Month: July 2021

三角点 – Wikipedia

三角点(さんかくてん)とは、三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点のことである。標高については別途、水準点も基準となる。 三角測量における意義[編集] 地図製作における三角測量には次のような作業手順がとられる。 原点の設定[編集] 三角測量に入る前に原点の設定が必要になる。まず地球上のある地点とある地点の距離を正確に測るには各地点の鉛直線の方向を基準にする必要があるが、地球内部の密度の違い(重力の影響)により各地点の鉛直線には傾きを生じている[1]。そこである一点(原点)をあらかじめ天体測量等で決めておき、それを土台に各点間を結ぶ線とその方向から位置を求めてゆく[2]。 基線測量[編集] 原点が決まると原点から観測に都合の良い地点を選んで原方位を決定する[3]。 三角測量は地上で実際に測った一本の線を基礎に、次々に三角形の内角を測定することで三角点の位置を決定していく方法である[4]。そのため正確に測られた基線を設定する必要があり、その基線の測量作業を基線測量という[5]。 選点作業[編集] 三角点の位置を決める作業を選点作業という[6]。三角網を形づくる三角形は正三角形に近いほど誤差を生じにくい[6]。三角点の位置は見通しが良い場所である必要があり[6]、特に一等三角点の場合は一等三角点同士で見通しが良いだけでなく二等三角点や三等三角点を設定しやすい位置にする必要がある[7]。 三角点は見通しがきく地点でなければならないため、高い場所であればよいと思われがちであるが、高い山の頂は雲に遮られることが多く気象条件に左右されやすいため一番良いとは言い難い[7]。しかし、一等三角点間に山がある場合などでどうしても見通しがきかないような場合には不便を承知で山の頂に設置される[7]。 造標作業[編集] 三角点の選点が終わるとその地点に観測の標識となるピラミッド型の櫓を建てる[8]。さらに三角点であることを表示する標石を埋設する[9]。 観測作業[編集] 三角点の設置とともに三角点間の観測を行う。三角点は地球上にある地点であるため、一等三角点や二等三角点など遠い距離にある三角点をつないだ三角形は平面上の三角形とはならない(内角の和が180度より大きくなる)ため、この球過量の補正を行う[10]。 なお、地形図においては、いかなる地点も高さが示されている必要があるためこれらとは別に水準測量が必要となる[11]。 各国の三角点[編集] 日本の三角点[編集] 場所情報コード (ucode)

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大和ハウスリアルティマネジメント – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大和ハウスリアルティマネジメント” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年4月) 大和ハウスリアルティマネジメント株式会社(だいわハウスリアルティマネジメント)は、東京都千代田区に本社を置く、不動産賃貸業・施設管理運営事業を行う企業。大和ハウス工業が100%出資する子会社であり、大和ハウスグループに属する。2021年9月までの会社名は大和情報サービス株式会社。「アクロス」「イーアス」などのブランドで、ショッピングセンターを全国に展開する。また大和ハウスグループや他社物件の管理業務も行う。社名を変更した2021年10月からは、当社が吸収合併したダイワロイヤルが運営していたホテル(ダイワロイネットホテルズ)の運営も行う。 主幹事業は、商業施設などの建物を賃貸する不動産賃貸業である。かつての社名には情報サービスと含まれていたが、システムインテグレーターではない。「情報サービス」の「情報」は不動産物件情報の意であり、「サービス」も、建物オーナー・土地オーナー・テナントを結びつけるサービスの提供を意味する。また社名が類似している大和システムは同根(ダイワハウスグループとして設立)であるが、別企業である。 事業内容[編集] 不動産賃貸(アクロスプラザシリーズ他) 商業施設の運営(アクロスモールシリーズ他) 不動産(ビル・ホテル・商業施設等)の管理(プロパティマネジメント) 駐車場の経営 都市型ホテル等の運営 1986年 1月 : 大和ハウス工業100%出資で会社設立。本社所在地は、大阪市西区阿波座一丁目5番16号。資本金は5,000万円。

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私年号 – Wikipedia

私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 実例・備考 列滴 烈擲 孝霊天皇元年(紀元前260年) 5 – 経明 – 垂仁天皇11年(紀元前19年) 4以上 尾張国風土記 璽至 – 応神天皇元年(270年) 1 –

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淤宇宿禰 – Wikipedia

淤宇宿禰(おうのすくね、生没年不詳)は『日本書紀』等に伝わる古墳時代の豪族で出雲国造の一人。意宇足奴命とも。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。 淤宇宿禰は意宇足奴とも表記されるように、「淤宇」とは「意宇」のことで、出雲国意宇郡を支配した豪族の出雲国造であることを意味する。『日本書紀』巻第二十六には、659年(斉明天皇5年) 是歳(ことし)、出雲国造(いづものくにのみやつこ)に命(おほ)せて、神の宮を脩厳(つくりよそ)はしむ。狐、於友郡(おうのこほり)の役丁(えよほろ)の執(と)れる葛(かづら)の末(すゑ)を噛(く)ひ断ちて去(い)ぬ。 (この年、出雲国造に命ぜられて神の宮(意宇郡の熊野大社、現島根県松江市八束町鎮座)を修造させられた。そのとき狐が、意宇郡の役夫の採ってきた葛(宮造りの用材)をみきって逃げた)訳:宇治谷孟 とある。この話は、天智天皇の皇子の建王が唖であり、『古事記』中巻や『書紀』巻第六に現れている垂仁天皇の皇子、誉津別命の故事と大いに関係がある[1][2]。『出雲国風土記』にも同様の物語が見える[3]。 『日本書紀』巻第十一には、応神天皇崩御後の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)との、倭の屯田と屯倉を巡る争議のことが記されている。淤宇宿禰はこれらの土地の屯田司であったが、額田大中彦皇子が「ここは山守の管掌するところであるから、明け渡すように」と要求してきた。 不服を唱えた彼は、菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)、その後大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、のちの仁徳天皇)に訴え出た。 「臣(やつがれ)が任(あづか)れる屯田(みた)は、大中彦皇子(おほなかつひこのみこ)、距(さまた)げて治(つく)らしめず」(私がお預かりしている屯田は、大中彦皇子が妨げて治めさせてくれません) 大鷦鷯尊は、倭直の祖先である麻呂に尋ねたところ、現在韓国(からくに)に派遣されている弟の吾子籠(あごこ)が知っていると答えた。そこで、 爰(ここ)に大鷦鷯尊、淤宇に謂(かた)りて曰(のたま))はく、「爾(なむぢ)躬(みづか)ら韓国に往(まか)りて、吾子籠を喚(め)せ。其れ日夜(ひるよる)兼ねて急(すみやか)に往(まか)れ」とのたまふ。乃(すなは)ち淡路(あはぢ)の海人(あま)八十(やそ)を差して水手(かこ)とす。爰に淤宇、韓国に往(まか)りて、即(すなは)ち吾子籠を率(ゐ)て来(まう)け)り。 (大鷦鷯尊は淤宇にいわれるのに、「お前は自ら韓国へ行って、吾子籠(あごこ)をよんでこい。昼夜兼行で行け」と。そして淡路の海人(あま)大勢をつかわして水手(かこ)とされた。淤宇は韓国へ行って、吾子籠を連れて参りきた。) 吾子籠は土地は天皇のものであると説明し、事態は解決した。しかし、事態は額田大中彦皇子の弟である大山守皇子の反発を招き、皇位抗争劇へと発展していった[4]。 『古事記』にはこのエピソードは存在しない。 意宇郡は出雲国の国府が設置された場所であり、国分寺・国分尼寺も建立され、古くから出雲国の中心地であった。古代の農業は自然灌漑によるものであったため、地域を流れる意宇川のような小さな川が農耕社会にとって、より適したものであった、と角川源義は述べている。前述の熊野大社には食物神、櫛御気野命(くしみけぬのみこと)が祭られ、その神を祭った司祭者も神魂神社(かもすじんじゃ)に祭られている。のちの出雲国造家である。 加藤義成によると、意宇氏は元々は意宇地域の豪族だったものが、大和政権との関係で出雲を統合し、国全体の首長にのし上がってきた、そのことは熊野大神が国津神ではなく、天津神に分類されているところから想像でき、本来の出雲氏は出雲国西部の斐伊川流域に杵築大神を奉じた勢力であっただろうとしている[5]。 意宇平野における発掘調査では、とりわけ国府跡の下層にある5世紀代の首長居館遺構からは、朝鮮半島系の土器が多数出土しており、渡来人の定住に意宇郡の首長が関与していたことが窺われ、その渡来人らを用いて、意宇川の付け替え工事も行われたらしいことも判明している。港にあたる夫敷遺跡からも半島系土器が出土され、隣接地には阿太加夜(あだかや)神社という半島由来の名前とおぼしき神社が鎮座している。これらの事情は、意宇平野を地盤とする豪族が大和王権の権威で半島と交渉を行っていたのではないか、と池渕俊一は述べている。 物語に登場する「淡路の水手」に関連して、『書紀』巻第六の一書に伝えるアメノヒボコ伝承の異聞では、 初め天日槍、艇(はしぶね)に乗りて播磨国(はりまのくに)に泊(とま)りて、宍粟邑(しさはのむら)に在り。時に天皇、三輪君(みわのきみ)が祖(おや)大友主(おほともぬし)と倭直(やまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)とを播磨に遣(つかは)して、天日槍を問はしめて曰(のたま)はく、「汝(いまし)は誰人ぞ。且(また)、何(いづれ)の国の人ぞ」とのたまふ とあったのちに、八物(やくさ)の神宝を日槍が朝廷に貢献し、 仍(よ)りて天日槍に詔(みことのり)曰(のたま)はく「播磨国の宍粟邑と淡路島(あはぢのしま)の出浅邑(いでさのむら)と、是の二(ふたつ)の邑(むら)は、汝(いまし)任意(こころのまま)に居(はべ)れ」とのたまふ

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ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー – Wikipedia

フランソワ・ルードによるラ・ペルーズの像、1828年 ラ・ペルーズの探検航路 ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー(Jean François de Galaup, comte de La Pérouse, 1741年8月23日 – 1788年?[1])は、フランスの海軍士官及び探検家。太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。 フランス南部のアルビ近郊で生まれた。ラ・ペルーズというのは一族の領地の名であり、家名はガローである。イエズス会のコレージュで学び、15歳でブレストの海軍学校へ入った。七年戦争に従軍し、北アメリカでイングランドと戦った。戦争初期にフランス領の海岸で交戦し負傷、投獄された経験がある。西インド諸島でイングランドのフリゲート艦エアリアルを打ち負かして、准将の位となった。1782年8月、彼はハドソン湾岸の2つのイングランドの砦を攻略した(ハドソン湾遠征)が、生存者たちに食料と弾薬を与えて解放した。翌年、故郷の家族は彼にルイーズ・エレオノール・ブロドーという、中流の若いクレオール女性と結婚させた。彼はルイーズとフランス島(現在のモーリシャス島)で出会っていた。 1785年、国王ルイ16世よりラ・ペルーズは太平洋探検を命じられた。彼が率いるのは、それぞれ500トンのフリゲート、ブッソール号とアストロラブ号だった。ハドソン湾への奇襲作戦でラ・ペールズの部下だったド・ラングルがアストロラブ号の艦長に任じられた。この航海への同行を申し込んできた者の中に、16歳のコルシカ人ナポレオン・ボナパルトがいた。彼はパリの軍学校出身で予備のリストに掲載されていたが結局は採用されなかった。当時、ナポレオンは自身が数学と大砲に通じていることから陸軍より海軍に興味を抱いていた。 ラ・ペルーズは、イングランドの優れた航海者ジェームズ・クックがしたように、太平洋の島を巡ろうとしていた。114名の乗員のうち10人が科学者だった。天文学者であり数学者のダジェレ、地理学者のラマノン、植物学者のラ・マルティニエール、医師、3人の自然科学者、そして3人の絵描きドゥシェ・デ・ヴァンシーと、プレヴォスらである。 アラスカ[編集] 1785年8月1日、ブレストを出航。ホーン岬を回り、スペイン領チリを調査した。そしてイースター島(1786年4月)、ハワイ諸島(彼はマウイ島に上陸した最初のヨーロッパ人となった)の後アラスカへ航海し、1786年6月にセント・イライアス山近くに上陸し周囲を探検した。1786年7月13日、2隻のロングボートと積み荷、及び21名の乗員がポール・デ・フランセ湾(ラ・ペルーズの命名。現在のリツヤ湾)の激しい海流に飲まれ遭難した。北カリフォルニア沿岸を航海し、9月7日に爆発したシャスタ山の記録を残した。 モンテレイへ1786年9月14日に到着。彼はスペインによるカリフォルニア植民地事情を調査し、フランチェスコ会のインディアンに対する扱いを批判的に記した。 東アジア[編集]

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ディーン・ディクソン – Wikipedia

ディーン・ディクソン 基本情報 生誕 (1915-01-10) 1915年1月10日 出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク 死没 (1976-11-03) 1976年11月3日(61歳没) 学歴 ジュリアード音楽院コロンビア大学 ジャンル クラシック音楽 職業 指揮者 チャールズ・ディーン・ディクソン(Charles Dean Dixon[1], 1915年1月10日[2]

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第30回全日本女子サッカー選手権大会 – Wikipedia

第30回全日本女子サッカー選手権大会(だい30かいぜんにほんじょしさっかーせんしゅけんたいかい)は、2008年11月29日から2009年1月1日にかけて行われた全日本女子サッカー選手権大会。日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)正加盟の16チームを含む32チームが参加した。なお12月13日に「なでしこリーグ2008 一部二部入替戦」が行われるため、2回戦と3回戦の間が他の試合よりも大きく開いている。 準々決勝では、なでしこリーグ上位4チームのうち日テレ・ベレーザとINACレオネッサは勝利したが、浦和レッドダイヤモンズ・レディースはTASAKIペルーレFCに、岡山湯郷Belleは東京電力女子サッカー部マリーゼに敗れた。 準決勝では2年連続で本拠地をともに神戸市とするペルーレとレオネッサが対戦し、4-1の大差でレオネッサが勝利し初の決勝進出。ペルーレはこの試合を最後に休部となり、前身の神戸FCレディースからつづく永い歴史にピリオドを打った。またベレーザはマリーゼに対し開始直後に先制するも前半29分に混戦から追いつかれたが、試合途中から出場の選手たちが追加点を上げて15度目の決勝進出を決めた。 決勝戦ではブラジル代表と韓国代表を擁するレオネッサが女王ベレーザに挑むも、前半20分のレッドカードにより10人での戦いとなったレオネッサが大差をつけられて試合終了間際に1点を挙げるに留まり、ベレーザが9度目の優勝を達成した。 出場チーム[編集] 日本女子サッカーリーグ[編集] (plenusなでしこリーグ2008成績順) ディビジョン1 ディビジョン2 ※鹿児島鴨池フットボールクラブアサヒナ(鹿児島県)は準加盟のため地域予選から出場も予選敗退 北海道地域[編集] 東北地域[編集] 関東地域[編集] 北信越地域[編集] 東海地域[編集] 関西地域[編集] 中国地域[編集] 四国地域[編集] ブッチギリ

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モーニングエコー940 – Wikipedia

『モーニングエコー940』は、秋田放送ラジオで平日の午前に放送されていた朝のワイド番組。 1972年10月スタート。秋田放送ラジオに初めて導入されたばかりのラジオカー(FMカー)エコー940をフル活用しスタジオと中継先から放送する内容だった。 最初、放送時間は月曜日から金曜日までの午前9:40 – 午前11:00。1976年10月からは午前9:00 – 午前11:00に枠を拡大し、同時にタイトルが『リビングワイド モーニングエコー940』となった[1]。 末期には中村峰子、藤井茂子のパーソナリティのままで『ラジオプラザ午前9時』と改題してリニューアル[2]。1981年3月終了。後継の平日朝ワイド番組は『ABSサンサンモーニング』。 なお、タイトルは当時の秋田本局の周波数「940kc→㎑」にちなむもので、最初の放送開始時間もこれになぞらえて9:40に設定していた。 パーソナリティ[編集] 中村峰子(当時:ABSアナウンサー) 藤井茂子(1976年10月、『リビングワイド – 』の時から加わり、中村と共にパーソナリティを務める[1]) エコーレディーキャスター 番組内容[編集] エコーレポート[3]。 街角レポート エコーホームジャーナル[4]

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