Month: December 2018

ウィルバー・ジョセフ・コーエン – Wikipedia

ウィルバー・ジョセフ・コーエン ウィルバー・ジョセフ・コーエン(Wilbur Joseph Cohen, 1913年6月10日 – 1987年5月17日)は、アメリカ合衆国の社会科学者、政治家。アメリカの福祉国家論を構築・展開した主要人物の1人であり、ジョンソン大統領の「偉大な社会」政策の立案に関与した。 生い立ち[編集] 1913年6月10日、ウィルバー・ジョセフ・コーエンはウィスコンシン州ミルウォーキーにおいて誕生した。コーエンは地元の公立学校で初等教育を受け、ミルウォーキーのリンカーン高校を卒業した。コーエンはウィスコンシン大学マディソン校で経済学を学び、1934年に学士号を取得した。 社会保障庁[編集] 社会保障委員会時代のコーエン(左) 大学卒業後、コーエンはワシントンD.C.へ移り、エドウィン・ウィッテの助手となった。コーエンはウィッテが携わっていた社会保障法起草委員会で、調査助手を務めた[1]。1935年に社会保障法が成立すると、コーエンは新設された社会保障委員会で技術顧問となった。コーエンは1946年に社会保障委員会が社会保障庁と改称された後も継続して技術顧問を務めた[2]。 1953年、コーエンは社会保障庁で調査統計局の局長となった。コーエンは社会保障庁において、業務計画の立案や議会との立法調整などを任された。 保健教育福祉省[編集] 保健教育福祉次官補として公開討論会に参加したコーエン 1961年、ケネディ大統領はコーエンを立法担当保健教育福祉次官補として任命した。コーエンは保健教育福祉省に関与する立法について、議会の承認を取り付ける任務を与えられた。コーエンは約65本の法案について議会と調整を行い、多くの法案を成立へと持ち込んだ。しかしながらケネディ大統領が最重要視していたいくつかの法案のうち、2本の法案について議会の承認を取り付けることに失敗した。1つは高齢者を対象とした社会保障と医療に関するメディケア法案。もう1つは初等・中等学校に連邦助成金を与える教育法案であった。 大統領がケネディからジョンソンに交替した後も、コーエンは引き続いて保健教育福祉次官補を務めた。1964年の選挙で民主党が上下両院で過半数の議席を獲得すると、コーエンはケネディ時代に失敗したメディケア法案と教育法案の成立に向けて再び動いた。コーエンは議会と調整を行い、メディケア法案と教育法案は1965年に議会で承認された。コーエンは1965年4月に保健教育福祉次官に昇任した。 保健教育福祉長官[編集] 保健教育福祉長官への就任宣誓を行うコーエン(前列右から2人目) 1968年5月、コーエンはジョンソン大統領から保健教育福祉長官として任命された。コーエンは保健教育福祉省の大規模な改造を行った。コーエンは公衆衛生部門を再編成し、公衆衛生局の職務を分掌して管轄させる新たな次官補ポストを設置した。コーエンは保健精神衛生局を新設し、国立衛生研究所、精神衛生研究所、国立医学図書館などの機関をこの下部組織として配置した。

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九州テレ・コミュニケーションズ – Wikipedia

九州テレ・コミュニケーションズ株式会社(きゅうしゅうテレ・コミュニケーションズ)は、長崎県佐世保市に本社があるケーブルテレビ局である。 以下、本拠地においてテレビ佐世保(テレビさせぼ)の名称で行っている事業について述べる。 長崎県の本土側は山がちであり、それが諫早湾干拓事業及びそれによる近隣県との軋轢の遠因にもなっている。テレビ放送にも影響は現れており、佐世保市内(昭和の市域)は烏帽子岳以外にも各地に多数の中継局が設けられている。そうした電波事情から、まだ県域民放が長崎放送とテレビ長崎しかなかった1970年代の早い時期に、ケーブルテレビ局設置に向けた動きが進められ、1978年に西九州共聴株式会社(にしきゅうしゅうきょうちょう)として設立されたのが始まりである。当初はその名の通り単なる共聴施設としての事業開始であり、自主放送を開始したのは1980年代に入ってからである。共聴施設として古くから運営しており、ケーブルテレビという概念がなかった当時から加入者数がいるため、古くからの加入世帯は「有線テレビ」と呼称している。 市域自体の拡大によりエリアも順次広げているが、米軍地区や山間部など、一部サービスを行っていない地域が存在する(米軍地区内はアメリカ人を対象として北米仕様での放送方式にて運営している。)。 テレビ佐世保の略称であるTVSは埼玉県の独立系民放・テレビ埼玉の略称と被っているが一切関係無い[1]。 サービスエリア[編集] 長崎県佐世保市(一部除く)・長崎県北松浦郡佐々町 1978年(昭和53年)7月 – 西九州共聴株式会社設立。長崎県佐世保市をサービスエリアとして共聴施設の運用開始。 1981年(昭和56年) – 「テレビ佐世保」の名称で自主放送開始。 1993年(平成5年) – 佐世保ケーブルテレビジョン株式会社(させぼケーブルテレビジョン)に社名変更。 1998年(平成10年) – 福岡県春日市に支店を設置。 1999年(平成11年)

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自由反動 – Wikipedia

ウィキペディアはオンライン百科事典であって、独自の考えを発表する場ではありません。改善やノートページでの議論にご協力ください。(2021年2月) 自由反動、又はフリーリコイルとは、後ろから支えられていない状態の小火器に生じる反動エネルギーのことで、小火器の発射時に射手に伝わる並進運動エネルギー (Et)をジュール (J)、国際単位系以外ではフィート重量ポンド力 (ft·lbf)で表される。一般的に、頑丈に固定されたり、壁などに取り付けられた小火器とは対照的に、固定されていない小火器の反動(=リコイル)を指す言葉。 自由反動と反動は別物で、自由反動は小火器から射手に伝わる並進運動エネルギーのことを、反動は日常的なあらゆる場面で生じる運動量保存の法則の物理現象を表している。この物理現象は、小火器内で発射薬が燃焼し、発射薬が持つ化学エネルギーが熱力学エネルギーに変換される際に生じる。その後このエネルギーは弾丸の基部と、薬莢の後部又はライフルの後端に伝わり、弾丸がバレルを通って加速しながら銃口に向かって推進すると同時に、小火器を射手側に推進する。この時小火器の後方への推進に加担したエネルギーが自由反動で、前方への推進に加担したものがマズルエネルギーである。 自由反動の概念は反動エネルギーの総量に対する耐性から生まれた。マズルブレーキ、ショートリコイル方式、ガス圧作動方式、水銀式駐退機、反動抑制パッド、グリップなどで減少した反動エネルギーを計算できたとしても人的要因は計算できないため、実質的な反動(体感反動)を把握することは不可能である。 そのため自由反動は、部屋の気温と外の気温を測定するのと同様、科学的な測定値として存在する。自由反動にどれほど耐えられるかというのは射手によって異なるもので、室温、外気温を快適と思うかどうかは人によって異なるの同じこと。 小火器から受ける自由反動を射手がどのように知覚するかを決定する要素は、体重、体格、経験、射撃姿勢、反動抑制装置、小火器との相性、環境要因など様々である。 自由反動の算出[編集] 自由反動を算出する方法は複数存在するが、運動量を算出する2つの式が最も一般的。 どちらの公式も同じ値を得られるが、短式は1つ、長式は2つの方程式を必要とする。長式ではまず小火器の速度が必要となる。小火器のvelocityが判明していれば、その自由反動は並進運動エネルギーの方程式で計算できる。 運動量の短式: Etgu=0.5⋅[(mp⋅vp)+(mc⋅vc)1000]2/mgu{displaystyle E_{tgu}=0.5cdot [{tfrac {(m_{p}cdot v_{p})+(m_{c}cdot v_{c})}{1000}}]^{2}/m_{gu}} 運動量の長式:

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ティンチョー – Wikipedia

ティンチョー(ビルマ語: ထင်ကျော်、ラテン文字転写: Htin Kyaw、1946年7月20日 – )は、ミャンマーの政治家、慈善団体活動家、元財務官僚。第9代ミャンマー連邦共和国大統領。アウンサンスーチーの側近を長く務めた。 イギリス統治下のビルマ首都ラングーンで、ミン・トゥ・ウン(en:Min Thu Wun、詩人・作家・学者・NLD議員候補)の次男として生まれる。温厚な人柄で人望が厚い人物とされる[1]。 アウンサンスーチーは、ビルマトップの英語学校だったメソジスト英語学校(現ダゴン第一高等学校、en:Basic Education High School No. 1 Dagon)時代の同級生。1962年同校を卒業し、ラングーン大学(現ヤンゴン大学、en:University of Yangon)芸術専攻に入学。1963年に、当時ラングーン芸術科学大学(現ヤンゴン大学)の一部だったラングーン経済大学(現ヤンゴン経済大学、en:Yangon Institute of

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第30回インディペンデント・スピリット賞 – Wikipedia

第30回インディペンデント・スピリット賞は2014年の映画を対象とした賞で、2014年11月25日にノミネーションが発表された[1]。なお、受賞者は2015年2月21日に発表された[2]。 目次 1 ノミネート一覧 1.1 作品賞 1.2 監督賞 1.3 主演男優賞 1.4 主演女優賞 1.5 助演男優賞 1.6 助演女優賞 1.7 脚本賞 1.8 撮影賞

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特殊事件捜査係 – Wikipedia

特殊事件捜査係(とくしゅじけんそうさかかり)は、日本の警察の刑事部に設置されている部署のひとつ。高度な科学知識・捜査技術に精通し、誘拐・ハイジャックなど人質がいる事件や大規模な業務上過失事件、爆破事件などに対処する[2]。刑事警察の捜査員(刑事)による組織であるが、このような所掌をもつことから、人質救出作戦部隊としての側面もある。 警視庁及び道府県警察本部の刑事部捜査第一課に設置されており、警察庁では「特殊事件捜査係」と総称しているが、実際の部署名は、特殊犯捜査係や特殊事件係、特殊犯捜査班、特殊犯事件対策室など、各警察本部によって異なっている。また通称名についても、警視庁ではSIT(Special Investigation Team)、大阪府警ではMAAT(Martial Arts Attack Team)など、非常に多彩になっている。 昭和40年代の日本では、科学技術の進歩や高度経済成長に伴う生活・行動様式や価値観の変化に伴って、新たなタイプの犯罪が問題となっていた。従来は考えられなかったような大型犯罪の発生や、犯罪の広域化・スピード化、爆発物や銃火器を使用した凶悪犯罪や、大量輸送機関に関連した事件事故などがそれであった[2]。 そしてまた、1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件は、刑事警察に対して深刻な教訓となっていた。この事件では、最終的に犯人の検挙にこぎつけたことで対外的な面目は保たれたものの、警察側の体制不備のために身代金を奪われ、現場での犯人確保にも失敗し、そして人質の救出も果たせなかったことで、警視庁上層部は深刻な問題意識を抱いていた。 この状況に対し、1964年4月1日、警視庁刑事部では捜査第一課に特殊犯捜査係を設置した。また警察庁でも、吉展ちゃん誘拐殺人事件の教訓を踏まえて、昭和45年度に「刑事警察刷新強化対策要綱」を策定し、捜査体制の抜本的な強化を打ち出した。この一環として、同年より各警察本部への特殊事件捜査係の設置が図られることになり、1981年3月までに全ての道府県警察本部に設置された[2]。 所掌[編集] 警視庁が特殊犯捜査係を設置した際には、「誘拐事件の捜査に関すること」が事務分掌の第一項目とされており、いわば日本初の「誘拐捜査専門部隊」といえるものであった。また警察庁では、「新型・特殊な事件の捜査経験に富み、高度な科学知識および捜査技術に通暁した専任捜査官を警察本部に常駐させておき、管内のいかなる場所で事件が発生しても、速やかに応援捜査を行えるように設置された部署」として位置付けられていた。 一般的な事件の捜査は事件発生後に行われるのに対し、誘拐事件・人質事件では現在進行形の捜査が行われるのが特徴となる。誘拐・恐喝事件では被害者家族や社員になりすまして犯人との交渉や身代金受け渡しを、また人質立てこもり事件では犯人への説得交渉などを行なって事件の解決を図る。このため、車両を使用した追跡や特殊通信、逆探知、交渉(説得)技術の訓練などの技術を備えている。 またこのような所掌を持つことから、刑事としての捜査だけに留まらず、人質救出作戦も担当するようになっていった。この結果、しばしば対テロ作戦を担当するSATとの境界線が問題になっており、政治的な背景をもった事件は警備部(SAT)、そうでない事件は刑事部(SIT)とされたこともあったものの、実際にはその区別がはっきりせず、結局はその都度警察本部長の裁定を受けることになっている。概して、戦技・体力ではSAT、捜査力ではSITが優れているとされていることから、1992年には警視庁第六機動隊の特科中隊(SAP; SATの前身組織)から選抜された隊員がSITに編入されているほか、1995年9月にもSAT経験者7名がSITに配属されるなど、人的交流が図られている。また青森県警察のように、刑事部と警備部の合同部隊を準備し、対テロ作戦も兼務させている警察本部もある。 組織[編集] 特殊犯捜査係は各警察本部の刑事部捜査第一課に編成されている。警視庁の特殊犯捜査係は、1964年4月に創設された時は、警部1人・警部補1人・巡査部長2人・巡査2人の計6人体制であり、6月には婦人警察官が配置された。その後、連続企業爆破事件に伴って1975年には67人に増強されたが、同年5月の犯人グループの逮捕・指名手配を受けて、従来の体制に戻された。2019年現在では下記のような組織となっている[9]。 第一特殊犯捜査・課長代理 特殊犯捜査第一係 特殊犯捜査第二係

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山本晶 – Wikipedia

この項目では、文学者について説明しています。経営学者については「山本晶 (経営学者)」をご覧ください。 山本 晶 生誕 1934年1月22日東京市芝区 死没 (2021-07-15) 2021年7月15日(87歳没) 研究分野 英米文学 研究機関 慶應義塾大学 出身校 慶應義塾大学 プロジェクト:人物伝 テンプレートを表示 山本 晶(やまもと あきら、1934年〈昭和9年〉1月22日

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池原ダム – Wikipedia

池原ダム(いけはらダム)は奈良県吉野郡下北山村、一級河川・熊野川(新宮川)水系北山川に建設されたダムである。 電源開発(J-POWER)が管理する発電用ダムで、高さ110.0メートルのアーチ式コンクリートダム。アーチダムとしては国内最大の総貯水容量と湛水(たんすい)面積を誇り、日本における大規模なダムの一つである。下流にある七色ダムとの間で揚水発電を行い、最大35万キロワットの電力を生み出す。ダムによって形成される人造湖は池原貯水池(いけはらちょすいち)または池原湖(いけはらこ)と呼ばれ、ブラックバス釣りの名所としても知られる。吉野熊野国立公園に含まれ、2005年(平成17年)にはダム湖百選にも選ばれている。 熊野川総合開発計画[編集] 熊野川[1]は紀伊半島では紀の川に並ぶ大河川である。その流域面積の大半は紀伊山地内であり、かつ大台ヶ原を始めとして年間総降水量が平均で3,000ミリメートル、多いときには5,000ミリメートルにも達する日本屈指の多雨地帯である。これに加え瀞峡など険阻な峡谷が形成されている。こうしたことから水量が極めて多い急流河川であり、水力発電には最適な河川であった。だが険しい山と谷によって交通の便が極めて悪く、開発の手がなかなか伸びない河川でもあった。 熊野川水系における河川開発計画は、1937年(昭和12年)に当時河川行政を管轄していた内務省が全国64河川を対象に河水統制事業の調査河川の一つに選ばれたことより始まる。東京帝国大学教授・内務省土木試験所長であった物部長穂が提唱した「治水と利水を統合した、水系一貫の河川開発」、すなわち河川総合開発事業が国策として推進されたことによるものである。熊野川は内務省大阪土木出張所が調査を行う河川として予備調査が開始されたが、その後の太平洋戦争によって調査は進捗しなかった。 戦後壊滅に陥った日本経済の回復と、治水事業放置による水害の頻発に頭を悩ませていた経済安定本部[2]は中断していた河川総合開発事業の再開を図り、1947年(昭和22年)に24河川を対象とした調査が行われた。この際熊野川は建設省[3]と農林省[4]が共同で調査を開始した。農林省については熊野川本流上流部を紀の川と連絡水路でつなぎ熊野川の水を紀の川へ分流させる計画[5]を立て、建設省はアメリカのTVA(テネシー川流域開発公社)方式である多数の多目的ダムを熊野川本流および北山川に建設し、治水と灌漑、水力発電を行おうとした。 この「熊野川総合開発計画」は熊野川本流に三箇所[6]、北山川流域に五箇所の多目的ダムを建設する壮大なものであった。この内北山川には上流より前鬼口ダム、北山ダム、大沼ダム、小松ダムの四ダムが計画され、北山川支流の東ノ川に大瀬ダムが計画された。この中で最上流部に計画されていた前鬼口ダム(ぜんきぐちダム)が池原ダムの原点である。規模は高さ95.0メートル、総貯水容量2,950万トンの重力式コンクリートダムであった。調査は1949年(昭和24年)に本格化したが、予測された総事業費約450億円(当時)に対して完成後の治水、かんがい効果がわずかであることが判明。費用対効果のバランスが著しく欠けることで「熊野川総合開発計画」は1953年(昭和28年)をもって中止され、上記のダム計画も全て中止された。 熊野川開発全体計画[編集] こうして建設省による「熊野川総合開発計画」は頓挫したわけであるが、先に述べたとおり水力発電として開発するには極めて魅力的な河川でもあり、1950年(昭和25年)に熊野川水系は国土総合開発法に基づき吉野熊野特定地域総合開発計画の対象区域となり、開発の機運はさらに高まった。1952年(昭和27年)には電源開発促進法の成立により公営企業である電源開発が誕生したが、電源開発は建設省が計画を中止した後も水力発電単独で調査を進めた。 調査終了後1954年(昭和29年)7月に第15回電源開発調査審議会が開かれ、席上10地点の水力発電所からなる「熊野川開発全体計画」が策定された。この計画では建設省が中止したダム計画八箇所のうち六箇所を引き継ぎ熊野川本流筋に風屋ダムと二津野ダム、北山川筋に池原(旧・前鬼口)、七色(旧・北山)、奥瀞(旧・大沼)、大瀬の四ダムを建設。さらに大瀬ダムから流域変更を行って三重県尾鷲市を流れる銚子川の支流・又口川を経て熊野灘へ導水、この間に二箇所の発電所を建設。熊野川本流に建設省が施工を進めていた猿谷ダムでは紀の川分水を利用して二箇所の発電所を建設するという壮大な計画であった。 この内熊野川本流筋の風屋・二津野ダム、及び紀の川分水に絡む西吉野第一・第二発電所、そして尾鷲分水に絡む東ノ川の大瀬ダム[7]がまず着手され、続いて北山川筋の池原・七色・奥瀞三ダムからなる水力発電所群が着手されたのである。池原ダムはこれら「熊野川開発全体計画」における最大、中核の施設として計画された。 池原ダムは当初1万2,000キロワットの発電を行う計画であったが、1959年(昭和34年)には14万キロワット、1964年(昭和39年)には一般水力発電から揚水発電に変更の上で出力を35万キロワットへと大幅に上方修正した。しかし当時の電源開発は天竜川(佐久間ダム)、只見川(奥只見ダム・田子倉ダム)、庄川(御母衣ダム)の三大事業を進めている最中で、事業費の根幹を占める政府から拠出される財政投融資もこの三事業に費やしていたこともあって北山川に関しては資金難が続き、なかなか着工に漕ぎ着けなかった。これに加え水没する下北山村・上北山村住民の反対運動や吉野熊野国立公園の自然が大幅に改変されることによる厚生省[8]の猛反発が、着工を大幅に遅延させる要因となっていた。 ダム地点は北山川が大きく蛇行する峡谷であったが、それに沿うように白川本在地区など九つの集落が林業を生業として生活していた。ところが再三の計画変更で規模が大きくなった池原ダムでは、これら九集落・529戸の世帯が水没対象となった。これは多摩川の小河内ダム(東京都)における945世帯、和賀川の湯田ダム(岩手県)における620世帯に次ぐ規模の水没戸数であり、かついかだによる流木で新宮市へ木材を運搬していたためダム建設による流筏の途絶に伴う林業への打撃もあって、住民は計画発表から直ちにダム建設に絶対反対の姿勢を取った。計画発表から補償交渉は難航したが、1960年(昭和35年)11月に大きな進展があった。それは代替地造成によるコミュニティの維持という現物支給による補償方式である。この方式は既に中部電力が静岡市の井川ダム(大井川)で実施して成功しており、電源開発も静岡県の秋葉ダム(天竜川)や風屋ダムで実施していた。池原ダムでは上北山村白川、川合など四箇所に代替地を造成する方向性で補償交渉を進めた。ところが代替地の造成に関する具体策や流筏に替わる代替道路などの整備について再び交渉が暗礁に乗り上げた。 1961年(昭和36年)に公共補償については「電源開発が地域開発に全面的に協力する」ことを条件として妥結、国道169号の付け替えやそれに連絡する代替道路の敷設が本格化した。そして最後まで難航した住民との補償交渉については奈良県、奈良県議会、下北山村当局の協力を受けて補償交渉が妥結。代替地が造成され64戸が移住することになった。こうして足掛け10年にわたる補償交渉は1964年に終了した。この「代替地方式」による補償はその後高知県の魚梁瀬ダム(奈半利川)や石川県の手取川ダム(手取川)でも行われている。なお、池原ダム建設によって直上流に建設されていた摺子ダム(発電用小堰堤)が水没している。 厚生省の反発[編集] 当時「奥瀞ダム」として計画された北山川最下流部の小森ダム。景観保護のため河川維持放流を実施している。 池原ダムについては、補償交渉と同時に厚生省によるダム建設反対表明が事業遅延の要因として大きかった。 北山川の開発を行う上で池原・七色・奥瀞の三ダムは不可分の事業であった。特に七色ダムは池原ダムの揚水発電における下部調整池(下池)として重要であり、これが完成しないことには十全の水力発電能力は発揮できなかった。しかし北山川流域はほぼ全域が吉野熊野国立公園の指定区域であり、七色ダム地点には名瀑・七色の滝が、奥瀞ダム地点には吉野熊野国立公園の主要な観光地でもある瀞峡・瀞八丁があった。当初の計画通りにダムが完成すれば、これらは水没する。これに対して国立公園を管轄する厚生省、およびその諮問機関である自然公園審議会はこの計画に対して猛反対を唱えた。その最大の理由は自然保護であった。 厚生省は既に尾瀬原ダム計画(只見川)においてダム計画に絶対反対の姿勢を取っていたが、このときすでに黒部峡谷と熊野川における開発にも反対の姿勢を明確にしていた。国立公園内に自然改変を伴う工作物を建設する際には監督官庁である厚生省の許可がなければ、いかに重要な国土開発といえども着手できない。ダム地点はいずれも国立公園特別地域内であったことから厚生省への許可を求めたが、厚生省の諮問機関でこれら申請を検討する自然公園審議会は特に七色と奥瀞地点の着工は断じて許諾できないとしたのである。その理由としては以下のものがあった。 日本一の蛇行性峡谷である北山川は残された数少ない国家的な観光資源である。特に七色の滝から瀞八丁は絶景である。

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