Month: November 2020

ニコ・ゴンサレス – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はゴンサレス、第二姓(母方の姓)はイグレシアスです。(Template:スペイン語圏の姓名) ニコ・ゴンサレス FCバルセロナでのニコ (2021年) 名前 本名 ニコラス・ゴンサレス・イグレシアスNicolás González Iglesias ラテン文字 Nico González 基本情報 国籍 スペイン 生年月日 (2002-01-03) 2002年1月3日(20歳) 出身地 ア・コルーニャ

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山下輝 – Wikipedia

山下 輝 東京ヤクルトスワローズ #15 基本情報 国籍 日本 出身地 千葉県木更津市 生年月日 (1999-09-12) 1999年9月12日(22歳) 身長体重 188 cm100 kg 選手情報 投球・打席 左投左打 ポジション 投手

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玫瑰聖母聖殿司教座堂 – Wikipedia

玫瑰聖母聖殿司教座堂 各種表記 繁体字: 玫瑰聖母聖殿主教座堂 簡体字: 玫瑰圣母圣殿主教座堂 拼音: Méiguī shèngmǔ shèngdiàn zhǔjiàozuòtáng 発音: メイクェイ ションムー ションティエン チューチャオツオタン テンプレートを表示 玫瑰聖母聖殿司教座堂(まいかいせいぼせいでんしきょうざどう、中国語: 玫瑰聖母聖殿主教座堂、英語: Holy

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東京都北区赤羽 – Wikipedia

この項目では、漫画作品について説明しています。地名としての赤羽については「赤羽」をご覧ください。 『東京都北区赤羽』(とうきょうときたくあかばね)は、清野とおるによる日本のエッセイ漫画作品。携帯サイト『ケータイ★まんが王国』(Bbmfマガジン)連載。『漫画アクション』(双葉社)にて、続編『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』を2013年9号から2017年12号まで連載した後、2018年21号から連載再開して2019年2号にて完結。これについても本項で扱う。 漫画家の清野とおるが、スランプに陥り連載を失い板橋区の実家にいるのがいたたまれなくなったのを機に急遽引越し、1人暮らしをしている赤羽の珍名所を紹介する実録エッセイ漫画[1]。累計発行部数20万部を発行。地元赤羽の本屋では『ONE PIECE』より売れているという[2]。単行本には「この物語はノンフィクションであり、実在の人物・団体・事件などとかなり関係あります。訴えられたら負ける可能性大なので、なるべく訴えないでください」と記されており[3]、作中の事柄はすべて実話とされている。 2012年、『ケータイまんが王国』を運営するBbmfマガジンの出版事業撤退により、『東京都北区赤羽』の連載が終了。2013年4月から双葉社の漫画アクションにて続編となる『ウヒョッ!東京都北区赤羽』を連載。2016年5月よりNHN comico運営の『comico PLUS』にて連載を開始した。清野本人によると、度重なる取材に伴う酒の飲みすぎで体調を崩してしまい、近いうちに連載を終了することを明らかにしている[4]。Bbmfマガジン版『東京都北区赤羽』全8巻は絶版・入手困難につき、双葉社アクションコミックス『増補改訂版 東京都北区赤羽』全4巻として復刊された。 2015年1月期に本作をモチーフとしたドキュメンタリードラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』として映像化された。 登場人物[編集] 清野とおる この漫画の作者で主人公。板橋区出身のギャグ漫画家。賛否分かれるアクの強い作風ゆえに仕事がうまくいかず、2003年冬に「連載を失って実家にいるのが、いたたまれなくなった」という理由から実家のある東京都板橋区から隣町の東京都北区赤羽に引越し、一人暮らしを始める。東京の人以外あまり馴染みのない、そして東京の人でも誰もが知ってるというほどの知名度でもない「赤羽」という土地にスポットを当て、そこで出会った人たちや体験した出来事をエッセイ漫画『東京都北区赤羽』で発信している。 「ちから」のマスター 居酒屋「ちから」のマスター。本名・鈴木信仁。昭和36年東京生まれ。元AV男優であり6度の離婚歴を持つ。子供が6人、孫が2人いるが親権を全て前妻達に持って行かれている。2002年にフィリピン人女性と居酒屋「ちから」をオープンしたが常にやる気がない。不倫相手だった悦子ママと2007年7月7日に7回目の結婚をした。2007年末に酒の飲み過ぎで肝硬変になってしまい吐血して生死の境を彷徨う。直後の2008年2月17日に「ちから」は惜しくも閉店。退院後、上十条のアパートで悦子ママと隠居生活を送っている。 悦子ママ 「ちから」のマスターの仲良しママ。本名・鈴木悦子。昭和30年埼玉県生まれ。2003年秋に「ちから」のマスターと出会い意気投合、2007年7月にマスターと結婚した。 ペイティさん 清野が赤羽駅前で遭遇したアーティストの女性ホームレス。赤羽近辺で活動する異形のアウトサイダー・アーティストとして知られる。自作の歌を吹き込んだカセットテープや謎の芸術作品などを売り歩いて生計を立てている模様。股間には「女性器をモチーフにしたオブジェ」をぶら下げている。異様なオーラを放っており赤羽付近では結構有名らしい。どこからともなく出没して芸術活動や自作ソングを披露したりするが、歌詞も曲調も奇っ怪極まりないものに仕上がっており、まるで音楽の体を成してはいないが、一度聴いたら頭から離れないほどの中毒性を持ち、清野はその芸術性や発する言葉に感銘を受ける。他にも謎の絵画作品、怪文書、カセットテープ(1本100円)、女性用靴下、セロテープ、皮膚とおぼしき物などを清野にプレゼントしている。創作活動を続ける理由について「作品は命から湧いてくるもので創らないと気が狂いそうだから創る」と述べており、頭の中にも「創作様」という神様が存在しており「創作しなさい」と命令してくるからだという。それら異様な雰囲気に反して清野らと話す時は常に敬語で言葉づかいは美しい。また、英語がペラペラで、自作のメモなどにも英語が使われることもある。清野曰く「孤高の天才ホームレス」。しかし、現在は消息を絶っている模様。 ジョージさん

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羊舌肸 – Wikipedia

羊舌 肸(ようぜつ きつ、生没年不詳)は、中国春秋時代の晋の公族・政治家。姓は姫、氏は羊舌、諱は肸、字は叔向。羊舌職の子。同母兄に羊舌赤(伯華)、同母弟に羊舌鮒(叔魚)、異母弟に羊舌虎(叔虎)。平公の傅をつとめ、該博をもって知られた賢人。 ある時悼公が太子彪(のちの平公)の元服が済んだあと、台上にのぼって国都の絳城内・城下を見下ろし「ああ、楽しいものだな」と言った。側に控えていた汝斉は「下の眺めがどれほどよろしくとも、徳義を行う楽しみにはおよびません」と言った。悼公は「何を徳義というのか」と問うた。汝斉は「諸侯の行為をみて、善事を行い、悪事を戒める。これを徳義と言います」と答えた。悼公は再び問うた。「では、その徳義を実行できるものは、誰か」。汝斉は躊躇わずに「羊舌肸が、諸国の歴史を熟知しております」と薦めた。悼公は叔向を太子の傅に任命した。 若くして死んだ名君悼公の後を継いだ平公は、悲しい歌を好み、女色にふけるなど、決して君主としてすぐれてはいなかったが、叔向の指導のもとに心胆を練りなおし、晋の覇権を維持して大過なくこの世を去った。それゆえ官人の半数が叔向の徳を慕い寄ったという。 羊舌氏は晋の権門である六卿の家柄ではなかったので、国家のため派閥を越えた判断を必要とされるたびに、晋の君主や正卿は叔向に下問した。 楚の令尹の子木は「晋が覇権を握っているのも当然です。叔向が卿を補佐しているからです。楚にはかれに相当する者がおらず、敵いません」と言った。 あるとき正卿の韓起が貧乏である事を嘆くと叔向はこれを祝った。韓起が理由を尋ねると、叔向は「欒氏や郤氏は裕福であり高慢であった為に人の恨みを買って滅びました。今あなたは貧乏であるので徳義を行うことができます。それ故祝ったのです」と言った。韓起は額づいて「滅びる所をあなたのお陰で長らえることが出来ました。先祖桓叔以下、感謝いたします」と言った。 紀元前540年[要出典]、斉の晏嬰が使者として晋にやって来た時、叔向がその応対にあたった。 晏嬰が「斉の政権は田氏に帰するでしょう」と言うと、叔向も「晋も末世です。晋公は政治を省みず、政治は卿によって行われています」と言った。 紀元前536年、鄭の子産が形鼎(成文法)をつくったことを聞いた叔向は「鄭は必ず滅びるだろう。政治は人をみて行うものだが、法律があれば人は人ではなく法をみるようになる。どうして国を保てよう」と予言した。 紀元前528年、雍子と邢侯(巫臣の子で、叔向の妻の兄)が領地の境界争いをしたのを、叔向の同母弟の叔魚が裁定する際、雍子が娘を嫁がせたのを受けて、叔魚は雍子に有利な裁定を下した。その為、これに怒った邢侯が叔魚と雍子を殺害する事件が起きた。 正卿の韓起も苦慮したこの事件を、叔向は三人とも同罪として、叔魚と雍子は遺体晒し、邢侯は死刑に処した。 叔向は卿ではなかったが、平公の側近として、卿の相談役として、晋の政治に絶大な影響を与えた。 羊舌肸を題材にした小説[編集]

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ボーティック・ファン・デ・ザンスフルプ – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 ボーティク・ファン・デ・ザンスフルプ ボティック・ファン・デ・ザンツフープ ボーティック・ファン・デ・ザンツフルプ Botic van de Zandschulp 2021年全仏オープンでのボーティック・ファン・デ・ザンツフルプ 基本情報 国籍 オランダ 出身地 同・ヘルダーラント州ヴァーヘニンゲン 生年月日 (1995-10-04) 1995年10月4日(26歳) 身長 191cm 体重

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エムベイェ・ニアン – Wikipedia

エムベイェ・ババカル・ニアン(M’Baye Babacar Niang, 1994年12月19日 – )は、フランス・イヴリーヌ県出身のサッカー選手。FCジロンダン・ボルドー所属。セネガル代表。ポジションはFW。 2007年からSMカーンのユースチームに所属し、2011年4月24日、トゥールーズFC戦において16歳でプロデビューを果たした。1週間後のOGCニース戦で初めてスターティングメンバーに名を連ね、5月8日、RCランス戦でプロ初ゴールを記録した。3日後のスタッド・レンヌ戦でもゴールを記録した。最終的に2010-11シーズンはリーグ7試合に出場し、3得点を挙げた。 2012年8月27日、イタリアのACミランに3年契約で移籍した。 2014年1月3日、モンペリエHSCへのレンタル移籍が決定[1]。 2015年1月21日、ジェノアCFCにレンタル移籍した[2]。 2015-16シーズンはミランに復帰し、2016年3月1日時点で公式戦20試合に出場し8ゴール5アシストを記録し活躍していたが、2月27日に交通事故を起こし、左の足首と肩を負傷した[3][4]。 2016-17シーズンは、序盤はチームの得点に多く関わり、攻撃を牽引していたが、徐々に調子を落とすと、PKを連続で失敗するなどし、放出候補とされ、2017年1月26日、ワトフォードFCに買取オプション付きのレンタルで移籍した[5][6]。 2017年の夏の移籍市場で大型補強を行ったミランはニアンをスパルタク・モスクワに放出することをクラブ間で合意したものの、ニアンはこれを拒否し、クラブに対して医療診断書を提出し練習を欠席するなどしていたが、2017年8月31日、ミラン時代の恩師シニシャ・ミハイロヴィッチが監督を務めるトリノFCに買い取り義務付きのレンタル移籍で加入した[7][8][9]。 2018年8月31日、自身を評価するミハイロヴィッチが昨シーズン中に解任されたこともあり、スタッド・レンヌに買取オプション付きのレンタル移籍をした[10]。 2021年2月7日、アル・アハリ・ジッダにシーズン終了までのレンタルで移籍した[11]。 2021年9月24日、スタッド・レンヌを退団し、FCジロンダン・ボルドーに2年契約で加入した[12]。 フランス代表として各年代でプレーしている。2012年11月、U-21代表の招集中にヤン・エムヴィラ、ウィサム・ベン・イェデル、アントワーヌ・グリーズマンらと共に夜遊びをし、2013年12月31日まで世代別代表を含む代表戦への出場停止処分を受けた[13]。 2013年8月14日に行われるザンビア代表との親善試合で両親の故郷であるセネガル代表に初招集されたが[14]、辞退した[15]。その後、最終的にセネガル代表の招集に応じ、2017年10月7日の2018 FIFAワールドカップ・アフリカ予選・カーボベルデ戦でセネガル代表デビューを果たした[16]。2018年5月、2018 FIFAワールドカップのセネガル代表メンバーに選出された[17]。グループステージ初戦のポーランド戦でチーム2点目となる代表初ゴールをマーク[18]。

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上海マスターズ – Wikipedia

この項目では、ATPツアー・マスターズ1000の大会について説明しています。スヌーカー大会については「上海マスターズ (スヌーカー)」をご覧ください。 ロレックス上海マスターズ(英語:Rolex Shanghai Masters)は、中華人民共和国・上海で行われるATPツアー・マスターズ1000の大会である。会場は旗忠テニスセンター[1]。 大会開催までの経緯[編集] 2002年と2005年から4年契約で開催されていたテニス・マスターズ・カップや2008年に開催されたオリンピックの成功で、ATPツアーにとっては中国で3番目のツアートーナメントの開催を打診し、アジア初のATPマスターズ1000(旧ATPマスターズシリーズ)が開催を実現することとなった。 第1回大会は2009年10月12日から19日まで開催された。 大会歴代優勝者[編集] シングルス[編集] 年 優勝者 準優勝者 決勝結果 2009 ニコライ・ダビデンコ ラファエル・ナダル 7–6(3), 6–3 2010

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十字の描き方 – Wikipedia

十字の描き方(じゅうじのかきかた)では、キリスト教の諸教派において行われる、手を使って自分の体前に十字を描く動作とその意義を扱う。「十字を切る(切り方)」とも。描き方には教派によって違いがあるが、イエス・キリストが刑死した十字架を表す信仰表明である点は、教派を越えて共通している[1][2][3]。 十字の描き方については古代にも地域によって様々な形態があったことが判っているが、なぜこのような相違が生じたのかはよく判っておらず、現代では東方教会・西方教会間で十字の描き方が左右逆になっているが、なぜこのように東西教会の間で描き方が左右逆に継承されたのか、その原因も不明である。 正教会・カトリック教会においては十字を描く(切る)ことは欠かせないが[4]、聖公会では「欠かせない」とまでは言われず「十字を切るか切らないかは自由」とされる[3]。またプロテスタント諸派には十字を切る習慣を有さないものも多いが、教会によっては十字を切ることを勧める場合がある(特にルター派では十字を切る傾向が強い)[5]。 正教会で十字を画く際の指の形 正教会においては、「十字を画く(かく)」「十字を描く」といった表現が用いられ、「十字を切る」という表現は皆無では無いもののあまり用いられない。十字を画くことは信仰を表すため「表信」の一つであり、祈祷の一部、ないし身体によって表現された祈祷であるとされる。 カトリック教会と同様、古代以来十字を画くことは正教会でも行われてきた(東西教会の分裂自体が中世の事)。但し現代正教会世界に見られるような形に統一されたのは中世以降のことである。十字の画き方の統一を嫌って生じた分派には、正教会のロシア古儀式派などがある。 十字の画き方[編集] 十字を画くにあたっては、指の形が定められている。右手の親指と人差し指と中指の先を合わせ、薬指と小指を曲げる。合わせられた三本の指は至聖三者(三位一体)を表し、曲げられた二本の指はイイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の神性と人性の両性を表す。 このように右手の指の形を整えた上で、額・胸・右肩・左肩の順に指を動かして十字を画く(カトリック教会と左右逆)。この際、脇を出来るだけ締めるようにして画く。多くの場合、画き終えた後にお辞儀をする。 十字を画く時[編集] 画く時については、私祈祷・公祈祷の別なく行われる。公祈祷(奉神礼)においては、定められた場面(祈祷の終結に際して、また聖堂へ入るとき、入ったとき、退出するとき、十字架・福音書・イコン・不朽体などに崇敬を表し接吻するとき、福音書ほか聖書が読み上げられるとき、「父と子と聖神」あるいはハリストスと神の名を呼ぶ際、聖人・生神女に祈祷しその名を呼ぶ際、祈りにおいて特に名を上げて人の名を呼ぶ際、など)において行うことが求められる。それ以外の場面で画くことは基本的に禁じられてはいないが、特に十字を画かずに単にお辞儀をするよう求められる場面もある。 聖堂に出入りする際にも十字を画く。また、イコンや不朽体に接吻する際に、接吻前に2回、接吻後に1回、十字を画く。 十字を画く意味[編集] 父と子と聖神(聖霊のこと:日本正教会訳)の、至聖三者を記憶して十字を画くとされる。手を動かしつつ、額で「父と」、腹の上で「子と」、右肩で「聖神」、左肩で「の名による、アミン」と心の中で唱えつつ十字を画く。 そのほか、以下のような説明がなされることもある。 額に指の先があるとき:神の愛の記憶と、全ての考えが愛に向うことへの願い 胸に指の先が動かされるとき:神の愛で心が満たされるようにとの願い 右肩に指の先が動かされるとき:神の愛により、愛の行いが出来るようにとの願い 左肩に指の先が動かされるとき:愛の行いを、周囲の人に広げていけるようにとの願い また、十字を描くことはイイスス・ハリストスの十字架の苦難を思い起こし自らの十字架を背負うことを記憶するのみならず、それによって得られる永遠の生命、復活の生命を思い起こすことでもあるとされる。

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マルクス・プラウティウス・ヒュプサエウス – Wikipedia

マルクス・プラウティウス・ヒュプサエウス(ラテン語: Marcus Plautius Hypsaeus、生没年不詳)は、紀元前2世紀中期・後期の共和政ローマの政治家。紀元前125年に執政官(コンスル)を務めた。 ヒュプサエウスは、プレブス(平民)であるプラウティウス氏族の出身である。プラウティウス氏族は紀元前4世紀まではしばしば執政官を輩出していたが、紀元前318年のルキウス・プラウティウス・ウェンノ を最後に、200年近く歴史から消えていた。ヒュプサエウス家は氏族の中ではもっとも繁栄したと言えるが、それでもこの時期に執政官になったのは本記事のマルクスのみである。カピトリヌスのファスティの欠損のため、父および祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)は不明であり、氏族の他の人物(例えば紀元前135年のプラエトル(法務官)ルキウス・プラウティウス・ヒュプサエウス)との関係も不明である[1]。 ヒュプサエウスの経歴に関しては、ほとんど何も知られていない。執政官就任年とウィッリウス法の規定から逆算して、遅くとも紀元前128年に法務官に就任したはずである[2]。その後すぐに、ヒュプサエウスはある裁判で弁護人を務めた。判事は法務官マルクス・リキニウス・クラッスス・アゲラストゥスで、検事はグナエウス・オクタウィウスであった。キケロによれば、ヒュプサエウスは「法務官のマルクス・クラッススに大声で長広舌をふるって自分の依頼者が負けになるような要求をしていた」[3]。資料ではオクタウィウスを元執政官と記しているので、この裁判は紀元前127年か紀元前126年に行われたものである(オクタウィウスは紀元前128年の執政官)[4]。 ヒュプサエウスは紀元前126年末に実施された執政官選挙に立候補し、当選した。歴史家F. ミュンツァーは、この年の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥスとルキウス・アウレリウス・オレステスの強力な支援があったと考えている。当選したもう一人は、パトリキ(貴族)のマルクス・フルウィウス・フラックスで、グラックス兄弟の盟友で最初期のポプラレス(民衆派)の一人である[5]。一方でヒュプサエウスは元老院を重視するオプティマテス(門閥派)に属していた。このことは、ガイウス・センプロニウス・グラックス(グラックス弟)が、「プラウティウスの反論」という演説を行ったことからも裏付けられる。この原稿は今では失われてしまっているが、このプラウティウスとはヒュプサエウスのこととされている[4][6]。 元老院はフラックスの改革を阻止するために、サリエス(en、ガリア人国家)の略奪からマッシリア(現在のマルセイユ)を防衛するよう命令し、ローマから離れさせた。おそらくヒュプサエウスもローマを離れたと推定される。同年、イタリア半島内の都市フレッゲラが反乱を起こしたが、両執政官共に不在であったため、法務官が軍を率いて対処しなければならなかった。ヒュプサエウスは設立されてまもないアシア属州に派遣されたのではないかと考えられている。初代属州総督を務めたマニウス・アクィッリウスが紀元前126年にローマに帰還しているためである。その後のヒュプサエウスにかんする記録はない[4]。 キケロはその著作『弁論家について』で、ヒュプサエウスは真の弁論家ではないと評している[3]。 ヒュプサエウスには同名の息子がおり、海軍の司令官を務めている[7]。 ^ Plautius, 1951. ^ Broughton, 1951, p. 506.

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