Month: July 2018

テバコモミジガサ – Wikipedia

テバコモミジガサ(手箱紅葉傘、学名:Parasenecio tebakoensis)は、キク科コウモリソウ属の多年草[1][8][9]。同属のモミジガサ Parasenecio delphiniifolius に比べると全体がやや小型で弱々しく[8]、葉の裏面の葉脈が隆起する。モミジガサに比べやや稀で、同種より標高の高いところに生育する[1]。 地下茎は細長く、地中を横走して、先端に新苗をつけて繁殖する。茎は直立し、高さは25-85cmになり、細長く無毛で、紫褐色のものが多く、分枝しない。葉はまばらに互生し、葉質はモミジガサに比べるとやや薄く、茎の下部につく葉身は円形で、掌状に5-7中深裂し、長さ3.5-10cm、幅5-17cmになり、両面に縮毛が散生する。裂片の先半分には鋭い鋸歯があり、葉の裏面の葉脈が隆起して目立ち、縮毛は裏面の葉脈に特に目立つ。葉柄は長さ3.5-7.5cmになり、翼はなく、基部は半ば茎を抱くが、「耳」とよばれる小型の葉鞘はほとんどなく、葉鞘は円筒状に閉じない[1][8][9]。 花期は8-10月。頭状花序は円錐状に斜上するか横向きにつき、すべて両性の筒状花からなり、頭花の花柄は長さ1-5mmになる。総苞は狭筒型で長さ5-6mm、総苞片は1列で5個ある。1頭花は5-6個の筒状花で構成されており、花冠の長さは7-7.5mmになる。果実は円柱形で長さ5mmになる痩果となる。冠毛は白色で多数あり、長さ5mmになる。染色体数2n=52[1][8][9]。 分布と生育環境[編集] 日本固有種[10]。本州の関東地方から近畿地方の太平洋側、四国、九州に分布し[1][8][9][10]、落葉広葉樹林の林床や谷川のほとりなどに生育する[1][9]。四国の剣山、石鎚山から手箱山にかけては多数が群生する[11]。 典型的なソハヤキ要素の分布をする植物として知られている[1][10]。 名前の由来[編集] 和名のテバコモミジガサは、「手箱紅葉傘」の意で、はじめ、高知県の手箱山で見いだされたことにより、牧野富太郎 (1910)により命名された[3][9]。牧野 (1940)は、『牧野日本植物図鑑』の初版において、「和名手筥紅葉傘ハ初メ本種ヲ土佐國手筥山ニ採集セシヲ以テ斯ク名ケシナリ」と述べている[12]。 種小名(種形容語)tebakoensis も「高知県手筥山(手箱山)の」の意味[13]。 牧野 (1910) は、初め本種を、Cacalia delphiniifolia

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キーミノブ – Wikipedia

この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。 キーミノブ(欧字名:Key Minobu、1987年5月30日 – 不明)は、日本の競走馬[1]。 主な勝ち鞍は、1990年のペガサスステークス(GIII)、毎日杯(GIII)。 デビューまで[編集] キーケルナーは、イエローゴッド産駒の牝馬である。栗東トレーニングセンターの久保道雄厩舎に所属して競走馬としてデビューし、4戦未勝利という成績だった[5]。引退後は繁殖牝馬となり、1986年に初仔である父メイショウキングの牝馬(後のキーマリー)を生産。2年目の交配相手には、カネミノブが選ばれた[6]。 カネミノブは、種牡馬としての人気が右肩下がりとなっていたが、初年度産駒から毎日杯(GIII)を制したニューファンファンなどが活躍[7]。それに1985年には前年の2倍近い71頭の繁殖牝馬を集めた[7][8]。しかし、初年度産駒のその後の成績や活躍馬に乏しく、翌1986年は53頭に減少[7]。53頭のうちの1頭がキーケルナーである[6]。 1987年5月30日、北海道新冠町の高瀬すが子が黒鹿毛の牡馬(後のキーミノブ)を生産[1]。高瀬は、1975年に夫の高瀬幸次を交通事故で亡くして以来、高瀬すが子名義で生産を続けていた[9][10]。すが子によれば仔は「これといった病気もせず、性格もひじょう〔ママ〕に素直で、本当に手のかからない馬でした。(後略)[9]」と回顧している。1989年秋、栗東トレーニングセンターの日迫良一厩舎に入厩した。日迫によれば、直後は骨が未熟で調教に耐えられず、量をこなすことができなかった[10]。 競走馬時代[編集] 1990年1月5日、京都競馬場の新馬戦(ダート1800メートル)でデビュー、上野清章が騎乗し5着敗退。それから芝の新馬戦で2着、3戦目の小倉競馬場の未勝利戦で初勝利、萌黄賞(500万円以下)で連勝とした。村本によれば、デビューから2戦はソエがあり、十分に走ることができなかった[10] 3月4日、ペガサスステークス(GIII)に2番人気で重賞初出走、ソエは完治した状態であった[10]。中団待機から、最終コーナーでは内を通り、大外を回った1番人気コガネタイフウの落馬を尻目に、直線で抜け出した[10]。ナリタハヤブサが迫ったが、半馬身差をつけて優勝、重賞初制覇となった[10]。続いて3月25日の毎日杯(GIII)に3番人気で出走、中団待機から最終コーナーで抜け出した[9]。直線では馬場の外側に持ち出し、後方に2馬身差をつけて勝利。4連勝、重賞2連勝となった[9]。その後、関東遠征を行い、皐月賞と東京優駿(日本ダービー)に出走。それから1年近く戦線を離脱した。翌1991年の中山記念で復帰し、1993年春までに10戦すべて敗退した。 続いて、日本中央競馬会の競走馬登録を抹消し、ホッカイドウ競馬に移籍。塚本哲雄厩舎に転厩し、帯広競馬場で2戦するもいずれも10着に敗れた。それから佐賀競馬へ移籍し、津野正浬厩舎に転厩。佐賀では1995年3月までに17戦走り、7勝を挙げた[11]。 競走成績[編集] 以下の内容は、netkeiba.com[12]およびJBISサーチ[11]の情報に基づく。 競走日 競馬場 競走名 格

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ジェジョマール・ビナイ – Wikipedia

フィリピンの政治家 ジェジョマール・ビナイ Jejomar Binay 2011年2月1日 生年月日 (1942-11-11) 1942年11月11日(79歳) 出生地 フィリピン マニラ市パコ 出身校 フィリピン大学サント・トマス大学大学院・フィリピン大学大学院 所属政党 レイクス・ナン・バヤンPDPラバンユナイテッド・ナショナリスト・アライアンス 配偶者 エレニタ・ビナイ 子女 5人 フィリピン共和国

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クリストファー・コンヤーズ (第2代コンヤーズ男爵) – Wikipedia

第2代コンヤーズ男爵クリストファー・コンヤーズ(英語: Christopher Conyers, 2nd Baron Conyers、1538年6月14日没)は、イングランド貴族。 初代コンヤーズ男爵ウィリアム・コンヤーズ(英語版)と2人目の妻アン・ネヴィル(Anne Neville、1525年以降没、第3代ウェストモーランド伯爵ラルフ・ネヴィル(英語版)の娘)の息子として生まれた[1]。1516年に義父第2代デイカー男爵トマス・デイカー(英語版)が書いた手紙によると、クリストファーはリンカーン法曹院に入学したという[1]。 1523年9月25日に騎士爵に叙され、翌年に父が死去するとコンヤーズ男爵位を継承した[1]。1529年8月に議会召集令状を得て貴族院に登院し、1530年には「国王ヘンリー8世の離婚を許可しなければ教皇の優位性を否定する」という教皇クレメンス7世への書状に署名した[1][2]。 1538年6月14日に死去、息子ジョンが爵位を継承した[1]。 1515年9月28日にアン・デイカー(Anne Dacre、1547年/1548年没、第2代デイカー男爵トマス・デイカー(英語版)の娘)と結婚、2男2女をもうけた[2]。 ジョン(1524年頃 – 1557年) – 第3代コンヤーズ男爵 レオナード(Leonard、1576年/1577年没) – Laton姓の女性と結婚した

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プーさんの冒険 – Wikipedia

プーさんの冒険(プーさんのぼうけん、The Many Adventures of Winnie the Pooh)は世界のディズニーパークにあるアトラクション。 このアトラクションが存在するパーク[編集] 『くまのプーさん』をテーマにしたダークライド型アトラクションで、プーさんとその仲間達が冒険する代表的なエピソードを追体験する。 東京ディズニーランド(東京ディズニーリゾート)では、このアトラクションとストーリー展開などをほぼそのままに、ライドシステムをレールのない床を走行するものに変更した「プーさんのハニーハント」が2000年にオープンしている。 各施設紹介[編集] マジック・キングダム[編集] プーさんの冒険 The Many Adventures of Winnie the Pooh

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ゴマフエダイ – Wikipedia

ゴマフエダイ(胡麻笛鯛、Lutjanus argentimaculatus )は、スズキ目フエダイ科に分類される魚の一種。別名、ゴマタルミ、カースビ[3]。 北端は南西諸島から南端はオーストラリア、アフリカ大陸東岸からサモア・キリバス(ライン諸島)にかけてのインド洋・西太平洋[1][2] 成魚は全長70cmほど。各鱗の中心に黒っぽい点があり、胴に黒い点が並んでいるように見える。標準和名は、この斑点をゴマを散らした様子に見立てている。 成魚の体色は緑褐色で、鰭や腹部は赤みを帯びるが、水揚げされると全身が赤黒くなる。頬には光沢のある水色の縦線が1-2本入るが、これは大型個体では消えることがある。若魚は濃い緑褐色の地に白っぽい横縞が6-14本入り、背鰭前半と腹鰭が鮮やかな橙色をしている。 ゴマフエダイの成魚(上)と若魚(下)。成長すると体色が変化する 熱帯・亜熱帯海域に広く分布する。地中海でも記録されており、これはスエズ運河を通って侵入したとみられる。日本では本州中部以南で見られるが、九州南部や南西諸島で個体数が多い。 大型個体は沿岸の岩礁・サンゴ礁域に生息するが、全長50cmほどまでは河口や内湾の汽水域に生息する。高水温時には全長数cm-20cmくらいの幼魚が純淡水域まで進入する。”Mangrove red snapper”、”River snapper”などの英名も、河川やマングローブに生息する習性に因む。ある程度成長すると純淡水域まで入らず、河口付近の物陰で数匹ほどの小さな群れを作って生活する。 汽水域に入るフエダイ類は、南西諸島ではゴマフエダイの他にもナミフエダイ、オキフエダイ、クロホシフエダイ、ニセクロホシフエダイなどが知られる。この中で純淡水域まで入るのはゴマフエダイのみである。ウラウチフエダイはゴマフエダイよりもさらに上流まで入るが、分布地が限られる。 食性は肉食性で、小魚・甲殻類・昆虫類・多毛類・頭足類など小動物を幅広く捕食する。また好奇心が強く、水中では人間に接近してくることもある。 人間との関係[編集] 地方名としてアカシビ(宮崎)アカシュビ、アカウオ、アオマツ、セボラ(鹿児島)、カースビ(沖縄)などがある。 釣り・刺し網・定置網などの沿岸漁業で漁獲される。南西諸島では、河口や内湾での釣りでミナミクロダイなどと混獲される。身は白身で、塩焼きや煮付けなどで食べられる。ただし老成魚ではシガテラ中毒の報告もあるので注意を要する(札幌市中央卸売市場などでは販売自粛)[3]。 ^ a b

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石川義道 – Wikipedia

石川 義道(いしかわ よしみち)は、日本の外務官僚・法学者(国際経済法)。修士(国際経済法)(横浜国立大学・2007年)。静岡県立大学国際関係学部講師・大学院国際関係学研究科講師。 外務省経済局世界貿易機関紛争処理室室員などを歴任。 生い立ち[編集] 2003年3月、名古屋大学法学部卒業[1]。その後、横浜国立大学大学院に進学[1][2]、国際社会科学研究科国際経済法学系国際関係法専攻に在籍、森川俊孝・荒木一郎らの指導を受けた[2]。横浜国立大学の短期派遣留学制度を利用してスイスに渡り、2005年9月から一年間、ベルン大学の世界貿易研究所にて学んだ[2]。2007年3月、横浜国立大学大学院博士課程前期を修了[1][2]。その後、横浜国立大学大学院博士課程後期に進学[2]。同年9月、再びスイスに渡り、ベルン大学法学部博士課程に進学した[1]。 官界・学界にて[編集] 2010年7月、外務省事務官となり、2014年8月まで同省で勤務[3]。外務省では、内部部局である経済局世界貿易機関紛争処理室に所属[3]。2014年10月、静岡県立大学国際関係学部講師に就任[3]、主として国際関係学科の講義を担当した[4]。同時に、静岡県立大学大学院国際関係学研究科講師を兼務[4]、主として国際関係学専攻の講義を担当した。 専門は法学。特に、国際経済法を研究する[5]。具体的には、国際経済法の視点から、貿易と環境に纏わる研究を行っており、特に排出取引など気候変動に関する研究に取り組む[6]。また、国際経済法の視点から、貿易と公衆衛生に纏わる研究を行う[6]。そのほか、外務省経済局世界貿易機関紛争処理室に勤務した経験を持つことから[3]、世界貿易機関における紛争解決制度の研究にも取り組む[6]。たとえば、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定に包含される貿易の技術的障害に関する協定を取り上げ、その第2条第1項および第2項の分析に取り組んだ[7][8][9]。 日本国際経済法学会・国際経済法学会・国際法学会・アメリカ国際法学会・アジア国際法学会などに所属[10]。 執筆等[編集] 論文[編集] 石川義道稿「WTO紛争解決手続における立証責任概念の検討――農業協定第10条3項の分析を通じて」『横浜国際社会科学研究』12巻4/5号、横浜国立大学、2008年1月、617-634頁。 ISSN 1346-0242 石川義道稿「米国・原産国表示事件の分析(上)――TBT協定2条2項の必要性要件の検討を中心に」『国際商事法務』41巻4号、国際商事法研究所、2013年、499-513頁。ISSN 0287-7511 石川義道稿「米国・原産国表示事件の分析(下)――TBT協定2条2項の必要性要件の検討を中心に」『国際商事法務』41巻5号、国際商事法研究所、2013年、690-703頁。ISSN 0287-7511 石川義道稿「TBT協定2条1項における『不利な待遇』の分析」『日本国際経済法学会年報』22号、日本国際経済法学会、2013年、141-166頁。ISSN 1342-1301 書評等[編集] 石川義道稿「文献紹介――Thomas Cottier,

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ガリツィン三連祭壇画 – Wikipedia

『ガリツィン三連祭壇画』(ガリツィンさんれんさいだんが、伊:Trittico Galitzin)は、イタリアのルネサンス期の巨匠、ペルジーノが1485年頃に制作した絵画である。現在、ワシントンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている。 作品はおそらく、カーリの司教であるバルトロメオ・バルトリによって依頼されたのであろう。サン・ジミニャーノのドミニコ会修道院教会の礼拝堂に由来し、1796-97年に教会が閉鎖されたとき、作品はフランス軍によって没収された。その後、「ブッツィ」という人物に売却され、ラファエロの作品としてロシア帝国のローマ大使、アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ガリツィン王子に売却された。彼の甥のミハイロヴィッチ・ガリツィンは作品をモスクワに移し、1865年にガリツィン西洋美術館に展示された。 1886年には、ガリツィン・コレクションの他の作品と一緒に、エルミタージュ美術館に再び売却されたが、1931年4月、スターリンが米国国務長官のアンドリュー・メロンに譲渡した作品のうちの1点であった。 1937年、メロン・コレクションは新しいワシントン・ナショナル・ギャラリーの中核を形成することになった。 すでに触れたように作品はラファエロに帰属されたこともあったが、1497年に亡くなったバルトロメオ・バルトリにより上記の教会に寄進されたことがわかっており、ラファエロは当時まだ14歳であったので、この帰属はありえない。現在では、一致してペルジーノの作品として認められている[1]。 中央のパネルは、使徒ヨハネと聖母マリアがいる『キリストの磔刑』を表している。一方の側面パネルは、聖ヒエロニムスとライオンを表し、もう一方の側面パネルは、ヨハネと同じ瞑想的なポーズのマグダラのマリアを表している。 ペルジーノの作品は、芸術作品には稀といえるくらいの静謐な敬虔さを生んでいるので、ヴァザーリがペルジーノには信仰心がなく、魂の不滅を信じていなかったと言っているのは驚きである[1]。 参考文献(イタリア語)[編集] Vittoria Garibaldi, Perugino, in Pittori del Rinascimento, Scala, Florence, 2004  ISBN

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