メロヴィング朝 – Wikipedia
メロヴィング朝フランク王国 メロヴィング朝(メロヴィングちょう、仏: Mérovingiens, 独: Merowinger, 英: Merovingian dynasty)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。 メロヴィングの名は、始祖クローヴィスの祖父メロヴィクスにちなむ。4子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返して衰退した。 建国と改宗[編集] フランドルを支配していた小国の王クローヴィス1世(465年 – 511年、在位481年 – 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いた。496年、クローヴィスはカトリック教徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたアリウス派キリスト教(異端宗派)から、家臣4,000名とともに正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗した(クローヴィスの改宗)。これによって旧西ローマ帝国貴族の支持を得、領内のローマ系住民との関係も改善された。506年に西ゴートをヴイエの戦いで破り、その王アラリック2世を戦死させ、イベリア半島へ駆逐。王国の版図を広げた。 クローヴィス1世[編集] メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリク1世とその子クローヴィス1世である。 キルデリク1世の時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した。トゥールのグレゴリウスによれば、508年にランスの司教レミギウスによって洗礼を授けられて改宗したという見方が有力となりつつある。 フランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルダと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた。 分割後のメロヴィング朝フランク王国(600年ころ)
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