Month: August 2018

趙恒惕 – Wikipedia

趙 恒惕(ちょう こうてき)は、中華民国の軍人。湘軍(湖南軍)の指導者で、聯省自治運動でも活躍した。字は夷午、彝五。号は炎午。 湖北方言学堂を卒業後、日本に留学して、陸軍士官学校砲兵科第6期で学ぶ。この留学期間中に、中国同盟会に加入した。1909年(宣統元年)帰国し、蔡鍔が主管する広西陸軍幹部学校に遷り、新兵の訓練を担当した。 辛亥革命が勃発すると、広西省の新軍を率い、湖北都督黎元洪から左翼軍司令に任命された。1912年(民国元年)、南京の中華民国臨時政府から、陸軍第8師第16旅旅長に任命される。まもなく湖南陸軍第1旅旅長となった。1913年(民国2年)7月の二次革命(第二革命)では革命派として湘軍を率いて蜂起したが、失敗して逮捕され、懲役10年の刑を言い渡された。1915年(民国4年)、袁世凱から特赦により釈放されている。 袁世凱死後の1916年(民国5年)、湖南陸軍第1師師長として復帰した。以後、趙恒惕は湖南の軍政界で次第に台頭していく。そして、1920年(民国9年)11月、湖南督軍譚延闓を追い落とす形で、趙が後任の湖南督軍兼湘軍総司令となった。さらに趙は、当時高揚していた聯省自治や廃督裁兵の運動に呼応する形で湖南省の自治を宣言している。1921年(民国10年)には湖南省憲法を制定した。6月20日、両湖巡閲使・王占元支配に不満を持っていた蔣作賓の要請を受け、2個軍からなる援鄂自治軍を成立、総司令に就任し湖北省への進出を開始した(湘鄂戦争)。湖北自治政府・湖北自治軍成立後の7月30日、王占元への総攻撃を開始。31日、趙李橋を、8月5日、通城を占領。翌6日、王占元を下野に追い込んだ。しかし、王を見捨てた曹錕と呉佩孚は、河南省の蕭耀南の第25師、靳雲鶚の第8混成旅を漢口に派兵し介入。趙は12日に両湖巡閲使として漢口入りした呉佩孚と交渉を行っていたが、呉は和議を唱えつつ5万人の増援を湖北入りさせていた。8月16日、交渉は決裂、19日から3日に渡る汀泗橋戦闘(中国語版)で敗退、28日に湖南省に入り込まれ、岳州を占領される。9月1日、漢口の英国領事館の仲裁で、呉佩孚と9条からなる岳州休戦条約を結んだ[1]。 1922年(民国11年)には、湘軍総司令の地位を取り消し、民選省長として湖南省を統治した。 しかしその後も、趙恒惕と譚延闓は抗争を続けている(譚趙之戦)。これには北京政府の呉佩孚や南方政府の孫文も関与して、極めて複雑な混戦となった。それでも1923年(民国12年)11月に、呉の支援を受けた趙は、譚の攻勢を凌ぎ、引き続き湖南の統治権を確保する。しかし、1926年(民国15年)3月、中国国民党と結んだ唐生智に敗北して湖南督弁を辞任した。 その後、趙恒惕は引退状態にあったが、日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)から政界に復帰した。1939年(民国28年)4月から湖南省臨時参議会議長(日中戦争終結後は省議会議長)をつとめた。1949年(民国38年)、台湾に逃れ、総統府国策顧問、総統府資政をつとめた。 1971年(民国60年)11月23日、台北で病没。享年92(満91歳)。 ^ 田子渝 劉徳軍 (1989). 中国近代軍閥史詞典. 档案出版. p. 545  参考文献[編集] 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。

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涂阿玉 – Wikipedia

涂 阿玉(と あぎょく、1954年9月29日 – )は、台湾出身の女子プロゴルファー。ミズノ所属。JLPGAの永久シード権を保持している。 プロフィール[編集] 1954年9月29日 – 台湾の台中県豊原市の果樹園農家に生まれる。 1969年頃 – 中学卒業後、豊原CCへキャディとして就職。17歳の時から淡水GCへと移る。そこで淡水GCのヘッドプロであった陳金獅プロに出会い、師事することになる。 1973年 – アマチュア時代も来日し、トヨトミレディスで2位タイ。 1974年 – プロ転向。 1976年 –

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アレクサンダー・ドゥリッチ – Wikipedia

アレクサンダー・ドゥリッチ[2][3](Aleksandar Đurić、Александар Ђурић、1970年8月12日 – )は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国出身のセルビア系シンガポール人の元サッカー選手[4]、現サッカー指導者。元カヌーボスニア・ヘルツェゴビナ代表、元サッカーシンガポール代表。現役時代のポジションはFW。 15歳の時にユーゴスラビアのカヤックのジュニアチャンピオンに輝き、17歳の時には世界8位となった。1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナ代表としてバルセロナオリンピックのカヌー競技500mに出場した[5]。オリンピックの後にハンガリーに渡り、サッカー選手としての生活を再開した。1994年にサウス・メルボルンFCに加入してオーストラリアへ渡ると、オーストラリア国内を転々とした。 1999年にはSリーグのタンジョン・パガー・ユナイテッドFCと契約を交わし、このクラブでストライカーに転向した。その後、ホーム・ユナイテッド、ゲイラン・ユナイテッドFC、SAFFC、タンピネス・ローバースFCを渡り歩き、Sリーグを8回制覇し、シンガポール・カップを3回制覇した。更にSリーグ年間最優秀選手を3回獲得し、Sリーグ得点王を4回獲得、Sリーグ史上唯一300得点を達成した選手となっている。 代表選手としては、2007年に37歳でシンガポール代表となった。2008年5月には外国出身選手としては初めてシンガポール代表の主将を務めた。東南アジアサッカー選手権にも2008年大会、2010年大会、2012年大会の3回に出場し、2012年には優勝を齎した。代表としては2012年12月を以て引退、合計53試合24得点の結果を残した[nb 1]。 2013年には選手として所属するタンピネス・ローバースFCのフィットネスコーチを兼任する事となった。2014年11月にサッカー選手としての現役を44歳で引退した。 選手としての彼はフィジカルの強さを武器としたフォワードであった[6][7]。その健康維持に関する彼の姿勢と規律だった生活習慣は選手生命を20年以上に亘り全うさせた[8]。 幼年時代[編集] アレクサンダー・ドゥリッチはユーゴスラビア社会主義人民共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ドボイのリパツで生まれた[9]。幼い時はレッドスター・ベオグラードのサポーターであり、FKスロガ・ドボイのユースでゴールキーパーを務め、後にミッドフィールダーとなった[9][10][11]。 12歳の時には肺の成長が思わしくなかったために医者からカヤックを薦められた[4][7]。その後15歳にしてユーゴスラビアの王者となり、17歳の頃には世界8位となった[12][13]。 その17歳の時にはユーゴスラビア人民軍に徴募され、兵役の最中には士官となった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が迫ってくると、彼の父は彼とその兄弟に国外への退避を望んだ[4]。彼は故郷を離れる事となった。その時の事について彼はこう述べている。「私の父はこの戦争で戦い、5歳になろうかと言う私の弟と私の母は1993年にムスリムの軍隊によって殺された。彼らは私達の村を爆撃し、私の家に直撃した。その非常に大きい爆弾は私の母を即死させた。(中略)この凄惨な市民の戦争によって非常に多くの人々が私と同様に父母を失った。しかし少なくとも私はこの戦争に対して怨んでいない。私は人種で人を判断するのではなく、その人の心の持ちようで人を判断するから、私が今いるこの地、シンガポールではムスリムの子供であっても私は彼らを受容れるよ。」[4]。 300ドイツマルクを握りしめた彼は自らの所属しているFKスロガ・ボジェガのあるユーゴスラビア連邦共和国セルビア共和国を去って、スウェーデンに渡った。スウェーデンではAIKソルナでトレーニングを受け、難民としてオファーされたものの彼はこれを拒絶した[4]。ユーゴスラビア崩壊が起こると彼は旅券と見做せる物も無くハンガリーに止まる事となった。セゲドでカフェやレストランを放浪していると、とある家族が彼にネムゼティ・バイノクシャーグIIに所属するセゲドLCのトライアルのオファーを出した[4]。 バルセロナオリンピック[編集] 1992年、新たに結成されたボスニア・ヘルツェゴビナオリンピック委員会から同国代表としてバルセロナオリンピックカヌー競技への出場に関する招待状を彼は受けとった[14]。セルビア人とボシュニャク人が対立している中で彼は2年間練習をしていなかったが、スポーツマンとして出場する事に決めた[15]。ボスニア・ヘルツェゴビナオリンピック委員会は彼の旅費を払う事が出来なかったため、バルセロナまでの1,500キロメートル (930 mi)以上の旅程を彼はヒッチハイクで向かう事となった。オリンピック委員会からの招待状一枚で有効な旅券も持たない彼は、オーストリアとの国境までトラックで向かった。しかし、イミグレーションでは彼の主張は信じてもらえず、収容所を探す難民であると判断された[16]。オリンピック委員会からの電話があり、彼に渡された信任状に納得した入国審査官は彼をスロベニアに送りそこから飛行機に乗ってバルセロナへ向かう手立てをしてくれた[15]。2日間の旅の後に彼はボスニア・ヘルツェゴビナ初のオリンピック代表の10人のうちの1人としてオリンピック初出場を果たした。しかし彼には装備が無かったため、イタリアとスペインのチームからオリンピック終了まで装備を借りる事となった[17]。最後は敗者復活戦で敗れてしまった彼であったが、8位入賞と健闘した。その後はサッカー選手に戻り、ハンガリーのセゲドLCへ加入した[7]。 クラブ歴[編集]

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深谷かほる – Wikipedia

深谷 かほる(ふかや かほる、1962年[2]11月5日 – )は、日本の女性漫画家。血液型O型。福島県[1]石川郡石川町出身。武蔵野美術大学デザイン科卒業[1]。 弟は漫画家・深谷陽。弟の方が10年ほど早くから漫画を描いていた。駆け出し漫画家の頃に16ページストーリー漫画を依頼されたので弟に描き方を訊いて描き上げている。 福島県立安積女子高等学校[3]卒業後、武蔵野美術大学デザイン科へ進学。 大学卒業後は美術館などのアルバイトをしつつ学年誌へカットを持ち込むが採用に至らず、編集者のアドバイスで漫画を書き始め、1987年12月号の『プチフラワー』に掲載された「毎日が日曜日」でデビューした。 代表作として「エデンの東北」、「ハガネの女」、「カンナさーん!」など。「エデンの東北」の主人公の弟「あきら」は弟がモデル。 「ハガネの女」は吉瀬美智子主演により、テレビドラマ化されたが、season2のドラマオリジナルのストーリー展開に反対して原作者名義を削除した[4]。「カンナさーん!」は渡辺直美主演により、テレビドラマ化された。 2015年10月、ツイッターにて「夜廻り猫[5]」の連載を開始。読者の共感を得て人気に[6]。 2017年、「夜廻り猫」で第21回手塚治虫文化賞短編賞[7][8][9]、第5回ブクログ大賞のマンガ部門大賞を受賞[10][11]。 地域猫が連れてきた黒猫の「ハゲ」と知人から譲り受けた同じく黒猫で片目が潰れた「マリ」という猫を飼っていた。 作品リスト[編集] 漫画作品[編集] ★は連載作品。 エッセイ[編集] 人生ロシアンルーレット(『まんがライフオリジナル』2005.6 – 2008.8

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グレッグ・バラード – Wikipedia

グレッグ・バラードGreg Ballard 故人 ポジション SF 基本情報 生年月日 1955年1月29日 国籍 アメリカ合衆国 出身地 カリフォルニア州ロサンゼルス 没年月日 (2016-11-09) 2016年11月9日(61歳没) 身長(現役時) 201cm (6 ft 7 in) 体重(現役時) 97kg (214 lb) キャリア情報

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兵庫県立神崎高等学校 – Wikipedia

「神崎高等学校」はこの項目へ転送されています。1948年度に「滋賀県立神崎高等学校」と称した高等学校については「滋賀県立八日市南高等学校」をご覧ください。 兵庫県立神崎高等学校(ひょうごけんりつ かんざきこうとうがっこう)は、兵庫県神崎郡神河町にある公立の高等学校である。 兵庫県立福崎高等学校粟賀分校、定時制として開校した。 一部の科目で1時限30分授業を行っている(2008年度より短縮授業の場合を除き50分授業となった)ほか、文部科学省より長期宿泊体験推進校の指定を受け夏休みなどで宿泊学習をおこなっていた。 「地元に普通科高校を」という地域の要望を受け、定時制被服科から全日制普通科となり、地域密着型の高校だったが、交通事情がよくなり都市部の学生が増えた1990年代末ごろから荒れ始め、一時は志願者が激減する事態となった[1]。2003年に新校長のもと、改革が始まり、「ディスカバリーハイスクール」を提唱し、30分授業、幼稚園・保育所を訪問しての授業、地域交流等で教育困難校からの再生を果たした[1]。 1948年(昭和23年)11月1日 兵庫県立福崎高等学校粟賀分校(定時制課程)として創立 1949年(昭和24年)4月13日 兵庫県立福崎高等学校粟賀分校開校、当初は昼間定時制被服科1学級設置(被服科1) 1963年(昭和38年)4月1日 被服科1学級増(被服科2) 1965年(昭和40年)4月1日 全日制課程に転換 1975年(昭和50年)4月1日 普通科1学級設置(普通科1被服科2) 1977年(昭和52年)4月1日 兵庫県立神崎高等学校として独立、普通科1学級増、被服科募集停止(普通科2) 1979年(昭和54年)4月1日 普通科1学級増(普通科3)

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濱田美栄 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “濱田美栄” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) 濱田 美栄(はまだ みえ、1959年10月29日 – )は、日本のフィギュアスケートコーチ。 経歴・人物[編集] 京都府京都市出身。 小学校6年生の時に1972年札幌オリンピックのフィギュアスケート競技女子シングルフリー演技を真駒内屋内競技場(札幌市)で観戦しており、その時の濱田を撮影した写真が1972年2月8日の朝日新聞に掲載されたことがある[1]。 京都市立藤森中学校、京都市立日吉ヶ丘高等学校を経て、同志社大学卒業[2]。既婚。娘が1人いる。 フィギュアスケート選手として活動し、全日本フィギュアスケート選手権10位が最高成績[1]。同志社大学卒業とともに現役を引退してコーチへと転身し、京都醍醐FSC及び関西大学アイスアリーナでコーチを務める[3]。 教え子には2015年世界選手権銀メダリストの宮原知子や2004年四大陸選手権優勝の太田由希奈をはじめ、神崎範之、澤田亜紀、北村明子、金彩華、村元小月、村元哉中、木原万莉子、加藤利緒菜、本田真凜、白岩優奈、紀平梨花など、関西圏を中心に国内選手を数多く指導してきた。

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チェスケー・ブヂェヨヴィツェ – グミュント線 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “チェスケー・ブヂェヨヴィツェ – グミュント線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月) チェスケー・ブジェヨヴィツェ – グミュント線 基本情報 通称 フランツ・ヨーゼフ鉄道 現況 営業中 起点

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金田弘光 – Wikipedia

金田 弘光(かねだ ひろみつ、1934年 – )[1]は、経済学者。カリフォルニア大学デービス校名誉教授。大阪市生まれ。 1934年に大阪市に生まれる。同志社大学、アーモスト大学を卒業後、スタンフォード大学に進学し1963年に博士号を取得。同年にカリフォルニア大学デービス校に助教授として着任し、1968年に准教授(準教授)に、1973年に教授に昇任する。1994年に同校を定年退職となり、名誉教授となる[2]。その間、イェール大学、パキスタン開発経済研究所、オーストラリア国立大学RSPS経済学部、アジア経済研究所、世界銀行で在外研究等を行う[2]。1996年から同志社大学大学院アメリカ研究科教授を務めた[1]。開発経済学が専門で、発展途上国の農業開発と経済発展の分野で貢献した[1]。 経歴は科学技術振興機構所収の情報による[2]。 学歴と職歴[編集] 1959年 アーモスト大学経済学部卒業 1963年 スタンフォード大学経済学部博士課程修了、Ph.D.取得 1963年-1968年 カリフォルニア大学デービス校経済学部助教授 1968年-1973年 カリフォルニア大学デービス校経済学部准教授 1973年-1994年 カリフォルニア大学デービス校経済学部教授 1996年- 同志社大学大学院アメリカ研究科教授

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