アクロバット – Wikipedia
古代ギリシャの壷に描かれたアクロバティックス 鳥居清満画「軽業師だるま男」。江戸時代 アクロバット(acrobatics)とは、常人には行いがたい身軽な身体運動や熟練の身体運動のこと。またそれを行う人物。 舞台芸術およびスポーツ競技として行われるアクロバットということばは、ギリシャ語の akros(高い)と bat(歩行)からきている。日本語では軽業や曲芸とも言い、これを行う人物を軽業師、曲芸師と言う。 バランス、機敏さ、コーディネートの高度な技を要する全身運動(特に短時間に爆発的な動作を伴うもの)を用いた舞台芸術やスポーツはいずれもアクロバットとみなすことができ、ダンス、および飛込などの各種スポーツ、時には宗教行為にも含まれる。また、ここから転じて秒刻みで多数の用件をこなすスケジュールといったものをアクロバット的(またはアクロバティックな)と表現することがある。 西洋におけるアクロバットの歴史[編集] アクロバットの伝統は多くの文化に存在する。西洋では、紀元前2000年頃のミノア文明の遺跡では、雄牛の背に乗って行われているアクロバットの描写が見られ、何かの儀式であった可能性が指摘されている[1]。 中世ヨーロッパの宮廷では歌、ジャグリングその他を伴ったアクロバットの実演がしばしば行われていた。 初め、この言葉は綱渡りに対して用いられていたが、19世紀には、体操やサーカスなどの芸に対しても用いられるようになった。19世紀後半には、宙返りを含むアクロバティックな体操がヨーロッパで競技になった。 東洋におけるアクロバットの歴史[編集] 中国では、アクロバット(百劇)は2500年以上前の前漢以来の文化の一部である。当時、アクロバットは村の収穫祭の一部として行われた[2] 。 唐時代には、ヨーロッパ中世の宮廷における7世紀から10世紀の発展とよく似て、宮廷を中心に散楽というアクロバットが発展した[3]。 日本においては、大道芸が盛んだった江戸時代に多くの軽業師が活躍した。大阪出身の早竹虎吉は特に人気があり、錦絵に描かれ、1860年代にいち早く海外公演も行なっている。それに続いて万国博覧会で日本の風物が紹介されのをきっかけに、日本の軽業公演の要請が増え、幕末から明治時代にかけて、数多くの軽業師が渡欧し、好評を得た。 日本の軽業は横浜在留の外国人を驚かし、その中の一人であるアメリカ人商人のバンクスは、慶応2(1866)年、足芸の浜碇定吉一座、手品の隅田川浪五郎一座らをアメリカ人のサーカス曲芸師リズリー(1864年に来日し、西洋式曲芸を日本で初めて披露した)の帰国に合わせて渡米させ、リズリーをマネージャーに「帝国日本一座(Imperial Japanese Troupe)」として巡業させた[4][5][6]。一行は各地で絶賛され、ジョンソン大統領にまで謁見し、1867年のパリ万博にも出演、ロンドンをはじめヨーロッパ各地を回り、ジャパニーズ・アクロバット・ブームを引き起こした[5][7]。定吉は明治17(1884)年に帰国した[4]。 競技アクロバット[編集]
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