Month: July 2021

亀谷さくら – Wikipedia

亀谷 さくらSakura Kametani ESBFブザンソン ポジション GK 所属リーグ ディヴィジオン・アン・フェミナン 基本情報 本名 サクラ・ハウゲSakura Hauge 国  ノルウェー 日本 出身地 ホルダラン県ベルゲン 生年月日 (1987-01-07) 1987年1月7日(35歳)

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清水仁衛門 – Wikipedia

清水 仁衛門(しみず にえもん)は、江戸時代前期 – 中期にかけての駿河代官の手代、後に牢人、その後常陸国水戸藩(水戸徳川家)に地方功者として雇われた。松波良利の水戸藩雇用に関わったともいわれている[注 1]。 清水の詳しい系譜は不明だが、「御家(水戸藩)に筋目有之者」とあるので、彼の父祖がかつて藩士だったのであろう。宝永6年(1709年)に60歳くらいだったとみて、推定では慶安2年(1649年)に生まれ、寛文3年(1663年)から古郡(ふるごおり)家に誰かの紹介で仕えることになった[注 3]。「清水仁衛門殿ト申ハ、元来上州ノ絹ウリ成ルガ、利口人にて大公儀之御代官手代ニ成リ、其レゟ牢人して江戸慶安仲間[注 4]ニ渡世して居候ヲ勘十郎殿ゟ召抱候」[注 5][注 6][注 7]とある。清水は古郡文右衛門に仕えて用水開削事業の技術、管理などの手法を学んだと思われる[注 8]。古郡は、元禄5年(1692年) – 元禄7年(1694年)に関東代官(武州、上州)であった。元禄8年(1695年)7月、8月には清水が能登に赴いていた。元禄14年(1701年)ごろまでは、清水が古郡の下で活動していたのではないかとみられる。 「中村雑記」の「駿河大クハン手代200石田地求隠居ノ処ニ水戸ヨリ10人扶持被下候処頭ヨリ断申サセ引込又200石ニテ被召出候也」とあるのは、宝永元年(1704年)10月の20両から宝永4年(1707年)2月の200石までのことをいうかとみられる[注 9]。 清水が水戸藩に雇われたのは、宝永元年10月18日に最初の史料で「御用御頼」として活動した褒美に金20両を来春与えるとあり、宝永2年(1705年)ないし4年である[注 10]。清水は「郷村等普請之義万端致指図」のために雇われたので、測量の術に達していた。清水を水戸藩に紹介したのは戸次寿仙だと「中村雑記」は記している[注 11]が、戸次寿仙のことはわかっていない。

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ムハマディヤ – Wikipedia

ムハマディヤ(Muhammadiyah)とは、インドネシアで興った「イスラーム本来に戻るべき」という近代イスラーム改革運動として1912年11月18日にジャワ島中部のジョクジャカルタ(ヨグヤカルタ)で発足した団体(ムハマディヤ協会)で、K.H.アフマド・タフラン(1868-1923年)が創立者である。その後、ジャワ島の他の地方都市やスマトラ島に広がり、全国区の団体へと成長した。ちなみにムハマディヤとは、預言者ムハンマドの「信者」あるいは「信奉者」を意味する[1]。 19世紀後半、エジプトにおいて、ムハンマド・アブドゥフ、ラシード・リダーといった指導者が登場した。彼らの思想というのは、イスラームの復興に焦点が当てられていたが、あくまでも改革主義であり、近代的な西欧の知識や学問を吸収しつつ、クルアーン、ハディースに基づくイスラーム理解を進めるというものであった。 インドネシアにおいても、彼らの思想の影響が大きく、1912年の発足以来、教育を1つの柱としている。加えて、病院、産院、診療所といった医療活動をもう1つの柱と据えることによって、発展を遂げてきた。また、ムハマディヤの主張はインドネシアのイスラムはクルアーンから逸脱しており、ムスリムの不幸はそこに起因する、従って原典に帰ってアッラーの教えを正しく学び、広め、実践することによって個人の幸福と安寧および社会の福祉、民族と国家の繁栄がもたらされる、というものである[1]。ムハマディヤは、イスラム教の根本は近代的解釈を施したコラーンとハディースであるという見解を持っていた[2] 。 近代主義的性格[編集] インドネシア最大のイスラーム団体であるナフダトゥル・ウラマー(NU)と対比されることが多いが、NUが伝統的でかつ基盤を農村に置くのに対して、ムハマディヤの基盤はどちらかといえば、都市である。また、運営に関しては、一貫した近代的合理性を貫き、メンバーシップは完全登録制、現在では、コンピュータにより会員はIDが登録されるので、正確な会員数は、瞬時に分かることが可能である。現在の会員数は、約60万人、シンパは、3000万人に達する。 政治的には、一貫して中立の立場を維持してきたが現在、もっとも結びつきが強い政党は国民信託党(PAN)である。かつてのムハマディヤ議長のアミン・ライス(Amien Rais) はスハルト政権崩壊時に同党を結成し、初代党首を務めていた。(一方のナフダトゥル・ウラマーは民族覚醒党(PKB)を創設している。) また、学校教育を思想の柱としていることから、インドネシア最大の私立学校ネットワークを保有している。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学まで含めた場合、その学校数は、1万以上であり、紫がかった濃紺の地に金色の文字で、ムハマディヤの学校と書かれた看板が見受けられる。 スハルト退陣後、混迷を極めたインドネシア政治において、アミン・ライスはアブドゥルラフマン・ワヒド(NU議長から第4代大統領に就任)と並んで活躍した。当時、国権の最高機関であった国民協議会(MPR)議長を務め、ハビビおろし、ワヒドおろしのそれぞれの重要な局面において、キング・メーカー的な役割を果たした。 ^ イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 181ページ ^ イ・ワヤン・バドリカ著 2008年 181ページ 関連項目[編集]

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栃木・群馬・埼玉の三県境 – Wikipedia

栃木・群馬・埼玉の三県境 平地の三県境 整備前の三県境。看板は栃木県側の地権者が立てたもの。(2011年11月) 地図 座標 北緯36度12分27秒、東経139度39分50秒[1] 標高 15メートル (49 ft)[2] 栃木・群馬・埼玉の三県境(とちぎ・ぐんま・さいたまのさんけんざかい[3]、-さんけんきょう[4][5])は栃木県・群馬県間、群馬県・埼玉県間、埼玉県・栃木県間の3本の県境が交わっている点であり、平地にある。 この三県境は渡良瀬遊水地の谷中湖の南西にあり、群馬県邑楽郡板倉町海老瀬、栃木県栃木市藤岡町下宮、埼玉県加須市小野袋がそれぞれ接している[6]。三県境は全国に40か所以上ある[7]ものの、基本的に山間部や川の中にあるため、平地にあるこの三県境は全国的にも珍しい[6][8][9][10]。 また、この三県境から東南東に約2.4キロメートル離れた渡良瀬川上に茨城・栃木・埼玉の三県境がある[11]。 この三県境の周囲の2市1町はここを平地の三県境と呼び[4]、「歩いて行ける!!平地の三県境」として事業名の一部にもしている[12]。県境マニアはこの三県境を俗に柳生の三県境と呼んでいる[13]。 当初は三県境は渡良瀬川の上だった。足尾鉱毒事件により渡良瀬川の流路が変更され、三県境のある場所は沼地になり、そして1970年代に約2メートル[8]埋め立てられて水田になり、最終的に三県境の正確な位置は分からなくなってしまった[14][9]。調査されるまでは、用水路のY字路の部分が三県境だとみなされていた[6]。 境界の確定[編集] 三県境に設置された直径8 cmの真鍮製の記念プレート。 2016年1月から、三県境に接する2市1町は各々の県や国土地理院から助言を受けながら協議・測量を行いはじめた[1][15]。Y字路を構成するU字溝を壊し[8]、泥を取り除いたところ、1980年の圃場整備終了時に群馬県が設置した県境確認用の杭が発見された[6]。2月9日には2市1町が合同して、地権者立会いの下で、三県境を確認した。確定した三県境には新たにコンクリート製の杭が打たれた[16]。 この調査は住民からの要望を受けて栃木市が発案した[8]。かかった費用は約130万円であり、三県境に接する2市1町が分担した[7]。同年3月までに県境確定作業を終了し、同月31日、加須市北川辺スポーツ遊学館において栃木市・板倉町・加須市の3首長が「行政区域境界確認書」への調印式を行い、その後約400メートル離れている三県境に移動、設置された真鍮製の記念プレートが披露された[10][15]。栃木市長の鈴木俊美は「3市町の絆のシンボルとして、仲良く連携して事業に取り組みたい」と述べた[10]。4月1日より発効。真鍮製の記念プレートはコンクリート製の杭の上に取り付けられ、「三県境界」の文字と加須市、栃木市、板倉町の各自治体名と、経緯度が刻まれている[10][1]。 観光資源として[編集]

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平野淳 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “平野淳” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年1月) 平野 淳(ひらの じゅん、1974年12月4日 – )は、東京都出身のサッカーコーチ。株式会社東振科学代表、株式会社ファンルーツ代表、FCトレーロス代表として、サッカーの普及活動を幅広く行う。 1974年東京都生まれ。大学卒業後にヨーロッパ留学。帰国後、FC東京育成部、横浜F・マリノスユースチームフィジカルコーチなどを務める。また、それまでの豊富な知識と経験を生かし、ファンルーツ式サッカー哲学と称した、オリジナルサッカープログラムを構築する。活動は日本国内に留まらず、ベトナム、カンボジア、米国などでも、子ども達のサッカー教室や指導者講習会を通し、キッズプログラムの普及に努める。サッカーを通した海外と日本の架け橋として活躍する、ジュニアサッカーのパイオニア的存在として広く知られる。 現在は、株式会社ファンルーツ代表取締役、FCトレーロス代表として日本国内だけでなく、世界各国でジュニアサッカーの普及活動に務めている。 指導者資格[編集] 1995年 イングランドサッカー協会公認インターナショナルコーチ (イングランド) 1999年 オランダサッカー協会公認インターナショナルコーチ (オランダ)

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チョコボール – Wikipedia

左からピーナッツ、キャラメル、いちごの断面 チョコボールは、森永製菓が発売しているチョコレート菓子である。ピーナッツやキャラメルなどを包含した球形のチョコレートで、複数種類が発売されている。製造工場は森永製菓小山工場。 目次 1 商品 1.1 種類 1.2 経緯 1.3 関連商品 2 おもちゃのカンヅメ 2.1 経緯 3 商標権 4 CM出演者 5

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本妙寺 (熊本市) – Wikipedia

本妙寺(ほんみょうじ)は、熊本市西区の熊本城北西にある日蓮宗六条門流の寺で大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられている。山号は発星山。本尊は十界曼荼羅。親師法縁。日蓮宗の熱心な信者であり肥後熊本藩の初代藩主・加藤清正を祀る浄池廟(じょうちびょう)があることで知られる。浄池廟の奥には長い石段があり、これを上ると清正の銅像がある。 境内入口の巨大な仁王門は鉄筋コンクリート造で、出雲大社の大鳥居などでも知られる小林徳一郎の寄進で1920年(大正9年)に建立された。国の登録有形文化財に登録されている。門をくぐると桜並木の長い参道が続き、両側に12の塔頭が並ぶ。 参道を進むと右手に本妙寺の大本堂(勅願道場)がある。そこから先には胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれる176段の急勾配の石段があり、その中央に信者から寄進された多数の石灯籠が並んでいる。これを登ったところに浄池廟があり、境内の宝物館には清正の遺品や加藤・細川家に関する文書・書画・工芸品・鎧兜等、国の重要文化財を含む約1400点が収蔵、展示されている。 かつては宿泊する参拝客も多かったというが、今は浄池廟の手前に1軒だけ古い旅籠が残る。さらに浄池廟の裏手から300段の石段を登ると、鑓を持ち長烏帽子形兜を被った清正像が立っている。ここからは熊本市内をよく見渡すことができる。 毎年清正の命日である7月24日の前夜、僧侶や信者が写経した法華経を奉納する頓写会(とんしゃえ)が行われ、10万人の参拝客で賑わう。清正の一周忌に本妙寺第三世日遥が法華経一部八巻を一夜で写経し、追善供養したことが起源とされる。 本堂から見る市街地の朝焼け 本堂側から参道方向を 1585年(天正13年)、加藤清正の父・清忠の冥福を祈るため、日真の開山により大阪に開創されたのに始まる。清正が熊本城主になった後の1600年(慶長5年)、熊本城下に創建されていた瑞龍院に移された。1611年に清正が没し、遺言により中尾山上の浄池廟に清正像を奉安した。1614年(慶長19年)、火災で焼失した本妙寺を浄池廟下の現在地に移転した。 明治時代の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺として分けられ、1871年(明治4年)に社殿だけが熊本城内に移され、加藤神社となった。浄池廟の拝殿も撤去された。その後、西南戦争で焼失した大本堂と同時に浄池廟の建物も再建され(明治27年)、現在の姿になった。 本妙寺とハンセン病[編集] かつて本妙寺の参道にはハンセン病患者が並び、参拝者に喜捨を要求していた。その起源は不詳であるが、境内の碑文で病気祈願の記載があり、江戸時代とも考られる。はっきり文書で記載されたのは1871年(明治4年)である。[1] その後、寺は西南戦役で一部炎上したが、患者は再び集まり、近くの集落で自活していた。ハンナ・リデルやコール神父などのハンセン病患者救済活動や、聖母会による病院設立などもあったが、国による九州療養所の設立後も患者は療養所と本妙寺集落の間を行き来した。そして、1940年(昭和15年)7月9日に本妙寺事件として知られる患者の強制収容があった。これは熊本ではあまり熱心でなかった、無癩県運動の一環として、また近づいてくる戦争準備への一環と考えられている。潮谷総一郎によると、患者の多くは相愛更生会という秘密結社に入っていた。毎年5円を出して、寄付金の趣意書、奉加帳を交付して貰い、定められた自分の縄張りに年2回出張して寄付を募った。また、厚生省、県知事、学務課、社会課の証明書、本妙寺の住職の感謝状を偽造した。そして北海道から台湾朝鮮に至るまで、2名一組で寄付を強要する、やらないと、「伝染させるぞ」と居直る。人々は癩の恐怖と、いかめしい厚生省や、県知事等の証明書にたいして、金銭を出したのであった。本妙寺事件の一部はその解決のためであった。相愛更生会の一部は草津楽泉園の特別病室に入っていたが、非常な人格者もおり、秘密結社というより、自治組織と考える人もいる。本妙寺部落役員5名と相愛更生会幹部4 名は特別病室に57日収容されていた。また、本妙寺らい集落に居住する患者と九州療養所や星塚敬愛園などの長い腐れ縁を絶つためでもあったろう。[2]強制収容後、患者は草津楽泉園に移送され、いわゆる特別病室,別名重監房に入獄した。 強制収用後の患家は燃やされたが、患者が時々参道に並ぶのは終戦後まで続いた。 重要文化財(国指定) 短刀 銘光世 蒔絵調度類[3] 桐桔梗折墨紋(きり ききょう

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岡崎森林組合 – Wikipedia

事務所敷地内の木材 岡崎森林組合(おかざきしんりんくみあい)は、愛知県岡崎市明見町に事務所を置く日本の森林組合。岡崎市の森林地域23,325ヘクタール(同市の総面積の約60%)を管轄する。 前史[編集] 現在、面積の90%以上を森林が占める旧額田町宮崎地区であるが、明治中期まではいたるところはげ山であった。毎年早春、牛馬の飼料や肥料をとるために村中総出で山焼きを行ってきたためであった。山焼きは周囲の私有林にまで燃え移ることが多く、そのため私有林の多くも雑木林になっていた[2]。 1889年(明治22年)に宮崎村初代村長となった山本源吉は村の発展はひとえに植林によるものと考え、1895年(明治28年)に山焼きの廃止を実現。また同年、将来50年間にわたり毎年7万本以上のスギ・ヒノキを植えることや、1000本以上を植林すれば10円を補助することなどを定めた「宮崎村共有林保護規則」を策定した。その後9年間で36万本が植林されたという[3]。 1910年(明治43年)、山本は愛知県の指導の下、村有林での30年以上にわたる植林や防火線設置計画などを定めた「宮崎村有林事業計画書」を発行した。同計画書は名古屋市で開かれた博覧会「第10回関西府県連合共進会」で一等賞に輝き、山本の実績は広く知られるところとなった[3]。 河原土工森林組合を設立[編集] 1921年(大正10年)、旧河原村地域において、山本源吉を中心に75名でもって「河原土工森林組合」が設立される。 1934年(昭和9年)に宮崎地区で「中部土工森林組合」が設立され、1941年(昭和16年)には河原と中部が合併し「宮崎村森林組合(のちに宮崎森林組合)」となった。1962年(昭和37年)、旧形埜村と旧下山村ではそれぞれの組合が合併し「額田北部森林組合」となった。 1975年(昭和50年)3月15日、上記「宮崎」「額田北部」と「豊富森林組合」の三つの組合が合併してついに「額田町森林組合」が誕生した。1956年(昭和31年)9月30日の4村合併以来19年間も森林組合の統一が果たされなかったのは、組合間の規模の差と体質の差があったからと言われている。組合員所有の森林面積はほぼ同じであったが、活動内容においては宮崎と他の2組合との間に大きな差があった。合併前年の出資金額は宮崎3,312万9000円に対し、額田北部250万円、豊富137万6000円であった。また、宮崎は独自の製材工場を持ち10名の常勤職員と作業班を組織して活動していたが、他の2組合は職員2名で植林用種苗斡旋や造林補助金の申請事務が主な仕事であった。資産の面でも宮崎の2千数百万円に対し、額田北部と豊富はそれぞれ100万円ほどであった。 同年6月、森林組合の合併に伴って町ごとの林業クラブも一つになり、額田林業クラブが設立された[7]。林業を基幹産業として順調に発展していくが、1964年(昭和39年)に木材の輸入が全面自由化されて以降、とりわけ宮崎地区は収入が激減した[8]。 なお額田林業クラブは2017年(平成29年)2月27日、平成28度全国林業グループコンクールにおいて林野庁長官賞を受賞している[9]。 額田町と岡崎市が合併[編集] 2006年(平成18年)1月1日、岡崎市は額田町を編入。これを受けて「額田町森林組合」と「岡崎市森林組合」の両組合は、2008年(平成20年)6月6日に合併予備契約を結んだ。この予備契約において、組合員1,228名を擁する岡崎市森林組合は解散し、組合員1,526名の額田町森林組合に吸収合併されることが確認された。事務所は明見町の額田町森林組合に置き、新理事13名のうち6割程度は額田から選出されることも定められた[10]。同年10月1日、「岡崎森林組合」が発足。 初代代表理事組合長には額田町森林組合長の平松繁が就任した。組合員は3,401名。管理する23,325ヘクタールの森林のうち、組合員の所有は16,803ヘクタール。出資額1億4,221万1,000円でスタートした[11]。 2011年(平成23年)6月、岡崎市の元助役の眞木宏哉[注 1]が代表理事組合長に就任した[19][20]。 管轄区域の概要[編集] 2006年(平成18年)1月1日の額田町との合併により、岡崎市の総面積38,724ヘクタールに対し総森林面積は23,325ヘクタールとなった。森林面積は市域の約60%を占める。その内訳は国有林が405ヘクタール、民有林が22,920ヘクタールである[21]。 矢作川流域の一帯は明治から昭和初期にかけて多くがはげ山であった。しかし戦後、特に額田地区の本宮山周辺や宮崎地区で植林が進み、林業が盛んに行われてきた[22]。2015年(平成27年)時点の人工林率は58.5%である[23]。

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