Month: April 2019

恩賞方 – Wikipedia

恩賞方(おんしょうがた)とは、建武政府及び室町幕府に設置された恩賞業務を取り扱った部局。 建武政府の恩賞方[編集] 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が、恩賞業務の審議・調査のために設置した。その正確な時期や、初期の制度は不明だが、7月19日に新田氏庶流(ただし派閥は新田氏ではなく足利氏)の岩松経家に対し北条泰家ら旧幕府の幹部の遺領が配布されているため(『集古文書』[1])、7月中には恩賞方が設置されていたと考えられる[注釈 1]。 翌建武元年(1334年)5月18日、全国を4地域に分けてそれぞれに頭人を任命する四番制を導入[4]、 を頭人に任命、楠木正成や名和長年を寄人に任じた。彼らは雑訴決断所の頭人や寄人を兼務していたため、両者の連携が期待された。また、伊賀兼光ら旧幕府の法曹官僚から恩賞方に加わる者もいた。 室町幕府の恩賞方[編集] 建武3年(延元元年/1336年)、建武政府を倒した足利尊氏は直ちに後の室町幕府となる新政府の樹立を図り、足利宗家の家宰である執事高師直を頭人とする恩賞方(恩沢方(おんたくがた)とも)を設置した。尊氏は建武政府の恩賞方の失敗に学んで引き続き最終決定権は尊氏の親裁としたものの、恩賞方は恩賞の申請受理・恩賞地の選定・恩賞替地の沙汰(恩賞地が他者の所領であった場合の新旧領主間の裁判)・恩賞下文の紛失安堵などの広範な業務を任された。 尊氏は幕府成立後は民政のみならず軍権の一部まで弟の足利直義に譲って、半ば象徴的存在にもなっていたが、恩賞方の業務のみは自らが把握して親裁を行い、必要があれば審議にも参加した。これを「御恩沙汰(ごおんさた)」と呼んだ。皮肉にも観応の擾乱によって尊氏と直義が対立して直義とこれを支持する幕府官僚の多くが離反した時、室町幕府の機構の多くが機能停止に陥ったが、恩賞方のみは尊氏派の官僚がそのまま残留したためにこれを免れたのである。 幕府組織の再建を主導した後の2代将軍足利義詮は恩賞方を拠点として再建を図り、後にここで御前沙汰と呼ばれる会議を主宰した。後に御前沙汰は義詮の後継者である足利義満によって恩賞以外の重要事項も審議するとともに、将軍の個人的な人選によって選ばれた重臣・側近による事実上の最高諮問機関へと変化していく。特に恩賞方などで事務を担当していた法曹官僚である奉行人が次第に奉行衆(右筆方)として幕政に深く関わってくると、本来恩賞方の下級官僚でしかない彼らが将軍の意向で御前沙汰の一員に加えられて恩賞方衆と呼ばれるようになる。 さらに足利義教になると、御前沙汰そのものが恩賞方から離れて幕府中枢に置かれるようになり、恩賞方衆も「御前沙汰衆・御前奉行人」などと呼ばれるのが一般的となる。また、恩賞方も実際には御前沙汰のための事務機関となり、御前沙汰衆の予備軍とも言える奉行人達が詰める様になった。 このため、別個に奉行衆の中から「別奉行」として恩賞奉行あるいは御恩奉行などが任命されて恩賞業務を置いたと推定されているが、詳細は不明である。 注釈[編集] ^ 流布本巻12「公家一統政道の事」[3]では、「恩賞方の長官は一人で、「上卿」と言い、洞院実世は実力不足から解任され、次の万里小路藤房は正道が行われない怒りから辞職し、さらに次の九条光経も後醍醐と佞臣の無道におろおろとするだけだった。恩賞方は審議機関でしかなく最終決定権を後醍醐天皇の親裁としたこと、天皇が恩賞問題の処理を恩賞方に一元化せずに(主に側近の要望を受けて)恩賞方の意見と違った綸旨を下したこと、そのために訴訟も頻発し更に訴訟機関が整備されていなかったために恩賞方に訴訟事務が殺到したことによって恩賞業務は混乱した」という描写あるが、事実かは不明である。そもそも「8月3日設立(実際は7月中)」「藤房は恩賞方を離れた(実際は翌年恩賞方として活動している)」「北条泰家の所領は全て護良親王に渡った(実際は岩松経家らも泰家の所領を得ている)」など、少なくとも3箇所以上で史実と矛盾している。 出典[編集] 参考文献[編集]

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シトロン – Wikipedia

シトロン シトロンの果実 分類 学名 Citrus medicaL. 和名 シトロンマルブシュカン(丸仏手柑) 英名 citron シトロン(仏: citron; 学名: Citrus medica)は、ミカン科ミカン属の常緑低木樹。漢名は枸櫞(くえん)。マルブシュカン(丸仏手柑)ともいう[1]。レモンと類縁関係にある。ミカン科の常緑小高木。レモンと似ているが葉や果実がより大きく、香りもより強い。ブッシュカンの日本在来種で、九州南部の海岸地帯で栽培。寒さに弱く、枝にとげがあり、葉は楕円形。花は薄紫色。果実は長卵形でひだがあり、鮮黄色の広楕円形で冬に熟す。酸味が強く生食できない。果実は砂糖煮、果汁は飲料、果皮や葉は香料にし、またクエン酸をとる。 リンネの『植物の種(英語版)』(1753年) で記載された植物の一つである[2]。 原産はインド東部、ガンジス川上流の高地。しかし紀元前にはすでにローマや中国に伝来していた。またアメリカ大陸にはコロンブスによる到達以降に伝わった。日本では「本草図譜」(1828年)に記載されているので、江戸時代以前に伝わっていたと思われる。 枝にはとげが多い。葉は淡黄緑色、細長い楕円形で縁に細かいぎざぎざ(鋸歯)がある。新芽や花は淡紫色を帯びている品種が多く、花弁は細長い。 熟した果実の表面は黄色く、形状は品種により様々だが、一般に紡錘形で重さは150

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ムーサ (ティントレット) – Wikipedia

『ムーサ』(伊: Le Muse, 英: The Muses)は、イタリア、ルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティントレットが1578年に制作した絵画である。油彩。主題はギリシア神話の主神ゼウス(ローマ神話のユピテル)と記憶の女神ムネモシュネの娘で、文学と芸術を司る9人の女神ムーサたちである。同じくティントレットの『アハシェロス王の前のエステル』(Ester prima di Assuero)とともに、マントヴァのゴンザーガ家、イングランド国王チャールズ1世のコレクションであったことが知られている。現在はロンドンのケンジントン宮殿のロイヤル・コレクションに所蔵されている[1][2]。 ヘシオドスの『神統記』によると、ムーサはゼウスとムネモシュネの間に生まれた9人の女神である[3][4]。トラキア地方およびボイオティア地方のヘリコン山との結びつきが強く、詩人の霊感の源と見なされた。芸術との関連性から古典期以降は特にアポロン神と結びつけられ、アポロンに従う女神たちと考えられた[5]。さらにローマ時代になると女神たち1人1人に文芸の分野が割り当てられ、カリオペは「叙事詩」、クレイオは「歴史」、エウテルペは「抒情詩・笛」、タレイアは「喜劇」、メルポメネは「悲劇」、テルプシコラは「合唱抒情詩・竪琴」、エラトは「独唱歌・舞踏」、ポリュムニアは「讃歌」、ウラニアは「天文詩」を司るとされた[6][7]。 ジョバンニ・アントニオ・バッフォのチェンバロ。1579年。 ティントレットはアポロンと楽器を演奏するムーサたちを描いている。アポロンは太陽として画面中央に描かれているが、ムーサたちが誰であるかを特定するのは困難である[1]。叙事詩を司る長女のカリオペは、おそらく画面中央でチェンバロまたはクラビチェンバロを演奏している女神である。歴史を司り、巻物や書物をアトリビュートとするクリオはカリオペの左斜め下で書を開いており、天文詩を司り、アーミラリ天球儀やコンパスをアトリビュートとするウラニアは、画面の下辺で右手にコンパスを持って横になっている[1][2]。 ティントレットはおそらく1556年にヴェネツィアで出版されたヴィンチェンツォ・カルターリ(英語版)の豊富な図像のある古代神話の手引書『古代人たちの神々の姿について』(Le imagini con la spositione de i dei

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四至本博 – Wikipedia

四至本 博 基本情報 国籍 日本 出身地 岐阜県 生年月日 1949年 身長体重 175 cm78 kg 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 内野手、外野手 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 岡山県立倉敷商業高等学校

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ネヴィル・シュート – Wikipedia

ネヴィル・シュート・ノーウェイ(Nevil Shute Norway 、1899年1月17日 – 1960年1月12日)は、イギリスの小説家、航空技術者である。 ロンドンのイーリングで誕生。第一次世界大戦に従軍後、オックスフォード大学を卒業。航空機メーカーのデ・ハビランド社でエンジニア兼パイロットとして働いた。1924年にヴィッカース社に移り、飛行船R100の開発に関わった。余暇に執筆していた小説は1926年から出版され始めた。1931年に独立、エアスピード社を創設し、経営者となった。また、同年に結婚し、2人の娘をもうけた。1938年に同社を退職し、専業作家となった。第二次世界大戦中には志願して従軍し、パンジャンドラムなどの特殊兵器の開発に携わった。そのかたわらで執筆も続けていた。大戦後オーストラリアに移住。1954年から1958年までの間、ジャガーXK140でレースに参加した。従妹にアイルランド系アメリカ人女優のジェラルディン・フィッツジェラルドがいる。1960年にメルボルンで死去。 作品リスト[編集] Marazan (1926) So Disdained (1928) Lonely Road (1932) Ruined City (1938) 試練:

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2005年の大西洋ハリケーン – Wikipedia

2005年の大西洋ハリケーンの軌跡の地図 2005年の大西洋におけるハリケーン(大西洋で発生した熱帯低気圧)のデータ。 2005年の大西洋地域におけるハリケーンの活動は、発生数の面でも勢力の面でも、史上最高といえるほど活発であった[1]。また、2005年は大西洋ハリケーンに関する多数の記録が生まれた年でもあった。 発生数は史上最多の27個で、それまでの最多記録であった21個(1933年)を大幅に更新した[1]。北大西洋のハリケーンの名前リストは「年次リスト」と呼ばれ、頭文字のアルファベット順に21種類(Q・U・X・Y・Zの5文字は使わない)の人名のリストをあらかじめ6セット用意し、1年ごとに1セットずつAから順に使用され、6年間かけて6セットのリストを一巡すると再び1セット目に戻るループである[1][2]。リストの後半にあるVやWなどから始まる名前は、ハリケーンが多数発生した場合にのみ使用されるため、実際には使用された例がほとんどない[1]。21個を上回る数のハリケーンが発生しリスト上の名前を使い果たした場合は、「α(アルファ)」「β(ベータ)」「γ(ガンマ)」などのギリシア文字を順に続けていくことになっているが[2]、この年は初めてハリケーン発生数が21個を越えたことで、史上初めてとなるギリシア文字のハリケーン「アルファ」が登場し、これだけでも前例のない事例となったが、そればかりかその後も次々と熱帯低気圧が発生し、最終的には「ζ(ゼータ)」まで使用されるという異例の記録が生まれた[1]。 「カトリーナ」「ウィルマ」「リタ」など、記録的な勢力になったハリケーンも多く、特にカトリーナはアメリカ合衆国に甚大な被害をもたらして世界に衝撃を与えたほか、ウィルマは最低気圧882 hPa(ヘクトパスカル)を記録し大西洋におけるハリケーンとしては過去最強の勢力となった[3]。最大風速64ノット(32.6メートル/秒)以上のハリケーンの発生数は15個に達し、従来の最多記録であった1969年の12個を上回り、過去最多となった[3]。 また、12月になってから発生したハリケーンもあり、このような時期におけるハリケーンの発生は異例であった[3]。 目次 1 2005年の大西洋ハリケーンの基礎データ 2 2005年の大西洋ハリケーン一覧 2.1 トロピカル・ストーム・アーリーン 2.2 トロピカル・ストーム・ブレット 2.3 ハリケーン・シンディ 2.4 ハリケーン・デニス

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上原豪 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “上原豪” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) 上原 豪 名前 愛称 ゴウ カタカナ ウエハラ ゴウ ラテン文字 UEHARA Go

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ジョン・ハミルトン (第3代ベルヘイヴン=ステントン卿) – Wikipedia

第3代ベルヘイヴン=ステントン卿ジョン・ハミルトン(英語: John Hamilton, 3rd Lord Belhaven and Stenton、1674年以降 – 1721年11月17日)は、スコットランド貴族。スコットランド貴族代表議員(在任:1715年 – 1721年)、バルバドス総督(在任:1721年)を務めたが、バルバドスに向かう道中で船難に遭って死去した[1][2]。 第2代ベルヘイヴン=ステントン卿ジョン・ハミルトン(英語版)(1656年7月5日 – 1708年6月21日)と妻マーガレット(Margaret、旧姓ハミルトン(Hamilton)、1717年1月4日没、初代準男爵サー・ロバート・ハミルトンの娘)の長男として生まれた[1]。 1708年6月21日に父が死去すると、ベルヘイヴン=ステントン卿位を継承した[1]。 1715年イギリス総選挙でスコットランド貴族代表議員に選出され[1]、同年6月12日に王太子ジョージ(のちの国王ジョージ2世)の寝室侍従(英語版)に任命された[3]。同年のジャコバイト蜂起では1715年11月13日のシェリフミュアの戦い(英語版)でイースト・ロジアン騎兵隊を率いて参戦した[1]。 1721年にバルバドス総督に任命されたが、バルバドスに向かう道中、ザ・リザード(英語版)沖で船難に遭って死去した[2]。長男ジョンが爵位を継承した[2]。 アン・ブルース(Anne Bruce、1707年8月19日埋葬、エディンバラの商人アンドルー・ブルースの娘[2])と結婚、4男1女をもうけた[1]。

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所沢市内循環バス – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “所沢市内循環バス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) 所沢市内循環バス(ところざわしないじゅんかんバス)は、埼玉県所沢市が運行するコミュニティバスである。愛称は「ところバス」。1998年5月1日運行開始。西武バス所沢営業所が全路線の運行を受託している。また、2021年4月1日にワゴン車タイプの「ところワゴン」も運行を開始した。こちらは西武ハイヤー所沢営業所が全路線の運行を受託している。 概要[ソースを編集] 所沢市内には多数の幹線道路や市道などの生活道路が存在する。各方面から往来する一般自動車による道路渋滞により一般路線バスの定時運行が難しくなり、路線バスの廃止や短縮などを余儀なくされていた。こうして路線バスが廃止された道路沿いの住民からのバス復活要望や、一般路線バスが運行できない狭隘道路などの「交通空白地域」からも何らかの形でバスを走らせてほしいとの陳情が市役所に多く寄せられていた。そこで市で検討し、市役所はじめ主要官公庁の集まる西武新宿線航空公園駅を起点に、1998年に東西の2路線が開業したのが始まりである。その後、路線の追加・統合を経て、現在の運行形態となる。 2018年10月からは初の市外(県外)乗り入れとして、所沢市と東村山市が協定を結び、南路線(吾妻循環コース)で東京都東村山市の西武遊園地駅へ乗り入れの実証運行を開始した[1][2]。その後、実証運行の結果が振るわなかったことから、2020年3月をもって東村山市域への乗り入れを廃止し、同年4月1日より西武園駅から遊園地西駅へ直行する東村山市域乗り入れ前のルートに戻ることが発表された[1][3][4]。また同日より全路線で運賃改定を行い、現金運賃で最大10円、IC運賃で3円から5円の引き上げとなった[4]。 運行内容[ソースを編集] 年末年始(12月29日〜1月3日)は運休となる。 運賃は、地域を走る西武バスの一般路線バスに準じており、中乗り後払い式。 一部区間を除き、初乗り100円。上限額270円。小児半額。6歳未満は同伴者1人につき2人まで無料。 2008年(平成20年)4月から、毎月22日は100円均一運賃(小児50円)で乗車できる。 運賃支払いは現金、西武バスの一般回数券、PASMO・Suica・交通系ICカードが利用可。各種乗車証制度あり。 ところワゴンと共通の1日乗車券が車内で一般500円、特別[5]200円で販売されている(支払いは現金のみ)。

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サヴェイジ・アミューズメント – Wikipedia

サヴェイジ・アミューズメント(原題:Savage Amusement)は、ドイツの ハードロックグループスコーピオンズの10枚目のスタジオアルバム。1988年リリース。本作が最後のディーター・ダークスプロデュース作品。 # タイトル 作詞 作曲 時間 1. 「ドント・ストップ・アット・ザ・トップ」(Don’t Stop at the Top) K. Meine, H. Rarebell R. Schenker

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