Month: July 2019

メラニア・トランプ – Wikipedia

メラニア・トランプMelania Trump 2019年9月 アメリカ合衆国のファーストレディ 任期 2017年1月20日 – 2021年1月20日 元首 ドナルド・トランプ 先代 ミシェル・オバマ 次代 ジル・バイデン 個人情報 生年月日 (1970-04-26) 1970年4月26日(51歳) 出生地 ユーゴスラビア

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内蔵山 – Wikipedia

内蔵山(ネジャンさん、내장산, 內藏山)は、大韓民国南西部の全羅北道井邑市と淳昌郡の境界にある山である。小白山脈の秋風嶺付近から分かれ、忠清北道・全羅北道・全羅南道を経て南西に伸び、務安半島に至る盧嶺山脈に位置している。白亜紀末の火山岩類が形成する山体で、主に安山岩からなり節理が現れ、断崖絶壁が発達している[1]。植生は落葉広葉樹林が主であるが、稜線には針葉樹林もある[1]。ユズリハの群落は大韓民国指定天然記念物第91号に指定されている[1]。 内蔵山は、智異山・月出山などとともに、湖南地方(全羅道など)の5大名山の一つとして知られ、500年以上前から紅葉の名所としても広く知られてきた。紅葉の時期には、一日10万の人波が紅葉を見るために内蔵山を訪れるほか、春には緑の山麓に咲く桜やつつじの美しさ、夏には山の緑、秋は燃えるような紅葉、冬には雪景色の美しさを楽しめる観光名所であり、年間を通して100万以上の観光客が内蔵山を訪れている。 1971年11月17日、内蔵山国立公園に指定された。2002年には国際連合が定めた国際山岳年を記念し、山林庁は100大名山を選定[2]、内蔵山も名を連ねている[3]。 内蔵山はもともと、本寺霊隠寺(現在の内蔵寺)の名にちなんで霊隠山と呼ばれたが、山の中に隠されたものが無尽蔵にあるということから、内蔵山と呼ばれるようになった。 内蔵寺と背後にそびえる内蔵山系 山中には内蔵寺がある。内蔵寺は、百済の武王の代の636年に霊隠祖師が創建した寺で、元は霊隠寺と呼ばれた。歴史上何度も焼失と再建を繰り返しており、現在の内蔵寺は朝鮮戦争で焼失した後、1970年代に再建されたものである。 内蔵山は9つの峰からなっており(内蔵九峰)、その最高峰は神仙峰(シンソンボン、763m)である。また内蔵九峰の北部にある西来峰(ソレボン、636m)は、白い断崖絶壁の峰が約1キロメートルにもわたって連なる特異な景観で、白い崖と紅葉の対比や、頂上からの眺めが見どころになっている。 カチ峰(カチボン)は内蔵山の西の中心部にある峰で、2つの頂上のある形状がカササギが翼を広げている姿と似ていることからカチ峰(717m)と呼ばれる。内蔵山と白岩山(白巌山、ペガムサン、741m、白羊寺を抱えていることから白羊山とも)とを接続する主峰であり、内蔵九峰はカチ峰を中心におおむね東に向かって馬蹄型を成すように続いている。 蓮池峰(ヨンジボン)は、望海峰(マンヘボン、679m)の西南に突き出た峰で、標高は670mである。ここに源を発する水は、湖南平野南部を潤す東津江のもととなる。蓮池峰に雲が立ち込めれば雨が来るという話が伝えられている。 内蔵山国立公園[編集] 1971年11月17日、近くの白羊寺地区とともに国立公園に指定された。総面積81.715平方キロメートルのうち、全羅北道に属している部分は47.504平方キロメートル、全羅南道に属する部分が34.211平方キロメートルで、井邑市と淳昌郡、長城郡にまたがっている。 外部リンク[編集] 座標: 北緯35度29分 東経126度53分 / 北緯35.483度 東経126.883度 /

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翟義 – Wikipedia

翟 義(てき ぎ、? – 7年)は、中国の前漢時代末期の政治家、武将。字は文仲。豫州汝南郡上蔡県の人。父は丞相となった翟方進。兄は翟宣。 初期の事跡[編集] 姓名 翟義 時代 前漢時代 生没年 生年不詳 – 7年(居摂2年) 字・別号 文仲(字) 本貫・出身地等 豫州汝南郡上蔡県 職官 郎〔前漢〕→諸曹〔前漢〕

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詰将棋 – Wikipedia

△持ち駒 残り駒全部 ▲持ち駒 銀詰将棋の例[1] 詰将棋(つめしょうぎ)とは、将棋のルールを用いたパズル。詰め将棋と表記されることもある。 駒が配置された将棋の局面から王手の連続で相手の玉将[2]を詰めるパズルで、元は指し将棋(通常の意味での将棋。詰将棋と区別する上でこう呼称する)の終盤力を磨くための練習問題という位置づけであったと思われるが、現在ではパズルとして、指し将棋から独立した一つの分野となっている。造物、詰物、図式ともいう。 通常の指し将棋と目的が同じであるため、実戦的な詰将棋は指し将棋の終盤力の養成に役立つと一般的に考えられている。詰将棋として独立した作品になると、升田幸三が「詰将棋の妙味はハッとする鮮やかさに尽きる」と述べているように、一般的な常識や価値観と異なる、捨て駒や、不利に思われる不成、利きの少ない限定打、などの意表をついた手筋や構想があり、それらを解く、もしくは創作することが楽しみとなる。 最短のものは1手詰、以下3手詰、5手詰、7手詰…、と奇数の手数となる。これは、先手(攻め方)から指し始めて先手の指し手で詰め上がるためである[3]。数手から十数手までの比較的平易なものが新聞紙上やテレビ、将棋専門誌などに紹介される一方、より難解で手数の長い作品を取り扱う書籍や専門雑誌も存在している。代表的な専門雑誌としては『詰将棋パラダイス』があり、将棋専門誌である『将棋世界』と『近代将棋』も詰将棋の投稿コーナーを連載している。『詰将棋パラダイス』は「看寿賞」を、『近代将棋』は「塚田賞」を設け、優れていると判断された作品に賞を贈っている。 現代の代表的な詰将棋作家に黒川一郎、七條兼三、駒場和男、大塚敏男、山田修司、北原義治、柏川悦夫、岡田敏、酒井克彦、田中至、上田吉一、若島正、山本昭一、山崎隆、森長宏明、柳田明、伊藤正、藤本和、添川公司、橋本孝治、相馬康幸、田島秀男、桑原辰雄、岡村孝雄、山路大輔などがいる。 また、プロ棋士が詰将棋を創ることも多いが、出版物の多くは終盤力を鍛錬するための、実戦的なトレーニングを目的としたものが主流である。一方で、前述の詰将棋作家のように個性的な作品を創作する棋士も少なくない。創作を得意とするプロ棋士(物故、引退も含む)では塚田正夫や二上達也を始め、内藤國雄、谷川浩司、伊藤果、中田章道らが有名である。他に原田泰夫、高柳敏夫、清野静男、五十嵐豊一、熊谷達人、北村昌男、丸田祐三、勝浦修、加藤一二三、加藤博二、佐藤庄平、佐藤大五郎、大内延介、桐山清澄、関根茂、中原誠、小林健二、高橋道雄、浦野真彦、森信雄、北浜健介、佐藤康光、三浦弘行、船江恒平、斎藤慎太郎、藤井聡太らがおり、かつて将棋世界では全棋士出題の詰将棋作品集などが付録となっていた。また、新聞や雑誌に寄稿したり、サイン代わりに自作詰将棋を記述することも多い。女流棋士の詰将棋作家では早水千紗などが得意としている。 2011年以降は将棋初心者やライト層向けに作られた、5手詰以下の詰将棋本が多数刊行されるようになっている。 チェスにもプロブレムと呼ばれる類似したパズル問題が存在する。ただし、チェックは連続しなくてよい。 詰める側を攻方(または詰方)とよび、詰められる側を玉方(または受方)とよぶ。 攻方が先手である。 攻方は王手の連続で相手の玉を詰ます。 攻方は持駒と、王手をしながら取った駒を使ってよい。 玉方は最善、最長手順になるように王手を回避する手を指す。 玉方は同手数の逃げ手順が複数ある場合、攻方に持ち駒を使わせる手順を正解とする。玉方も、場合によっては合駒でなく、守備駒の移動合で応手することもある(いずれにしても、詰み手数が同じ場合)。 玉方の持駒は「残り駒全部」であり、盤上の駒、攻方の持ち駒および残りの玉将を除くすべての駒を持駒とする。 玉方は使われていない駒を合駒として打つことができる。

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義昭 – Wikipedia

室町幕府最後の将軍「足利義昭」とは異なります。 義昭(ぎしょう、応永11年(1404年) – 嘉吉元年旧3月13日(1441年4月4日))は、室町時代の僧。室町幕府第3代将軍・足利義満の子息で第6代将軍足利義教の異母弟。大覚寺門跡となり、官職は大僧正に昇りたびたび東寺長者を務めた。 応永11年(1404年)、室町幕府3代将軍・足利義満の子として誕生。 母親は不明だが、応永13年(1406年)に裏松重光の養子として養育されていた義満の3歳になる男子・妙法院殿が年齢的に義昭と同一人物と考えられている。重光は義満の正室康子の兄弟であり、そこに養子あるいは里子に出されたということは、生母もまたそれ相応の社会的地位を持つ出自だったと推測されている。また「妙法院殿」という称号は、義昭がはじめ妙法院で出家する予定だったことを示す。 応永21年(1414年)に大覚寺に入って出家し、同26年(1419年)に大僧正俊尊を導師として灌頂を受け、応永29年(1422年)と同34年(1427年)に東寺長者に補任されている。2度目の東寺長者補任の翌応永35年(1428年)、ひとり息子の義量(第5代将軍)の死後、後継者を定めないまま幕政を執っていた兄義持(第4代将軍)が危篤に陥ると、仏門にあったその4人の弟の中から次の室町殿をくじ引きで決定することになった。義持の死後公表された次期室町殿は11歳年長の異母兄・青蓮院門跡義円(第6代将軍足利義教)であった。 義教は幕府権力再建に尽力したが、猜疑心が強く些細な理由で処罰や殺害された武家や公家が相次いだことから人々から「万人恐怖」と呼ばれ恐れられた。永享6年(1434年)には義昭の養父裏松重光の嫡男である義資が何者かに殺害されたうえ首を持ち去られるという事件が起こるが、これも義教の指図によるものとの噂がすぐに立ち、やがてこれが公然の秘密と化した。当時義資は、義教の勘気を被り蟄居の身だったが、折しも義教の側室に上がっていた妹の重子が長男・千也茶丸を産んだことから、蟄居中の義資の屋敷には多くの者が祝いに訪れた。これに立腹した義教は祝いに訪れた者をことごとく処罰しているが、義資の変死はその直後のことだったのである。また、義満時代より恒例となっていた大覚寺門跡が室町殿を訪れて将軍家のために祈祷を行う慣例が途絶えた。このようなことがあり、義昭は義教と次第に疎遠となってゆき、それとともに義教は義昭にも猜疑の念を持つようになってゆく。 永享9年(1437年)7月11日未明、義昭は秘かに大覚寺を抜け出し逐電した。義教以下幕閣は、大覚寺が南朝ゆかりの寺院であること[注釈 1]、またこの頃鎌倉公方足利持氏が反幕府の動きを見せていたことから、義昭はそのどちらかと結んで出奔したと判断、畿内各地で捜索を開始した。 翌月には義昭が吉野の天川で還俗し、三井寺にいた説成親王の子・圓胤や大和国の郷士・越智維道と共に挙兵したという情報が入り、翌永享10年(1438年)3月には大和国に一色義貫率いる討伐軍が派遣されて、9月には吉野で反抗していた大覚寺の僧侶と山名氏旧臣が討たれた。これを「大覚寺義昭の乱」と呼ぶこともあるが、実際のところは一連の騒動の期間に義昭が吉野に滞在していた証拠も、挙兵の中に義昭当人がいたことも、それを確認できる文献は存在せず、風説が独り歩きしたことも考えられる。その後の義昭の行動にも、すくなくとも鎌倉公方との関係を示唆する史料は残されていない。 吉野で足利義教の命令を受けた幕府軍が義昭を捜索していたが、永享10年3月に実は義昭は四国にいるという情報が幕府に伝えられ、やがて土佐国の国衆・佐川氏の保護下に置かれていたことが、管領細川持之発給の御内書などによる土佐・阿波の諸国衆に対する命令で明らかとなっている。 更に永享12年(1440年)頃には、義昭は九州に移って還俗して尊有(たかもち)と名乗り、日向国の国衆野辺氏の保護下に置かれていることが明らかとなった。そこで義教は日向守護を兼ねる薩摩守護の島津忠国に義昭討伐を命じた。しかし、島津家中では、義昭擁護論と討伐論に割れていたと推測され、万里小路時房の『建内記』には伝聞記事として、島津氏の庶流の人物より幕府に対して忠国が義昭を匿っているとする密告があったと記述している[注釈 2]。そこで義教は忠国と面識のある赤松満政や大内持世らを通じて説得に当たらせた。当初は義昭討伐を渋っていた忠国も度重なる義教からの命令と幕命違反に不満を抱く家中の意見双方の圧力に屈する形で、重臣の山田忠尚・新納忠臣らに義昭討伐を命じた。 忠国の心境は複雑であり、忠尚らにはやむなく討ち取って首を刎ねるとしても義昭の貴人としての名誉に配慮するように命じている。やがて忠尚らは櫛間永徳寺にいた義昭を包囲した[注釈 3]。義昭は逃げられずと悟って自害した。なお、義教は薩摩から義昭の首が届くと大いに喜んだという。 注釈[編集] ^ ただし、大田壮一郎は後南朝など旧南朝勢力が大覚寺との関係を持っていた裏付けは存在しないこと、反対に当時の大覚寺が室町幕府と北朝の公武祈祷を担っており、将軍の子である義昭の入寺はその親幕府の立場からなされたとして、仮に義昭と旧南朝勢力が結びついていたとしてもそれは義昭が将軍・義教の対抗馬になりえる存在であったからであるとする[1]。 ^

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伊予銀行 – Wikipedia

株式会社伊予銀行(いよぎんこう、英:The Iyo Bank, Ltd.)は、愛媛県松山市に本店を置く地方銀行。愛称は「いよぎん」。 店舗網は愛媛県(旧伊予国)内を中心に、四国他県、瀬戸内海を挟んで向かい合う山陽地方、関西(大阪府と兵庫県)、九州北部(大分県と福岡県)、東京都、愛知県に展開している。インターネット支店も開設しているほか、海外ではシンガポールに支店、中華人民共和国の上海と香港に駐在員事務所を置いている[2]。 概要 歴史 第二十九国立銀行の設立 伊予銀行は、西宇和郡川之石浦(現在の八幡浜市)に愛媛県最初の銀行として設立された第二十九国立銀行に始まる。1877年7月に第二十国立銀行を東京府に設立した、旧宇和島藩主伊達宗城の命を受けた同行の今岡好謙と宇都宮綱條が川之石浦の矢野小十郎に、銀行設立を勧めたことが発端である[3]。川之石浦は天然の良港を有し、ハゼ漁や銅資源にも恵まれ、宇和島藩や吉田藩の参勤交代における交通の要衝として栄えた浦であった。矢野らは1875年に潤業会社を設立して、近在や野村地方の製糸業者を対象に貸金業を営んでいた。 矢野を中心に宇和島の旧士族や地主、商人、網元など12人は1877年9月7日、川之石浦への国立銀行設置を大蔵省に請願した。1878年1月29日付で開業免許が下付され、同年3月15日に開業した。初代頭取には清水一朗が就任した。四国に設立された銀行としては、高知県の第七国立銀行に次いで2番目であった[4]。 第五十二国立銀行の設立 松山においても銀行設立の動きがあり、旧松山藩士族加藤彰と伊藤奚疑知両名は、銀行設立を奔走した。愛媛県権令岩村高俊は「士族は理屈はいっても資力乏しく商売も下手ならん。商人は熟練はあれども規則の事などは不得手なり。依ってこれを合併せば宜しからん」として、商人との協調による銀行設立を促したが、士族間の反対が強く、結局、士族のみの出資で1878年9月25日に開業した。初代頭取は小林信近であった。1880年時点で貸付先の64%を士族が占めており、士族授産銀行の性質が強かった[5]。 私立銀行の乱立と銀行合同 日本国内では国立銀行設立の動きが止まると、私立銀行設立が相次いだ。愛媛県内においては1891年に8行あった普通銀行は、1900年には46行まで激増した。こうした私立銀行は体制が十分ではなく国立銀行を母体とする銀行より財務基盤が弱く、次第に規制が強化されていった[6]。 しかし、1901年の金融恐慌や関東大震災の震災手形による不良債権の累積は愛媛県経済にも打撃を与え、その後の銀行数は次第に減少し、再編に進んでいくこととなる。大蔵省により地方の銀行合同が示達されると、愛媛県内の銀行も再編に向かった。1920年3月には、五十二銀行が八幡濱銀行を吸収合併し、南予地方への進出を果たした[7]。 1928年1月に銀行法が施行され、最低資本金制度が導入された。この結果、大量の無資格銀行が発生することとなり、32 行のうち16行の無資格銀行が生じて、銀行合同が図られた。第二十九銀行は1933年3月に宇和島銀行を吸収し、その後、大洲銀行や八幡濱商業銀行と合同して、豫州銀行を発足させた。1931年12月に大野銀行を買収した五十二銀行は、1937年12月に仲田銀行と合併し、松山五十二銀行となり、さらに、1932年に三津濱銀行を買収した[8]。 伊豫合同銀行の設立 日中戦争(支那事変)の勃発により戦時経済の色彩が一層色濃くなると、政府は一県一行主義と呼ばれる銀行合同をさらに積極的に推進した。愛媛県内においては、豫州銀行が南予地方、松山五十二銀行が中予地方、そして1900年以来、東予地方の中心銀行であった今治商業銀行が東予と、それぞれの地域を基盤とした三行に糾合された[9]。 3行に集約された後も、一県一行体制への移行が模索された。そして1941年9月1日に今治商業銀行、松山五十二銀行、豫州銀行の3行が合併し、伊豫合同銀行が設立された。本店は旧松山五十二銀行本店に設置された[10]。命名は、日本銀行総裁結城豊太郎によるものである[11]。

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ウィリアム・グリムストン (初代グリムストン子爵) – Wikipedia

初代グリムストン子爵ウィリアム・グリムストン(英語: William Grimston, 1st Viscount Grimston、出生名ウィリアム・ラッキン(William Luckyn)、1684年12月31日洗礼 – 1756年10月15日)は、グレートブリテン王国の政治家、アイルランド貴族。 第3代準男爵サー・ウィリアム・ラッキンとメアリー・シェリントン(Mary Sherington、メアリー・シェリントンの娘)の息子として生まれ[1]、1684年12月31日に洗礼を受けた[2]。1700年10月に遠戚にあたる第3代準男爵サー・サミュエル・グリムストン(英語版)が死去すると、ゴーハムベリー(英語版)など多くの領地を継承して、姓を「グリムストン」に改めた[1]。グリムストンの遺産を継承する条件が「グリムストン姓を名乗る」のほかにも「グリムストンの孫娘アンに毎年1,000ポンド(最大30年まで)を支払う」があったため、グリムストンは遺産継承を躊躇したが、兄ハーボトルの説得を受けて遺産継承に踏み切った[2]。 1710年イギリス総選挙でセント・オールバンズ選挙区(英語版)から出馬して当選、議会ではホイッグ党側で投票し、1711年12月には「スペインなくして講和なし」の動議に賛成票を投じた[2]。1713年イギリス総選挙ではマールバラ公爵夫人サラ・ジェニングスの支持もあって再選、1714年にリチャード・スティール(英語版)の庶民院追放に反対票を投じた[2]。1719年11月29日、アイルランド貴族であるグリムストン子爵とミーズ県におけるダンボイン男爵に叙され、1720年7月15日にアイルランド貴族院議員に就任した[1]。 その後、マールバラ公爵夫人との不和により1722年イギリス総選挙でウィリアム・クレイトンに敗れたが、2人は和解して、グリムストンは1727年イギリス総選挙で議員に返り咲いた[2]。しかし、グリムストンがサラの孫にあたるジョン・スペンサー閣下(英語版)への支持を拒否したため1734年イギリス総選挙で再び敗北、1741年イギリス総選挙では立候補しなかったがジェームズ・ウェスト(英語版)を支持、スペンサーのセント・オールバンズ選挙区における当選を妨害した[3]。サラは報復として、1743年にセント・オールバンズ選挙区で行われた補欠選挙においてハンス・スタンリー(英語版)を支持、グリムストンの息子ジェームズを落選させた[3]。サラは1746年に死去、ジェームズは1754年イギリス総選挙でようやく当選を果たした[3]。 1737年2月4日に兄ハーボトルが死去すると、準男爵位を継承した[2]。 1756年10月19日に死去、28日にセント・オールバンズの聖マイケル教会(英語版)に埋葬された[1]。息子ジェームズが爵位を継承した[1]。 1705年にThe Lawyer’s Fortune, or Love

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姫川橋 (新潟県道486号姫川港青海線) – Wikipedia

姫川橋(ひめかわばし)は、新潟県糸魚川市寺島 – 須沢の姫川に架かる新潟県道486号姫川港青海線の橋長402.3 m(メートル)のトラス橋・桁橋。 姫川橋の左端。一般國道八号線と記されている。 橋梁保護のため、車両総重量4トン、高さ3.5 mを超える車両の通行が禁止されている[1]。 [2][3][4][5] 江戸時代は左岸の須沢村と右岸の寺島村が渡し守を担った。急流であることから、船に綱を付けて川上に引き上げた後川下に下りながら渡る方式であった。その後両綱渡しになり、さらに繰り綱渡しに改良された[5]。 1878年(明治11年)に須沢組番組が土船の許可を受け、舟橋を架橋した[5][6]。 1896年(明治29年)に 中山禎松によって、橋長633 mの木造方杖橋が完成した[5][7]。 1925年(大正14年)に土橋となり[8]、1929年(昭和4年)に橋長432 m、幅員4.5 mの木造土橋となった[9]。 1932年(昭和7年)西側に鋼トラス橋延長210.8 mが完成した[2]。1934年(昭和9年)7月12日に、水害のため一部が流失した[2][10]。1954年(昭和29年)東側にコンクリート桁橋延長191.5 mが完成し、現在の姿となった[4][5]。 それまでは国道14号に指定されていたが、1952年(昭和27年)12月4日に現在の道路法によって、国道8号の橋梁となった。交通量の増大に伴い、1966年(昭和41年)に上流に姫川大橋が開通したのに伴い、国道8号の指定から外れた[5]。 注釈[編集] 出典[編集] ^ “姫川橋”. 新潟県通行規制情報. 新潟県土木部道路管理課. 2020年8月23日閲覧。

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町野繁仍 – Wikipedia

町野 繁仍(まちの しげより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。蒲生氏の家臣。 安井吉秀の次男として誕生。元々は近江国蒲生郡にある竹田神社の神職であった。養父の町野備前守秀長は『寛政重修諸家譜』は天正12年に77歳で没したことしか知られていないが、木下聡は室町幕府評定衆で永正-天文年間に活動した町野将監康定の子と推定している。木下によれば、この町野氏は三善氏系で、鎌倉府や問注所で活躍したが、京都の宗家は摂津氏との競争に敗れて戦国時代の早い時期に没落して蒲生氏を頼ったと推測してる(幕府文書では足利義輝が近江に滞在していた天文年間末期以降の町野氏の動向が不明となっている。『蒲生郡志』では町野氏を蒲生氏譜代の臣とするが、蒲生氏関連の文書での初出は元亀年間である)[2]。 蒲生氏郷の日野時代からの直臣で、氏郷が織田氏への人質として岐阜城へ送られた時に従い、本能寺の変の直後には、氏郷と共に日野城に籠城した。 氏郷が松阪に移封された際には、山田奉行として伊勢神宮の支配に関与した[3]。天正15年(1587年)9月には日野の馬見岡綿向神社に銭二百疋を寄進した。天正18年(1590年)、氏郷が会津黒川城に移封された際には子・幸和と共に猪苗代城や二本松城の城代を務め、3万8000石を領した。葛西大崎一揆、九戸政実の乱の時は蒲生郷安と共に二番手の大将として戦った。郷安が仕置奉行を務めた時、玉井貞右と共に加判を任された。 蒲生秀行の代では真岡城で8000石を給され、仕置奉行となる[4]。秀行が会津若松に復領した際は白河小峰城の城代となり、2万8000石を与えられ、仕置奉行を再任する[4]。 蒲生忠郷の代に家督を嫡男・幸和に譲り、次男・繁秀と共に故郷の竹田神社に帰った。 実際に慶長18年(1613年)を最後に会津藩蒲生氏の文書から繁仍の名前が消えて、翌慶長19年(1614年)に幸和が仕置奉行として文書に登場する[5]。また、繁仍の甥ともその息子とも言われている町野主水佑昌就が寛永年間の初めに江戸に派遣された玉井貞右の代理として仕置奉行を務め[6]、伊予松山転封後にはその弟とされる町野民部丞(実名不詳)も寛永蒲生騒動後に仕置奉行を務めている[7]。なお、繁仍の実家とされる安井氏には町野氏や蒲生氏に関する文書が多数残されている[8]。 ^ 『寛政重修諸家譜』では慶長18年(1613年)11月25日に71歳で死去としている。 ^ 木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」(初出:佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3/所収:木下聡『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-790-5) 2018年、P298-299・310.

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