか、コミュニティバス時代からの「みっきぃよかたんバス」(又は「よかたんバス」)の愛称を引き継ぎ運行されているなど、統合後の対応が両者間で異なる。 過去の車両。運行当初からの車両で2015年に運用から退いた。エアロミディMJ(専用カラー) 均一運賃を採用し、小型バスは後払い、ワンボックス車は先払いとなっている。[3] 大人(中学生以上):150円 小学生:80円 乳幼児:無料 身体障害者手帳の所持者および介護人:80円 「NicoPa」を利用してバスを乗り継いだ場合、2乗車目の運賃から自動的に80円(小児・障がい者40円)割引となる。 毎年3月上旬に開催される山田錦まつり期間中は無料運行される。 ICカードの利用について[編集] ※北播磨総合医療センターの再診受付機が車内に搭載されている。 ※車検などで使用できないときは、神姫バス標準カラーのエルガミオが代走する。 ※定員12人のため、大人数で利用する場合は事前連絡が必要である。[3] ルートによって車両が異なる。年始(1月1日

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小松未歩 3rd 〜everywhere〜 – Wikipedia

『小松未歩 3rd 〜everywhere〜』(こまつみほ サード エブリウェア)は、小松未歩の3枚目のアルバム。2000年2月16日にGIZA studioより発売された。規格品番はGZCA-1022。 サブタイトルのeverywhereは「いつも近くに感じてほしい」という気持ちからつけられた[1]。 「さよならのかけら」から「風がそよぐ場所」までの3作のシングル曲などを収録した3枚目のアルバム。なお、本作から2002年の『小松未歩 5 〜source〜』まではセルフカバーが収録されない。 GIZA studio移籍後初のアルバムであり、「さよならのかけら」「BOY FRIEND」などAmemura O-town Record在籍時代に発表された楽曲も収録されている[注釈 2]。 外装はスリーブケース仕様、裏ジャケットはクリアシートなど、パッケージ加工に凝っている。歌詞カードは1枚の紙に記載されており、広げると裏面がジャケット写真のミニポスターとなっている。 もともとは「風がそよぐ場所」がリリースされた直後の1999年8月に(当時の規格品番はGZCA-1011)発売する予定であったが、制作上の都合により度重なる発売延期の末に一度発売が中止になった経緯がある。 B’zやZARDのレコーディングエンジニアとして知られる野村昌之がエンジニアとして参加している。 累計売上枚数10万枚。

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ダニエル・デネット – Wikipedia

ダニエル・クレメント・デネット3世(Daniel Clement Dennett III, 1942年3月28日 – )[1][2]は、アメリカ合衆国の哲学者、著述家、認知科学者である。心の哲学、科学哲学、生物学の哲学などが専門であり、その中でも特に進化生物学・認知科学と交差する領域を研究している[3]。 現在、タフツ大学の認知研究センターの共同ディレクター、オースティン・B・フレッチャー哲学教授、ユニバーシティ・プロフェッサーを務める。デネットは無神論者かつ世俗主義者であり、アメリカ世俗連合の評議員[4]、ブライト運動の支持者でもある。デネットは「新無神論の4人の騎手」の一人に数えられる。他の3名はリチャード・ドーキンス、サム・ハリス、そしてクリストファー・ヒッチェンズ[5]である。 2001年、ジャン・ニコ賞受賞。2012年、エラスムス賞受賞。 デネットは1942年3月28日にマサチューセッツ州ボストンで生まれた。母親はルース・マルジョリー(旧姓レック)、父親はダニエル・クレメント・デネット・ジュニア[6][7]。デネットは幼少期の一時期をレバノンで過ごした。第二次世界大戦中、彼の父は戦略諜報局の防諜員として暗躍しており、ベイルートのアメリカ大使館にて大使館員を装っていた[8] 。デネットが5歳のとき、父親が原因不明の飛行機事故で亡くなったため、母親は彼をマサチューセッツに連れて帰った[9]。デネットが「哲学」という概念を知ったのは、11歳のとき参加したサマーキャンプがきっかけだった。キャンプの指導員はデネットにこう述べたという。「ダニエル、あなたは自分が何者か分かっている? あなたは哲学者なんだよ」[10]。 デネットはフィリップス・エクセター・アカデミーを1959年に卒業した。1年間ウェズリアン大学に在籍した後、ハーバード大学で哲学を学び、1963年に学士号を得た。ハーバード大学ではW.V.O.クワインの指導を受けた。1965年、オックスフォード大学から哲学の博士号を授与された。指導教員はギルバート・ライルで、クライスト・チャーチに所属していた。デネットの妹は調査ジャーナリストのシャーロット・デネット[8]。 ダニエル・デネット。2008年撮影。 デネットは自分についてこう語っている。「私は独学者です。いや、もっと正確に言えば、自分の関心のある全ての分野について、世界トップレベルの科学者たちから何百時間もの非公式な個人指導を受けた人物、ですかね」[11]。 フルブライト・フェローシップ、2度のグッゲンハイム・フェローシップ、行動科学先端研究センターのフェローシップをそれぞれ授与されている[12]。懐疑的探求委員会(CSI)のフェロー、国際ヒューマニズムアカデミーの選ぶヒューマニストでもある[13]。また、アメリカ人道主義協会の選ぶ2004年の年間ヒューマニストに選ばれた[14]。 2010年2月、宗教からの自由基金から名誉功労者に選ばれた[15]。 2012年、デネットはエラスムス賞を受賞した。これは、毎年1名を対象として、ヨーロッパの文化、社会、もしくは社会科学に対して優れた貢献をなした人物に贈られる賞である。「科学・技術の文化的重要性を一般大衆に分かりやすく伝える能力」が受賞理由である[16]。 哲学的主張[編集] 自由意志[編集] 自由意志について、デネットは両立主義者だが、1978年の著書『Brainstorms』の第15章「On

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シネプレックス (日本の企業) – Wikipedia

シネプレックス株式会社(シネプレックス、Cineplex inc.)とは、シネマコンプレックスの「シネプレックス」や単館系映画を上映するミニシアター「ガーデンシネマ」を運営していた会社である。角川書店の子会社であったが、2013年3月29日、ユナイテッド・シネマの親会社であるユナイテッド・エンターテインメント・ホールディングスに譲渡され[1]、同年6月1日にユナイテッド・シネマ株式会社に合併し消滅した[2][3]。 会社概要[編集] 1996年、映画興行、制作、商品化権管理を目的とした「日本ヘラルド映画株式会社」の子会社「ヘラルド・エンタープライズ株式会社」として設立。2007年3月1日、親会社の商号が「角川映画」となり「ヘラルド」が無くなったのと合わせて商号を「角川シネプレックス」に変更。2013年3月29日、ユナイテッド・エンターテインメント・ホールディングスに譲渡されたことにより、社名から「角川」が無くなり、消滅時の社名となる。 会社沿革[編集] 1977年 – 映画興行、制作、商品化権管理を目的として東京都港区新橋に創業。 1993年 – 本社を中央区銀座に移転。 1994年 – 「恵比寿ガーデンシネマ1・2」を恵比寿ガーデンプレイス内にオープン。 1996年12月 – 法人設立[1]。 1997年 – ヘラルド・エンタープライズ株式会社が興行事業を開始。「梅田ガーデンシネマ1・2」を梅田スカイビル内にオープン。

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エレクトリーチカ – Wikipedia

エレクトリーチカ(露: Электричка)は、ロシア、ウクライナをはじめとする旧ソビエト連邦圏内を走る近郊電車・通勤電車である。 アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のバクー – サブンチュ間で運行されたのが始まりである[1]。 ソ連での鉄道整備は比較的発達しており、電化区間も多かったために、エレクトリーチカはソ連全土で走行した。現在でもエレクトリーチカの活動範囲はとてつもなく広く、走行範囲は東はロシアのウラジオストク駅、西はベラルーシのブレスト中央駅などで、東西1万キロ以上の範囲であり、世界一走行範囲が広い鉄道車両である。なお、ソビエト連邦の崩壊後に、塗装は各国独自になっている。 車両[編集] 1950年代までは、ER(Elektropoyezd Rizhskiy, ロシア語: ЭР, электропоезд рижский)と呼ばれるラトビアのリガ車両製作工場で全車両が製造されていた。よく知られているのは直流区間用のER2と交流区間用のER9およびそれらの派生車両である。 運転は、運転手と助手の2人で行う。 通常は6両か12両編成で運転される。2両1ユニットになっており、うち1両はパンタグラフのついた動力車、もう1両は空気圧機器が搭載された付随車である。 車両は2ドア車であり、プラットホームの低い駅での乗降を考慮してステップがある。ドア幅は地下鉄よりも狭いが、ドア幅の広い新型車両も存在する。 基本的にトイレはないが、運転席のそばにトイレがある場合もある。座席は横3人掛の木製もしくはFRP製の固定式クロスシートであり、居住性は高くない。 ソ連崩壊前後は、新型車両を造る計画があったものの、1990年代の財政難によりその大半が頓挫し、長い間既存車両のリニューアルに留まっていた。実際、どの車両も塗装を除くと外見上の差異はほとんどない。ソ連時代の塗装はダークグリーンにフロントの赤帯、側面の黄帯である。 しかし近年の経済成長で、ER2の派生型である新型車のEM4″Sputnik train”が登場し、モスクワに導入され、急行用車両として運用されている。

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