聖澤 諒(ひじりさわ りょう、1985年11月3日 – )は、長野県更埴市(現・千曲市)出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者。右投左打。 プロ入り前[編集] 小学校2年から「森スポーツ少年団」で野球を始める。小学時代は剣道クラブにも所属し、4年時に地区大会で優勝した。中学校では軟式野球部に所属し、「4番・投手」を務める。地元の公立校である松代高校に進学。1年春からベンチ入りし、3年時には「4番・遊撃手」として活躍する。最高成績は2年夏の長野大会3回戦。同期入部で最後まで野球部に所属していたのは自身を含めて二人だけというチーム事情の中プレーした。 國學院大學に進学し硬式野球部に入部。2年春からレギュラーに定着する。3年春に東都二部リーグで優勝し、一部昇格を果たした。同年秋のリーグ戦終了後、後に楽天でもチームメイトとなる嶋基宏の後を継ぎ主将となる。4年次には東都大学野球リーグ選抜が日本代表として出場した国際大会ロッテルダム・ワールドポート・トーナメントに出場。個人タイトルでは、3年秋に三塁手、4年秋に外野手でベストナインを受賞した。大学4年秋にチームは最下位に終わり、東都一部リーグ残留を賭けて篠田純平を擁する日本大学と入れ替え戦を戦ったが敗れ、二部降格した。1部通算41試合154打数52安打1本塁打24打点16盗塁、打率.338、2部通算47試合148打数51安打27打点3本塁打、打率.345。 2007年のNPB大学生・社会人ドラフト会議で、東北楽天ゴールデンイーグルスから4巡目で指名。契約金5,000万円、年俸1,000万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は23。なお、この会議でどの球団からも指名されなかった場合には、ホンダ鈴鹿への入社を予定していた。 プロ入り後[編集] 2008年は、キャンプから積極的に起用され、チーム内の前年のドラフト入団組では唯一の開幕一軍となった。3月20日の開幕戦では守備固めで起用されてセンターの守備に就き、一軍試合初出場となった。また、フレッシュオールスターゲームにも「1番・中堅手」でフル出場し、5打数3安打3盗塁と活躍。優秀選手賞を獲得した。 2009年は、開幕は二軍スタートとなったが、二軍では不動の1番打者を務めた。4月21日に不振の礒部公一に代わって一軍登録されるも結果を残せず二軍落ちするが、今度は怪我の鉄平に代わって一軍登録され、その日の試合でプロ入り初の猛打賞を記録する。鉄平の復帰後は主に代走として出場し、オールスター前で前年の5を上回る12盗塁(盗塁死なし)を記録する。結局代走や守備固めが主の出場ながらチーム2位の15盗塁、盗塁成功率は.882と盗塁技術の高さを見せたが、ここ一番での走塁や守備のミスをすることもあった。 オフの12月に、大学時代の同級生と結婚した[1]。 2010年は、「1番・中堅手」での開幕スタメンを勝ち取る。5月1日のオリックス戦で木佐貫洋から決勝のタイムリー二塁内野安打を放つなど、シーズン序盤は高打率を残したが徐々に下降。しかし中盤には踏み止まり、自身初の規定打席に到達。打率.290とチームトップの24盗塁を記録。外野手では唯一、開幕からシーズン終了まで一度も一軍登録を抹消されなかった。なお、9月22日の対日本ハム戦から外野手での連続守備機会無失策が始まっている。 2011年は、前年に続けて開幕からセンターのレギュラーとして起用され、前半戦は盗塁を量産した。一時は盗塁王を狙える位置にいたが、後半になると相手の警戒が増したことによって盗塁数が激減[2]。それでも前年を大きく上回る52盗塁を記録し、シーズン前の目標の50盗塁を達成したが、本多雄一が60盗塁を記録したため、盗塁王獲得とはならなかった。打率もチームトップ・リーグ9位となる.288の成績を残し、球団創設以来初となる全試合出場も果たした(全イニング出場ではない)。また、7月17日のオリックス戦では9回裏に自身初となるサヨナラ安打(一塁内野安打)を岸田護から放った。シーズン後半は松井稼頭央に1番打者の座を譲り、9番に固定された。 2012年は、開幕から盗塁を量産。前年盗塁王を争った本多が打撃不調などにより盗塁が伸び悩んだため他を大きく引き離して独走。打撃も前半は3割を超える高打率ということも相まって順調に盗塁数を伸ばして、オールスターゲームにも初出場したが、前年同様に夏場にかけて調子を崩してリードオフマンを松井に譲る形となった。以降盗塁数も伸び悩んだが、前年打ち立てた球団記録並びに自身の記録を越える54盗塁を記録。盗塁数2位のエステバン・ヘルマンの41盗塁を大きく引き離し、球団、そして自身初となる盗塁王に輝いた。54個の盗塁の内、三盗が12個あり、二桁の三盗は1997年の松井稼頭央以来だった[3]。一方で打率は.270(リーグ16位)と前年から一転して数字を下げた。得点圏打率はリーグトップの.373を記録し、ビハインド時に限ると得点圏打率.536という非常に高い数字を誇った。守備面では2年連続となる守備率10割を記録。この年両リーグ通じて、規定打席に達した野手で無失策だったのは聖澤のみであった。シーズンオフの12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され[4]候補入りした[5]。 2013年は、開幕前に第3回WBC日本代表最終メンバーの28人から落選した。シーズンでは前年と同じく1番打者としてスタートするが、4月の中旬からは3番での出場が多くなり、長打力のあるアンドリュー・ジョーンズ、ケイシー・マギーが後ろを打つことになったため、盗塁は減少する[6]。5月23日の対読売ジャイアンツ戦で、2000年に小関竜也が記録した外野手としての守備機会連続無失策658回のパ・リーグ記録に並び[7]、5月25日の対広島東洋カープ戦で岩本貴裕の中飛を処理し、パ・リーグ単独1位となる守備機会連続無失策659回とした[8]。 2014年は、4月2日の対オリックス戦(コボスタ宮城)で9回表に坂口智隆の中飛を捕球し、藤井栄治[注 1]と並ぶ外野手のNPBタイ記録の820連続守備機会無失策とし[9]、4月3日の同戦の5回表にエステバン・ヘルマンの中飛を捕球し同記録を821として、NPB新記録とした[10]。4月20日、体調不良を理由に一軍選手登録を抹消された[11]、5月20日に再昇格している[12]。 2015年は、3月29日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で3回に中島卓也の打球を返球する際に悪送球し、連続守備機会無失策の記録が927でストップした[13]。開幕から打撃不振に陥り、5月12日に一軍抹消。6月13日に再び一軍に上がると、6月から7月にかけて打率3割以上を記録するも、8月には再び打撃不振。9月26日に受けた死球の影響で翌日に一軍登録を抹消された。シーズン終了後の11月4日、同シーズン中に獲得していた国内フリーエージェントを行使しないことを発表した[14]。
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