Month: July 2021

増位山太志郎 – Wikipedia

この項目では、第212代大関について説明しています。その師匠であり実父である第179代大関については「増位山大志郎」をご覧ください。 増位山 太志郎(ますいやま だいしろう[2]、歌手活動時は「たいしろう」[3]、1948年9月16日[4] – )は、東京都墨田区(大相撲の登録上は兵庫県姫路市)出身の元大相撲力士である。本名は澤田 昇(さわだ のぼる)、最高位は東大関。現役時代の体格は身長182cm、体重116kg。血液型はO型。得意手は右四つ、上手出し投げ、内掛け。 引退後は10代三保ヶ関として三保ヶ関部屋師匠を務めた。現在は歌手(ムード歌謡・演歌)として活動しており、ゴールデンミュージックプロモーションに所属している。経営する「ちゃんこ増位山」はミシュラン東京2017にて掲載された事がある。 趣味はカラオケ、ゴルフ。 来歴・人物[編集] 7代目増位山。大関・増位山大志郎の長男として東京の三保ヶ関部屋で生まれる。生まれも育ちも東京都ではあるが、日本相撲協会発表の出身地は実父と同じ兵庫県姫路市となっており、番付の出身地欄も「兵庫」と記されていた。「増位山」は、先代の出身地である姫路市にある山の名である。 大相撲・現役時代[編集] 小学生の頃から相撲が好きで、中学2年の時に実父に相撲界への入門を志願したが断わられた。しかしどうしても入門したい理由から、「ここで許されないなら他の部屋に入る!」と切り出した為、父親も折れて入門を許し[5]、1967年(昭和42年)1月場所、瑞竜の四股名で初土俵。北の湖と同期だった。ちなみに日大一中・一高では水泳部(競泳)に所属し、インターハイ出場の経験もあった[6]。 三段目にいた1968年(昭和43年)5月場所から父の四股名である増位山を継ぎ、1969年(昭和44年)7月場所新十両と2年余りで関取の座を掴む。1970年(昭和45年)3月場所に入幕したが負傷で何度か往復した。その後上位に進んでは大負けして落ちる繰り返しだったが徐々に三役に定着し5度目の三役昇進となった1979年(昭和54年)9月場所(小結)から相撲ぶりが目立って良くなり、翌11月場所関脇で11勝4敗と三役で初の二桁勝利を達成し、2場所連続で三賞(技能賞)を獲得。 そして翌1980年(昭和55年)1月場所、初日に横綱・輪島を破るなどで、関脇の地位で連続二桁勝利の12勝3敗をあげる。この3場所合計31勝で、直近の大関昇進の事例と比較すると勝星数で劣るものの、当時大関は貴ノ花1人しか居なかった番付上の状況もあり、場所後に大関昇進が決まる。本人曰く「最初で最後の大関獲り」のワンチャンスを見事ものにして、年6場所制が定着した1958年(昭和33年)1月場所以降初土俵の力士では、旭國の28歳11ヶ月を上回る31歳2ヶ月の当時最年長(現在では琴光喜の31歳3ヵ月に次ぐ2番目)で、史上初の親子大関が実現した。 しかし新大関の1980年3月場所は、右ヒジ関節挫傷による怪我で途中休場。場所後に昇進披露宴が行われ、相撲関係者のみならず俳優・歌手など 1500人余りが出席する豪華さと昇進場所での不振ぶりから「一億円の角番披露」と揶揄されるなど話題となった。いきなり大関角番となった翌5月場所は、8勝7敗と勝ち越して角番脱出。その後も2場所連続の9勝6敗と1桁勝ち星がやっとで、1980年11月場所は3勝12敗と大きく負け越した。2度目の角番となった1981年(昭和56年)1月場所は、10勝5敗と増位山自身大関として唯一の二桁勝利を挙げたが、これが大関としての最高成績だった。 1981年3月場所、2連勝の後2連敗したところで左ヒジ痛の悪化を理由に、同3月場所5日目限りで現役引退を表明した(取組相手の予定だった隆の里は不戦勝となる[7])。大関在位は僅か7場所で、「短命大関」としては年6場所制以降、大受の5場所(関脇陥落)に次ぎ、栃ノ心、朝乃山と並ぶ史上2位タイである(大関の地位で引退した力士では歴代1位となる)。現役引退後は18代小野川を襲名するとともに、三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。 取り口はふわっとした立合いで相手の突進をそらし、右で廻しをつかむと投げや内掛け・外掛け・内無双と多彩な技を繰り出した。中でも相手を引きずるように打つ上手投げ・上手出し投げは増位山独特のものだった[8]。

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スタニスワフ・コワルスキー – Wikipedia

スタニスワフ・コワルスキー(Stanislaw Kowalski、1910年4月14日[1] -)は、ポーランドのスーパーセンテナリアン、アマチュアアスリート。現在111歳でドルヌィ・シロンスク県在住の長寿の男性。 2018年3月19日にヨセフ・ジェルクが死去して以来、ポーランド最高齢男性となった。ポーランド国内ではテクラ・ユニェヴィチに次いで2番目に長寿の人物であり、2021年9月現在、ドルヌィ・シロンスク県で最高齢の人物である。 ポーランドの歴代最高齢男性であり、110歳、また111歳の誕生日を迎えた最初の人物である。 1910年4月14日、出生。同地で30代後半まで暮らした。彼は主に鉄道員として働いていた。彼は天候にかかわらずサイクリングを行っており、数十年間続けたという。 1952年に軍事訓練場の境界線が広がった際に引っ越しを行い、そこで農場を経営することとなった。 また、彼の母親は99歳まで生きている長寿の家庭出身である[1]。 2014年5月10日、当時104歳の彼は100m走を32.79秒で走破し、100歳以上の部門でヨーロッパ新記録を樹立した[2]。 2015年にトランで開催された退役軍人選手権に出場し、彼は世界で最高齢のアスリートとなった。その日も100m走を34.5秒で走破し、砲丸投で4.27メートル、円盤投においても7.5mの記録を出した。 2016年に現役アスリートを引退することとなった[3]。 2019年にふたたびレースを行う気持ちを表明したが、体調の関係から辞退することとなった。 彼は長寿の秘訣として、「医者に行かないこと」「望むことは何でもすること」などと語っている[1]。 ^ a b c “Stanislaw Kowalski” (英語).

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高泉性潡 – Wikipedia

高泉性潡(こうせん しょうとん、崇禎6年10月8日(1633年11月9日)- 元禄8年10月16日(1695年11月22日))は、江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県東閣の出身。俗姓は林氏。号が高泉で、法諱が性潡である。 父は林茂高、母は趙氏。 13歳の時、父母が亡くなり、叔父の無住が居る黄檗山に赴き、亘信行弥に就いて落髪した。翌年、隠元隆琦が再度黄檗山の住持となったため、隠元の弟子の慧門如沛に師事することとなった。 17歳で、黄檗山の殿司兼司鼓鐘となり、翌年、行堂となった。 1654年(順治11年)、22歳の時に、隠元が渡日し、隠元門下で黄檗山の住持を継承した慧門に就いた。 1656年(順治13年)、24歳で飯頭となり、同年冬には典賓となった。翌年、記室となった。 1661年(順治18年)、隠元の70歳の寿を祝うため、慧門に代わり、暁堂・未発・柏巌・惟一の4人と共に来日した。長崎の崇福寺に入寺して、即非如一を訪れた。惟一が先発し、高泉と暁堂の2人が、劉魯庵・陳沁斎・文淵閣・黄東崖等の人々の寿文を携えて宇治に向かった。この際の寿文は、『黄檗開山和尚七秩寿章』として板行された。なお、柏巌は崇福寺の記室となり、未発は隠元ではなく隠元の弟子の独癡の門下ということで、隠元の直系の弟子ではないため、翌年に帰国した。 1663年(寛文3年)12月の萬福寺初の授戒会では、引請阿闍梨の任を担った。 1665年(寛文5年)、奥羽二本松藩の藩主丹羽光重が創建した甘露山の法雲院の住持に招請された。この時、『妙法蓮華経』『円覚経』『維摩経』他30巻余を血書している。翌年、共に来日した暁堂が33歳で没したため、宇治に戻った。6月、後水尾法皇のために十牛頌を作り、衣を賜った。 1669年(寛文9年)、萬福寺の山内に法苑院を建立し、そこに住した。 1673年(寛文13年)4月3日(5月19日)、隠元が没し、高泉は、100日の間棺側に従った。 1675年(延宝3年)、加賀藩の藩主前田綱紀に招請され、金沢の献珠寺の開山となった。8月には萬福寺の松隠堂に戻り、『東渡初祖伝』2巻を撰した。 1678年(延宝6年)、門弟の雷洲が開創した、伏見の仏国寺の開山となった。 1685年(貞享2年)、龍渓性潜の門弟である晦翁に印可を付与して嗣法とした。これは、先年(1680年)に崩御した後水尾法皇が、その遺言によって、龍渓の嗣法は法皇のみ、と宣していたため、晦翁を龍渓の嗣法とできなかったための救済処置であった。しかしながら、この措置は禅の嗣法の本旨に背くため、萬福寺の役僧たちから反対意見が出て、混乱を来たした。この一件を「代付事件」と呼ぶ。結局、この一件は後々まで尾を引き、収束を見たのは、1688年のことである。 1692年(元禄5年)1月、第4代の黄檗山住持であった独湛性瑩が、代付事件の影響もあって隠退し、高泉がその座を継承して第5代住持と就った。また、この年、了翁道覚の寄進によって、山内の法堂・禅堂・斎堂・東方丈・西方丈などの堂塔の修築がなった。 1695年(元禄8年)、4月に隠元23回忌を機縁として、隠元の大光普照国師の国師号を公表した。また、紫衣を賜ったことにより、5月には江戸に上り将軍の徳川綱吉に拝礼し、翌月には将軍に対して説法を行なった。江戸滞在中は、体調が勝れず、柳沢吉保の周旋によって療養した。結局、病状が恢復しないために黄檗山に戻ることとなり、8月に萬福寺に帰着した。10月、自らの死期を悟った高泉は、後継者として千呆性侒以下5名を幕府に推薦し、幕府では千呆を後継に選任した。16日早朝、遺偈を書いた後、没した。享年62。 『扶桑禅林僧宝伝』10巻 参考文献[編集]

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日下部元雄 – Wikipedia

日下部 元雄(くさかべ もとお、1945年 – )は、日本の官僚。世界銀行の元副総裁。 日下部元雄は、1945年、宮城県仙台市で出生。父は、気象庁予報部長を務めた日下部文雄、祖父、日下部四郎太は物理学者。『物理学汎論』などを表し、岩石の弾性の研究により第2回帝国学士院賞を受賞し、近代地震学の基礎を開いた。アインシュタインとも親交を持ち、彼を長岡半太郎らと共に東北帝国大学に招いた。祖母、せいの曽祖父は、幕府の教育機関であった昌平坂学問所の教頭を務め、坂本竜馬とも親交のあった芳野金陵であった。 日下部元雄は東京大学理学部数学科卒業後、同大学大学院へ進み、1970年3月に修士課程(数学)を修了。同年4月 大蔵省に入省(主計局調査課)[1]。1972年には米国・イェール大学経済学大学院に留学をし、Joseph Stiglitz教授に師事、博士前期課程を修了、イェール大学経済学修士を取得。1974年7月には理財局国債課の企画係長兼外債第一係長[2]、1975年7月には山梨税務署長となる。 同氏はIMF理事補としてSDRの創出などの金融問題に取り組み、当時、1990年には設立されたばかりの欧州復興開発銀行に出向し、ソ連の崩壊により危機に瀕していた東欧諸国の市場経済化を支援した。国内経済面では、日米銀行局金融市場室長として、日米金融摩擦の最前線であった預金金利の自由化の3年間での完全実施の工程表を取りまとめ、金融制度改革担当の官房参事官時には、バブル崩壊後、不良債権を抱えるに至った日本の金融制度のシステム改革に取り組み、金融不良債権問題への抜本的な改革のため、リスク管理制度を法律化し、住専の処理機構や整理回収銀行の設立を行った。欧州復興開発銀行中央アジア局長、国税庁国税審議官などを経て、1997年8月より世界銀行職員として勤務、1999年2月より副総裁(資源動員・協調融資担当)(〜2002年5月)。 2003年よりスタンフォード大学にて客員研究員(デジタル・ビジョン・プログラム)となる。ICTを開発に利用する20人余りの社会起業家への支援事業の責任者として従事。スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学、カーネギーメロン大学の三大学連携プロジェクトとして社会改革のための情報共有システムの開発を行った。 2009年、ロンドンで「都市の貧困や社会的排除に関する政策の研究・助言を行う活動」を開始するため、Open City Foundation, Co. Ltd.を設立。ロンドン・リバプール・東京を結ぶ貧困の負の連鎖の計量的調査をし、比較研究を実施。現在は、株式会社オープン・シティー研究所を東京に設立し、自ら開発したコミュニティ・カルテ・システム(CCS)での社会調査を実施。立命館アジア太平洋大学(APU)大学院アジア太平洋研究科の客員研究員。 2016年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。 『アジアの金融危機は終わったか 経済再生への道』(日下部元雄)堀本善雄)日本評論社 1999年

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男子第50回・女子第45回全日本学生バスケットボール選手権記念大会 – Wikipedia

男子第50回・女子第45回 全日本学生バスケットボール選手権記念大会(だんしだい50かい・じょしだい45かい ぜんにほんがくせいバスケットボールせんしゅけんきねんたいかい)は、1998年11月29日から12月6日まで8日間にわたって国立代々木競技場第二体育館などで行われた全日本学生バスケットボール選手権大会。 11月29日 – 男女1回戦 11月30日 – 男女2回戦 12月1日 – 男女2回戦 12月2日 – 男女3回戦 12月3日 – 男女4回戦 12月4日 –

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班田収授法 – Wikipedia

班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)また班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)[1]とは、日本の律令制において施行された国家の農地(班田)の耕作権の支給・収容に関する法体系である。 班田収授法による制度を班田収授制または班田制という。班田収授制は、日本の律令制の根幹制度の一つであり、飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われた。 班田を耕作する者は、収穫物から一定の割合(田租は面積を基準としその公定収穫量の3%)を国へ収納し(輸租[2])、残りは自らの食料とすることができた。 これに対し、不輸租田では収穫物全て(もしくは大半)を耕作者の直接収入とすることが認められた。 戸籍・計帳に基づいて、国家から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は国家へ収公された。 均田制(唐)[編集] 唐の均田制では3年ごとに実施される戸口所属認定と土地認定機能を持つ造籍と土地分配機能を持つ収授が分離され、収授が毎年の計帳作成と同時に実施されている。また、唐では戸口(成員)と田地が一体化した経営体である「戸」が社会に存在している状況を前提として、実際の均田は戸単位の田地の調整によって実施されていた。更に収授の手続・実務は現地の県令が行い、州単位で余剰の田地が発生した場合のみ、中央(尚書省)に報告して判断を仰いだ。 唐の均田制が定めた男丁100畝(2万4千歩)は聖人の世で行われたとされる井田法の理念に基づく田の支給量(つまり最初から実現困難な配分)であった一種の「フィクション」を含んでいた。 班田制(日本)との比較[編集] 班田制は、当時の中国で行われていた均田制の影響のもとに施行されたと考えられているが、均田制と班田制とではその仕組みに大きな違いがあるとする指摘もある。 日本の班田制では戸口所属認定を持つ造籍と土地認定機能・土地分配機能を持つ班田が6年ごとに実施される1つの事業(戸籍に基づいて班田が実施)になっており、土地を分配する収授が班田手続の1つとなっている。また、「戸」も造籍と班田の結果として形成される組織であった。そして何よりも班田の実施には中央(太政官)への申請と校田帳・授口帳の提出と民部省による両帳の勘会を経て、班田実施を命じた太政官符(班符)の発給を必要とするなど、中央による統制が強く働いた制度であった[3]。 日本の班田制における良民男子は2段(720歩)はより現実的なものを目指したものとの指摘もある[4]。 班田収授の発足[編集] 日本書紀によれば、646年正月の改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあり、これが班田収授法の初見である。 しかし、この改新の詔に関する記述には多くの疑義が出されており、このとき班田収授法が施行されたと即断することはできない。班田収授法の発足は、初めて戸籍が作成された670年、若しくは飛鳥浄御原令が制定された689年以降であろうと考えられている。 律令下での班田収授[編集] 班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。現存する養老律令によると、班田収授の手続きは次のとおりだったことが判っている。 原則 まず、班田収授は6年に1度行われた。これを六年一班という。戸籍も同様に6年に1度作成されており、戸籍作成に併せて班田収授も実施されていた。戸籍において、新たに受田資格を得た者[5]に対して田が班給されるとともに、死亡者の田は収公された。 手続き

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位数 (群論) – Wikipedia

この項目では、群論における位数 (order) について説明しています。数学の他の分野における位数については「位数」を、他の学問分野におけるオーダーについては「オーダー」をご覧ください。 数学の分野である群論において、群の位数 (英: order) はその濃度、すなわち、その集合に入っている元の個数である。また、群の元 a の位数 (order, ときに period)は am = e であるような最小の正の整数である(ただし e は群の単位元を表し am は

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ワイヤレスマイク – Wikipedia

ワイヤレスマイクは、音声の伝送に電磁波を用いるマイクロホンである。また、ごく小規模な送信機でもある。 目次 1 概説 2 形状 3 歴史 4 脚注 5 関連項目 音声の伝送には有線を使わずとも電波、赤外線、可視光線などの電磁波によることができるが、実用されているのは電波と赤外線によるものである。文字通り線の無いマイクのことであるが、ワイヤレスマイク(wireless micorophone)はイギリス英語で、アメリカ英語ではラジオマイク(radio microphone)という[1]。機能的な違いを意味するものではないのだが、日本では電波法において電波を「300万MHz以下の周波数の電磁波」と定義し、これに基づく総務省令・告示等で電波を使用するものをラジオマイクと呼び別記事に解説されている。赤外線によるものも赤外線ワイヤレスマイクとしてやはり別記事で解説されている。 本記事ではそれらの記事との重複しない事項について解説する。 主要なものは、ハンドヘルド(handheld)とボディパック(bodypack)の二種類である。[2] ハンドヘルド 手持ち形、ハンド形とも呼ばれる。従前からある有線マイクのような筐体に送信部と電池が組み込まれている。歴史的にはこの形のものが先に開発された。 ボディパック

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女鬼トンネル – Wikipedia

女鬼トンネル(めきとんねる、Meki Tunnel)は、三重県道119号松阪度会線沿線の三重県多気郡多気町にあるトンネルである。正式名称は女鬼隧道(めきずいどう)[1]。本項目では、女鬼峠及び新女鬼トンネルについても記述する。 熊野街道(熊野古道)伊勢路の最初の難所であった、女鬼峠の西にある[1]。鉄製の扉が入り口の両側に設置されているため、トンネルを通過することはできない。トンネル入り口に掲げられている「女鬼隧道」の文字は当時の三重県知事である早川三郎の筆。 正式名称:女鬼隧道 通称:女鬼トンネル、旧女鬼トンネル[2] 略称:女鬼トン、女鬼 起点:三重県多気郡多気町野中字成川 終点:三重県多気郡多気町相鹿瀬(おうかせ) 全長:103m[1] 幅:4.0m[1] 高さ:4.6m 新女鬼トンネル[編集] 1996年(平成8年)12月に開通。 全長:241m 幅:7m 高さ:4.7m 通行料:無料 歩道も整備されている。 旧女鬼トンネルと比べて規模が拡大し、通行しやすい。 トンネルの入り口には、所在地多気町の主産物である、茶と柿の絵が描かれている。

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綦連猛 – Wikipedia

綦連 猛(きれん もう、生年不詳 – 577年頃)は、中国の東魏・北斉の軍人・政治家。字は武児。本貫は代郡。 北魏の燕郡太守の綦連元成の子として生まれた。綦連氏はもとは姫姓で、戦国時代の末年に乱を避けて塞外に出て、祁連山に居住し、山の名を姓とし、その語が訛って綦連氏を称したと伝えられる。 530年、綦連猛は爾朱栄に召されて洛陽に入り親信となった。爾朱栄が殺害されると、爾朱世隆に従って建州に逃れ、爾朱兆に従って再び洛陽に入った。爾朱兆の下で紇豆陵歩藩を討ち、都督に任じられた。531年、征虜将軍・中散大夫の位を加えられた。爾朱京纏が高歓に帰順したいと考え、綦連猛の父母兄弟がみな山東にいることに目をつけて綦連猛を一緒に誘った。しかし爾朱兆に恩義を受けていた綦連猛は従わなかった。爾朱京纏が刃を突きつけて綦連猛を脅したので、綦連猛は従い、城を去ること50里あまりのところで、爾朱京纏にそむいて再び爾朱兆に帰順した。533年、爾朱兆が敗れると、綦連猛は斛律羌挙らとともに逃亡したが、高歓に捕らえられて、尉景の下に配属された。高歓は爾朱京纏にそむいた件を綦連猛に問いただすと、綦連猛は服事の理を述べ、二心を抱いていないことを明らかにした。高歓は感心して綦連猛を都督に任じた。 東魏に入り、歩落稽が乱を起こすと、綦連猛は覆釜山でこれを撃破した。543年、高歓の下で河陽に向かい、宇文泰と邙山で戦った。 544年、平東将軍・中散大夫に任じられた。また中外府帳内都督に転じ、邙山の戦いの功績により、広興県開国君に封じられた。545年、爾朱文暢が乱を起こしたとき、綦連猛は旧主への恩義を思って告発せず、高歓にその罪を罰せられなかった。547年、梁の使者が東魏にやってくると、高澄は綦連猛に館へ向かわせて接待させ、その武芸を披露させた。この年、綦連猛は撫軍将軍となり、石城県開国子の別封を受け、肆州平寇県を食邑とした。 550年、北斉が建国されると、都督・東秦州刺史に任じられ、雍州京兆郡覇城県開国男の別封を受けた。文宣帝に従って契丹を討った。また斛律金の下で北征して柔然を討った。斛律金の命で100騎を率いて敵地に深くに偵察に出た。帰還して白道で斛律金の軍と合流すると、北斉軍は綦連猛の情報にもとづいて追撃し、柔然を撃破した。556年、武衛将軍・儀同三司となった。558年、武衛大将軍に転じた。559年、車騎大将軍を加えられた。560年、石城郡開国伯に封ぜられ、まもなく爵位は君に進んだ。561年、左右大将軍を領し、孝昭帝の下で奚を撃破した。563年、開府儀同三司を加えられた。突厥が晋陽に迫ると、綦連猛は300騎を率いて偵察に出た。城の北15里行ったところで、敵の先鋒に遭遇し、敵の数が多かったので退避にかかった。敵中にひとりの驍将がいて、突出して戦いを挑んできた。綦連猛はこれを見て、単身これに応じて相対し、俯仰の間に敵将を刺して落馬させ、これを斬った。564年、武安県開国君の別封を受け、驃騎大将軍を加えられた。565年、右衛大将軍に転じ、武成帝の勅命を奉じて、常に後主の側近にあり、内廷や外省の重要な事項を扱った。567年、中領軍に任じられた。568年、領軍将軍に転じ、義寧県開国君の別封を受けた。569年、余官はもとのまま、并省尚書左僕射となった。并省尚書令・領軍大将軍に任じられ、山陽王に封じられた。 綦連猛は和士開の死後、しばらく朝政を預かり、疑議が提出されるとすべて議論した。趙彦深は綦連猛を武将の中でも奸佞を憎む人物として認め、朝議のさいには故知を引いて綦連猛の議事を助けた。祖珽が趙彦深を左遷すると、綦連猛を趙彦深の党与とみなして、光州刺史として出した。綦連猛が牛蘭にいたったとき、告発されて召還され、拘禁された。まもなく釈放されて、王爵を削られ、光州におもむいた。任地では寛容清廉な統治で知られた。淮陰王高阿那肱は綦連猛と旧交があり、綦連猛が勅命で宮廷に召し出された機会をとらえて寄食させ、引き立てようとはかった。韓鳳らが告発されると、綦連猛は膠州刺史として出された。まもなく召還され、南兗州の防備にあてられた。576年、後主が平陽で敗れると、鄴に召し出されて、大将軍に任じられた。577年、北斉が滅び、北周に入ると、まもなく死去した。 伝記資料[編集]

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