Month: March 2021

ナヒエナエナ – Wikipedia

ナヒエナエナ(Nāhiʻenaʻena、1815年 – 1836年)は、ハワイ王国が設立されてから支配階級の一部がキリスト教に改宗するまでの期間の高位プリンセス。 ハワイ語でナヒエナエナという名前は「猛烈な激しい火」を意味する[2]。 ナヒエナエナは彼女の兄であるカメハメハ3世に恋しており[3]、首長たちは結婚を強く推奨したが、宣教師たちはそれは近親相姦であり宗教的罪であると主張し、結婚に反対した。王族の兄弟姉妹婚は、古代ハワイにおいて血統を純粋に保つ方法であると考えられていた。ナヒエナエナの母方の祖父母も半血兄弟姉妹だった。 当時の宣教師文化においては、ナヒエナエナを含む多くの人々はハワイの土着宗教とキリスト教の信仰の両方を実践していた。彼女はフラなどの伝統的文化を実践したが、宣教師と同じようにラム酒も飲んだ[4]。しかし、彼女は多くのキリスト教の慣行に対して反抗と嫌悪を示した[5]。彼女は教会に奉仕することを止め、宣教師の教えを公然と拒否した[5]。 ナヒエナエナは実兄のカメハメハ3世と数年間寝室を共にしていた[6]。彼女は兄との間に息子を出産し、カメハメハ3世は息子が後継者になると宣言した。しかし、息子は数時間後に死亡し、悲嘆に暮れたナヒエナエナはその3か月後に死去した[1]。 参考文献[編集] ^ a b 森出じゅん (2018年8月1日). “ナヒエナエナ王女”. ハワイ州観光局. 2020年8月10日閲覧。 ^ Pukui and Elbert

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烏原貯水池 – Wikipedia

烏原貯水池(からすはらちょすいち)は、神戸市兵庫区千鳥町3丁目にある1905年(明治38年)竣工の人工湖。新湊川水系の石井川及び天王谷川を水源とする。ダムの名称は立ヶ畑堰堤(たちがはたえんてい)。「水と森の回遊路」という周遊道が整備され、周辺は親水公園として神戸市民に親しまれている[1][2]。 1905年(明治38年)竣工のダム(立ヶ畑堰堤)によって作られた人工湖で、周りの自然と相まって静かな湖畔の様相を呈し、周囲2.7kmの水と森の回遊路と名付けられた道が整備される。休憩施設の東屋、トイレなどが設置され、市民の憩いの場として親しまれている。立ヶ畑堰堤は国の登録有形文化財に登録されている[2][1]。地元では「烏原貯水池」よりも、ただ単に「水源地」と呼ばれることが多い。 立ヶ畑堰堤[編集] 堤体は、平面半径181.81mの優美なアーチ状で、堤体の中心はすべて0.3m大の粗石及び栗石モルタル積み。堰堤中央上部に四連アーチの余水吐を設け、満水を超えるときは自動扉が開いて水を放出する。取水塔には古典的な装飾が施され、入り口には「養而不窮」の文字が刻まれている(第13代兵庫県知事の服部一三の筆による)[1]。 ダム概要及び構造[編集] アーチ型重力堰堤 粗石モルタル積 表面張石 堤高 33.33m 堤長 122.42m 湛水面積 115,396㎡(甲子園球場の約2.9個分) 集水面積 19.76㎢ 有効貯水容量 1,315,139m3(神戸市役所1号館の約6.9杯分) 谷口雅春生誕地[編集] 1893年(明治26年)11月22日、谷口雅春は現在は烏原貯水池に沈んだ兵庫県八部郡烏原村東所(現在の兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に生誕している。のちに谷口は以下のように述懐している[3][4]。

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中空軸平行カルダン駆動方式 – Wikipedia

中空軸平行カルダン駆動方式が使用されているMT55形直流電動機のカットモデル。A中空軸・Bねじり軸(駆動軸)・Cたわみ板継ぎ手 中空軸平行カルダン駆動方式(ちゅうくうじくへいこうカルダンくどうほうしき)とは、電気車の主電動機駆動方式のうち、カルダン駆動方式の一種。1941年にスイスの電機メーカー、ブラウン・ボベリが開発し、チューリッヒ市交通局の路面電車に採用された「ディスクドライブ」方式が原型とされる。 中空軸平行カルダン駆動方式を上から見たモデル図。Aモーター(台車枠に支持)、B中空軸(電機子軸)、Cたわみ板継ぎ手、Dねじり軸、E小歯車、F大歯車、 主電動機は輪軸に平行配置して台車枠に支持されており、主電動機の電機子軸を太めの中空軸とし、その両端にたわみ板継ぎ手を装備して、中空軸の中に一本の駆動軸(ねじり軸と呼ばれる)を通す構造となっており、動力の伝達は、中空軸→主電動機出力軸の反対側のたわみ板継ぎ手→中空軸の中の駆動軸→主電動機出力軸側のたわみ板継ぎ手→小歯車と伝達される。 出力軸を小歯車の反対側から出すことでねじり軸の実効長が確保でき、ねじり軸の移動角度を小さく抑えたまま、継ぎ手全体としては十分な変位量を確保できるため、車両の上下動が大きくなる高速走行時でもスムーズに大きな力を伝達できる。主電動機と歯車装置は、共に台車枠に支持され[1]、その重量が台車の軸ばねを介して輪軸に掛かるため、ばね下重量が小さくなり、レールや台車への衝撃が少なくなる。 中空軸を通すためモータの直径は大きくなるものの、WN駆動方式に比して軸方向の寸法を短くできることから、開発当時は、特に狭軌鉄道に出力の大きなモーターを搭載する場合に適していた。 日本での導入例[編集] 中空軸平行カルダン駆動方式の150kW直流直巻電動機。出力軸にたわみ板継ぎ手が固定された状態 中空軸平行カルダン駆動装置付きの車軸 東洋電機製造が、日本初の可撓継手による平行駆動装置2種類(ブラウンボベリのディスク方式にヒントを得た、たわみ板による中空軸カルダンとWN継手に類似の中実軸歯形継手)を1952年11月に京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)京都線751で現車試験をした。この試験の結果を受け、最初の実用中空軸平行カルダン駆動装置を1953年6月に完成した京阪電気鉄道1800型1801用として1セット納入した。駆動機構はモーター側ゴムと歯形継手、ピニオン側にたわみ板継手を使用した。1954年には世界初の1,067mm狭軌用としてたわみ板継手式中空軸カルダン駆動装置を名古屋鉄道と南海電気鉄道に納入し、同年路面電車用として西日本鉄道福岡市内線に投入した1000形に採用された。 1957年には日本国有鉄道(国鉄)モハ90系の駆動装置として採用された。三菱電機がアメリカ企業のウェスティングハウス・エレクトリックのライセンシーとして製造したWN駆動方式に比べ、軸方向の寸法を最小で済ませることができてスペース効率に優れることと、ギアボックスと電動機の電機子軸の相対位置の変動幅を大きく取れ、劣悪な軌道条件での追従性に優れることから、狭軌の鉄道事業者を中心に普及した。 その後たわみ板継手を2個組み合わせた形状のTD(Twin Disc)継手と中実軸の主電動機を用いる「TD平行カルダン駆動方式」が開発された。一方でVVVFインバータ制御と誘導電動機の組み合わせが普及した。結果として主電動機の小型化が推進されたことから中空軸平行カルダン駆動の優位性は相対的に低下し、近時の新系列の電車で本方式を採用する例は殆ど見られなくなった。 採用した鉄道事業者[編集] 関連項目[編集]

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ロマン峠 – Wikipedia

ロマン峠(ろまんとうげ)は、かつてプロダクション人力舎で活動していた日本のお笑いコンビ。2021年9月4日解散。 メンバー[編集] 井上 正太(いのうえ しょうた、 (1981-07-08) 1981年7月8日(40歳) – )ツッコミ担当 東京都小平市出身。 血液型A型 。身長178cm、体重75㎏。 東京工科大学大学院中退。 趣味・特技は埼玉西武ライオンズ、草野球、ホームページ作成。 スクールJCA17期生。17期生として卒業後はフリーで活動し、『となりのコーポ』というコンビでツッコミを担当。マセキ芸能社主催のライブ「オリーブゴールド」などに出演していたが相方の引退に伴い解散し、その後JCAに18期生として入り直している[1]。 2021年1月出演の事務所ライブ「バカ爆走!」にて、一般女性と結婚した事を発表した[2]。 解散後は、ピン芸人『井上が来たぞ』として活動。 平岡 隼馬(ひらおか じゅんま、

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田原俊彦 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “田原俊彦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年4月) 田原 俊彦(たはら としひこ、1961年2月28日 – )は、日本の歌手(アイドル)、俳優、タレント。 神奈川県横須賀市出生、山梨県甲府市出身[1]。ジェイブレイブ所属。血液型B型。愛称はトシちゃん。妻は元モデルの向井田彩子。長女はタレントの田原可南子[2]。 所属事務所[編集] ジャニーズ時代の参加ユニット[編集] 山梨県立甲府工業高等学校(全日制・土木科)卒業。身長175cm、体重62kg[3]。姉が2人、妹が1人いる[1]。父は生前教師をしており、その時の教え子に伊藤聖史が居た。 歌手デビューまで[編集] 1967年3月、横須賀・大津マリア幼稚園を卒園後、同年4月に横須賀市立馬堀小学校に入学。しかし、入学後間もなく6月23日に父が糖尿病で亡くなり、一家の生活が立ち行かなくなったため、翌7月2日に母の故郷である山梨県甲府市桜井町に転居[1]。母の手ひとつで育てられながら、高校卒業までを甲府市で過ごした[注

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瀬ヶ崎 – Wikipedia

瀬ヶ崎(せがさき)は、埼玉県さいたま市浦和区の町名。現行行政地名は瀬ヶ崎一丁目から瀬ヶ崎五丁目。住居表示実施済み[4]。郵便番号は330-0044[2]。 さいたま市浦和区東部の大宮台地(浦和大宮支台)上に位置する。地区の東側を緑区道祖土や同原山、南側を駒場、西側を領家、北側を大東と接する。北浦和駅からはやや遠いが[5]、バス路線によって交通の便はよく、住宅地が広がっている。南には浦和駒場スタジアムがある。 地価[編集] 住宅地の地価は、2022年(令和4年)1月1日の公示地価によれば、瀬ヶ崎五丁目22-4の地点で17万9000円/m2となっている[5]。 もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡木崎領に属する瀬ヶ崎村で[6]、古くは同郡木崎領に属する江戸期の木崎村であった[7]。さらに古くは戦国期より見出せる足立郡のうちの郷村名の木崎郷であった。元禄年間頃に木崎村より瀬ヶ崎村が、駒場村、上木崎村、下木崎村とともに分村されたと見られる[7]。村高は「元禄郷帳」では202石、「天保郷帳」では203石。助郷は中山道浦和宿に出役していた。化政期の世帯数は30軒で、村の規模は東西3町余、南北4町余であった[7]。 世帯数と人口[編集] 2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 丁目 世帯数 人口 瀬ヶ崎一丁目 715世帯 1,695人 瀬ヶ崎二丁目 792世帯 1,866人 瀬ヶ崎三丁目 590世帯 1,363人 瀬ヶ崎四丁目

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ネムルト山 – Wikipedia

この項目では、世界遺産のネムルト山について説明しています。同名の火山については「ネムルト山 (火山)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ネムルト山” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年12月) ネムルト山(ネムルト・ダウ、ネムルトダーゥ、トルコ語: Nemrut Dağı)は、トルコ東部の標高2,134 mの山である。アドゥヤマン近郊のキャフタから40km 北に位置している。 ネムルト山は19世紀後半にオスマン帝国軍が偶然山頂付近を行軍した際に、山頂部が人工的な建造物であったことが発見され、1881年にドイツ出身の技師カール・ゼシュター(Karl Sester)によって本格的な発掘調査が行われた。 ネムルト山の山頂には、コンマゲネ王国の王アンティオコス1世が紀元前62年に建てた、王自身の座像を含む8 –

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天保の改革 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年4月) 天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1841年 – 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。 天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉、百姓一揆や都市への避難民流入による打ち壊しが起こっており、天保7年(1836年)には甲斐国における天保騒動や三河加茂一揆、翌天保8年には大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、阿片戦争やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。 天保8年(1837年)、将軍徳川家斉は西丸で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる。老中首座の水野忠邦[注釈 1]は天保9年には農村復興を目的とした人返令や奢侈禁止を諮問しているが、大奥や若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派(家斉の寵臣たち)による反対を受け、水戸藩主徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。 天保12年(1841年)に大御所家斉が薨去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、農本思想を基本とした天保の改革が開始される[1]。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。 遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[注釈 2]が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。 人事刷新[編集] 大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した。頽廃した家斉時代の幕府高官たち らを始め、多くが処分を受けた。その総計は御目見以上(旗本)で68人、御目見以下(御家人)894人であった。 そして、代わりに以下の人物を登用した。 綱紀粛正[編集] 倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の7代目市川團十郎、人情本作家・為永春水や柳亭種彦などが処罰された。 寄席に対する規制は同年2月に実施され、町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した。なお、新吉原の6ヶ所についてはすべて免除されている。また、免除された寄席も、演目を神道講釈や心学など娯楽以外のものに限るなど規制を受け、寄席は衰微するが、水野失脚後には息を吹き返している。 特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制(平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の編笠着用の強制)、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、1841年(天保12年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、北町奉行・遠山景元の進言によるものと言われている。歌舞伎劇場が市内に戻ってくるのは、1872年(明治5年)まで待たねばならなかった。合わせて陰間茶屋も禁止された。 軍制改革[編集] 阿片戦争で、清がイギリスに敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。一方で江川英龍、高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。

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勧進 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年3月) 勧進(かんじん)は、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。勧請ともいう。直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。 なお勧請も、もともと仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指したが、日本では神仏習合によって神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。勧請は神道神社で使われることが多く、分霊ともいう。 勧進とは[編集] 勧進とは、寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に説き、その費用を奉納させることをいう。そのことにより人びとを仏道に導き入れ、善行をなさしめるのが元来の意であったが、のちには寄付を集める方法として興行を催し、観覧料の収入をもってこれに当てるという意味としても広く用いられた。中世においては、橋や道路の修理・整備から官寺(鐘や仏像、写経をふくむ)の建設や修造など、本来は朝廷(国家)や国衙(地方行政機関)がおこなうべき公共事業も、勧進によってなされた。勧進をおこなう者は、勧進帳(後述)をたずさえて諸国を遍歴したり、橋のたもとや寺社の門前、関所などで「一紙半銭」[注 1]の寄付を募った。 勧進聖らの活動[編集] 初期の勧進は主として勧進聖(かんじんひじり)・勧進僧(かんじんそう)・勧進上人(かんじんしょうにん)と呼ばれる僧侶によって担われていた。彼らは各地を遍歴しながら説法を行い、人々から銭や米の寄付を受けた。彼らは必要経費のみをそこから受け取り、残りを事業達成のための寄付に充てた。こうした勧進聖としては、奈良時代の行基や平安時代の空也・行円などが著名である。また、尼の中にも勧進活動に加わるものもおり、これを勧進比丘尼(かんじんびくに)と呼ぶ。ただし、勧進比丘尼の中には神仏習合の影響を受けて尼の形態をした[注 2]巫女なども含まれており、また近世に入ると遊女的な行いをする者も存在したため、純粋な尼とは言えない者が多かった。それでも戦国時代の清順のように勧進活動によって寺院を再興した勧進比丘尼も少なからずおり、その活動も評価されるものであった。 勧進の普及[編集] こうした勧進があまねく庶民に受容され、広く社会に浸透していくのは、およそ12世紀以降のことである。鐘については、保延7年(1141年)に大和国(奈良県)の金峯山寺の鐘が勧進僧道寂の勧進によって作られており、国家管理の橋であった山城国(京都府)の宇治橋や近江国(滋賀県)勢多橋も、12世紀に入ると勧進によって管理・維持がなされるようになっている。また、近江関寺の再興は治承3年(1179年)の南無阿聖人[注 3]の勧進によるものである。 東大寺大勧進職[編集] 治承4年(1180年)の平氏政権による南都焼討によって東大寺は灰燼に帰した。後白河法皇は直ちに復興の意思を表し、勧進聖らに東大寺再建のための勧進活動への協力を求め、養和元年(1181年)、その責任者として重源を大勧進職(だいかんじんしょく)に任命した。 当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も、京都の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼している。途中、いくつもの課題もあった[注 4]ものの、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された[注 5]。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。 以後も東大寺の施設の再建や管理維持のための役職として大勧進職は継続され、栄西(2代目)・行勇(3代目)・円爾(10代目)・忍性(14代目)・円観(24代目)らが任命され、戦国時代に財政難によって一度は廃絶されるも江戸時代の再建時には公慶が大勧進職を復興して東大寺の再建を果たしている。 勧進職の普及とその変質[編集] 東大寺を再建させたこの制度は他の寺院にも用いられて、有力寺院の再建には勧進職(かんじんしょく)が任命されるのが恒例とされた。特に鎌倉時代に律宗(真言律宗含む)が再興されると、律宗が僧侶の私利私欲を戒めて、利益を得た場合にはその公平な配分を義務付けたこと、更に新しい律宗が従来の教学研究専念を脱却して、布教による職人階層との関係を強めたことで評価を得て、勧進職に律宗僧を任じる傾向が増加していった。

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東京都区部 – Wikipedia

「東京23区」はこの項目へ転送されています。町田市と多摩市の一部からなる衆議院の選挙区については「東京都第23区」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “東京都区部” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月) 東京都区部 東京都区部の各区の位置(クリックでリンク先に移動) / 表示  国 日本 団体コード 13100-8[1] 面積 627.53km2(2022年1月1日現在)[2] 総人口

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