Month: November 2021

上条螘司 – Wikipedia

上条 螘司(かみじょう ありじ、万延元年7月7日(1860年8月23日) – 大正5年(1916年)11月25日)は自由民権家、教員。 1860年(万延元年)7月7日 – 信濃国筑摩郡今井村(現松本市今井)の農家藤本家の二男として生まれる。幼名は蟻吉。 1878年(明治11年)11月 – 長野師範学校松本支校を退学。 1879年(明治12年)3月 – 今井村上条家の養子になる[1] 1879年(明治12年)6月 – 埴原学校(現松本市中山)の二等準訓導として勤務 1880年(明治13年) – 奨匡社代表の1人として上京し国会開設請願運動をするため埴原学校を退職

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ゲルハルト・リッター (化学者) – Wikipedia

この記事はドイツ語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2020年9月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 ドイツ語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|de|Gerhard Ritter (Chemiker)}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 ゲルハル・トリッター (Gerhard Ritter、1902年11月27日 – 1988年11月24日[1])は、ドイツの化学者およびマネージャー。 1934年から1945年まで、彼はIGファルベンのボスであるカール・クラウチの最も重要な部下であり、特にIGファルベンの毒ガス生産に関して管理職を歴任し、1941年に同社の正式な責任者となる。 戦後、1956年に彼はカールスルーエ原子力研究センター (KFK)のテクニカルディレクターに就任し、1959年にイスプラ ユーラトム研究センターの所長に就任した。 1945年以前の経歴と経歴[編集]

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茨城県立石岡第二高等学校 – Wikipedia

茨城県立石岡第二高等学校(いばらきけんりつ いしおかだいにこうとうがっこう)は、茨城県石岡市府中にある県立高等学校。校訓は貞節・勤倹・和順[1]。 設置学科[編集] コース選択は2年生進級時に行う[2]。 普通科 Aコース(就職・進学) Bコース(進学) 生活デザイン科 フードデザインコース ヒューマンサービスコース 1949年(昭和24年)に男女共学化したが[3]、事実上女子校として続き、男子生徒の受け入れを始めたのは1996年(平成8年)のことである[4]。2011年(平成23年)現在でも生活デザイン科は女子のみとなっている[2]。 1912年(明治45年) 1916年(大正5年) – 修業年限を3年に延長し、定員を150名とする[6]。 1922年(大正11年) – 修業年限を4年に延長し、定員を200名とする[6]。 1924年(大正13年) –

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猶太人対策要綱 – Wikipedia

猶太人対策要綱(ゆだやじんたいさくようこう)とは、1938年12月6日近衛文麿の最高首脳会議である五相会議で決定されたユダヤ人の対策方針である。日本、満州、中国大陸におけるユダヤ人対策案である。 成立と内容[編集] 猶太人対策要綱は、安江仙弘が当時の陸相・板垣征四郎に働きかけによって策定された。この要綱の立案過程に関する安江の大きな役割については、これまで長男・弘夫の証言だけで資料的裏付けがなかったが、関根真保が京都大学に提出した学位請求論文[1] の公開『日本占領下の上海ユダヤ人ゲットー』(2010)のなかで、「満鉄外國経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27日)という資料のなかに、満鉄側のメモ「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」という記述を発見したことが報告され、この資料のなかに猶太人対策要綱の内容が網羅されていることから、安江弘夫の証言の正しさが立証された。 同要項の内容は、以下の通りである。 猶太人対策要綱 昭和十三年十二月六日附 五相会議決定 独伊両国ト親善関係ヲ緊密ニ保持スルハ現下ニ於ケル帝国外交ノ枢軸タルヲ以テ盟邦ノ排斥スル猶太人ヲ積極的ニ帝国ニ抱擁スルハ原則トシテ避クヘキモ之ヲ独国ト同様極端ニ排斥スルカ如キ態度ニ出ツルハ唯ニ帝国ノ多年主張シ来レル人種平等ノ精神ニ合致セサルノミナラス現ニ帝国ノ直面セル非常時局ニ於テ戦争ノ遂行特ニ経済建設上外資ヲ導入スル必要ト対米関係ノ悪化スルコトヲ避クヘキ観点ヨリ不利ナル結果ヲ招来スルノ虞大ナルニ鑑ミ左ノ方針ニ基キ之ヲ取扱フモノトス 方針 一、現在日、満、支ニ居住スル猶太人ニ対シテハ他国人ト同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ 二 新ニ日、満、支ニ渡来スル猶太人ニ対シテ一般ニ外国人入国取締規則ノ範囲内ニ於テ公正ニ処置ス 三、猶太人ヲ積極的ニ日、満、支ニ招致スルカ如キハ之ヲ避ク、但シ資本家、技術家ノ如キ特ニ利用価値アルモノハ此ノ限リニ非ス 米国が、航空機用ガソリンの禁輸とくず鉄などの輸入制限に踏み切り、日本の南下政策を牽制するようになると、米国との決裂は決定的なものとなり、独伊との三国同盟が締結された日の翌日の1940年(昭和16年)9月28日、要綱の提案者の安江大佐は、大連特務機関長を解任され、予備役に編入された。安江には憲兵隊の尾行が着くようになり、日米開戦の翌1942年(昭和17年)に、同要綱は廃止された[4](1942年3月13日連絡会議決定案「時局ニ伴フ猶太人対策」による廃止)[5]。 本要綱においてはユダヤ人を他国人と同様公正に扱うこと(一)、またユダヤ人を取り締まる際であっても外国人入国取締規則において公正に取り締まること(二)を明示するが、本要綱の2か月前に発せられた近衛外務大臣訓令「米三 機密 合 第1447号」(件名: 猶太避難民ノ入国ニ関スル件、1938年10月7日付)においては、要綱(二)の「外国人入国取締規則」とは別の「外国人入国令」(大正7年内務省令第1号

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伊本貴士 – Wikipedia

この記事は広告・宣伝活動のような記述内容になっています。ウィキペディアの方針に沿った中立的な観点の記述内容に、この記事を修正してください。露骨な広告宣伝活動には{{即時削除/全般4}}を使用して、即時削除の対象とすることができます。(2022年2月) 伊本 貴士(いもと たかし、1978年2月3日 – )は、IoT・AI評論家。メディアスケッチ代表取締役社長、株式会社コーデセブンCTO(最高技術責任者)を兼任。経産産業省地方版IoT推進ラボメンター、サイバー大学専任講師、日経ビジネススクール講師、日経エンジニアリングスクール講師、MGTカレッジ高度情報技術講座講師、横浜企業経営支援財団 技術アドバイザー、福井県長期ビジョン推進懇話会 委員、ふくい産業支援センター 特別相談員。元『フューチャーアーキテクト株式会社』ITコンサルタント。奈良県橿原市出身。 NECソフト株式会社、フューチャーアーキテクト株式会社、ベンチャー企業を経て2009年メディアスケッチ株式会社を設立。IoTに関する企業への技術コンサルティング事業を行い、デバイスの試作品開発、人工知能エンジンの開発など、企画立案から開発保守までを行っている。[1] これらの経験をもとに『ホンマでっか!?TV』、『サンデーLive!!』などに最新技術の評論家として出演し、テレビ、ラジオ、雑誌、講演など幅広く活動。 2012年『SMOでWebサイトに人を呼び込む実践マニュアル』、2017年『IoTの全てを網羅した決定版 IoTの教科書』、2018年『問題を解いて実力をチェック IoTの問題集』、2019年『ビジネスの構築から最新技術までを網羅 AIの教科書』を出版。 2016年サイバー大学客員講師に就任し、情報端末とネットワークおよびIoTの授業を担当。また、経済産業省の地方版IoT推進ラボにおけるメンターとして、地方の企業や自治体などへの講演のほか、具体的なアドバイスや支援活動も行っている。[2] 難しい最新技術がどう社会へ影響するかわかりやすく伝えるエバンジェリスト(伝道師)として、全国で講演活動など多数。 レギュラー[編集] テレビ[編集] 連載[編集] WEB『日経クロステック』「熱血IoTコンサルタント伊本貴士の新技術を斬る」(2018年2月14日~現在)[4]

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グレース・ノット – Wikipedia

グレース・ノット又はグレース・キャサリン・ニール・ノット(英: Grace Catherine Neale Nott、1863年7月25日 – 1947年3月3日)は、イギリスの宣教師で、熊本において最初のハンセン病病院回春病院を創立したハンナ・リデルと共に1889年12月来日した。教会より両者は赴任先として熊本が指定された。ノットはリデルに協力して病院を創立しているが性格が地味で目立たなかった。しかし、回春病院が財団法人として認められる際には、ノットは評議員になっているし、リデルを経済的に援助していたという[1]。なお、彼女の母Mary Harriet Nott(1836年 – 1913年9月23日)は、未亡人になってから来日しグレースと同居していた。夏目漱石はロンドン留学が決定した1900年にイギリスの情報を得るために、ドイツ系スイス人ファーデルの紹介でノット母子と知り合いになった[2]。ノットの母は帰国の船の中でも、留学途上の漱石の求めに応じ、英国における漱石の指導教授を捜すのに協力している[3]。 家族と少女時代と熊本での活動[編集] ノット家の家系図をたどるとオリバー・クロムウェルともつながりがあるので、名家といえる。父親は海軍軍人でエドワード・トマス・ノット(Edward Thomas Nott)といい、1861年に夫人と結婚、1870年に大佐に昇進したが。1874年にマラバ号艦長時代、カイロ北東約 100キロのスエズ運河中央管理部が置かれているイスマイリアで死亡した。CMS(Church Missionary Society)(リデルたちを海外に派遣した団体)は女性宣教師養成の必要を感じザ・ウイロウズという学生数46名の良家の子女の学校を作った。グレース・ノットはそこに入学した。そこでは、聖書の学問だけでなく、派遣地域の文化、一般商業簿記、また医学や看護の知識も教えていたという。熊本着任後、リデルは第五高等学校学生に英会話を教え、またグレースは1918年―19年ごろまで、日曜学校で英語会話を教えていた。グレースは母親と共に熊本市四軒町の借家に住み、母は夏目漱石に会話をおしえた。長女グレースより年下の長男レジャアは陸軍将校となり、インド北部で戦病死した。次男パーシィはケンブリッジ大学で学士号、修士号をとってから、聖職者となり司祭になっている。 帰国の事情[編集] ブランドラム牧師(John

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城下町のダンデライオン – Wikipedia

このフィクションに関する記事は、ほとんどがあらすじ・登場人物のエピソードといった物語内容の紹介だけで成り立っています。製作過程や社会的影響、専門家による批評や分析など、作品外部の情報の加筆を行い、現実世界の観点を説明してください。(2015年12月) (使い方) 執筆募集中:現在、プロジェクト:アニメにてエピソードリスト節の導入が検討されており、皆様の執筆を募集しています。皆様の様々な執筆に基づいて、本格導入するための議論が進められます。ぜひ執筆にご参加ください。 『城下町のダンデライオン』(じょうかまちのダンデライオン)は、春日歩による日本の4コマ漫画作品[注 1]。芳文社発行の『まんがタイムきららミラク』に2012年4月号[1]、6月号にゲスト掲載されたのち、同年8月号[2]より連載開始。同誌の休刊により『まんがタイムきらら』に移籍して2018年1月号から2019年9月号まで掲載された[注 2]。その後、長期休載を経て2020年8月7日よりCOMIC FUZに移籍し、新章の連載が開始された[3][注 3]。 2014年11月にアニメ化が発表され[4]、TBSテレビほかにて2015年7月より9月まで放送された。 2016年8月中旬にCBGKシブゲキ!!にて舞台公演が上演された[5]。 あらすじ[編集] 能力・他の兄弟姉妹の今後(進路)については、雑多となるために登場人物を参照とする。 選挙編 (vol.1 – vol.34) ごく普通に街中で生活する櫻田家。だが父親は国を統べる王様で、子供達は全員特殊能力を持つ王家の一族だった。そんな一家の三男六女の兄弟姉妹である茜・葵・修・奏・遥・岬・光・輝・栞の中から、次期国王が国民投票によって選ばれることになった。判断材料として、町中に設置された200以上のカメラによって監視されTV放送される中、一生懸命カメラを避けたり、選挙にやる気だったり、協力しあったりと思い思いの行動を取る兄弟姉妹たち。仲良しな家族ながら、選挙で勝ち残るのは一体誰になるのか。 最年長の葵が18歳になることを基準にして国王選挙を実施することとなったが、当の葵は世論調査で第1位である体制は変わらなかったのに選挙活動はしていなかった。また、自身の国王選挙活動に関心が薄いが他の兄弟姉妹の支援活動をする修・遥であった。一方で、セクシャルハラスメントな場面もある監視カメラ撤廃に積極的だったために人見知り克服での演説活動や「スカーレットブルーム」での活動を踏まえた茜と、兄の修を怪我させたことがきっかけで奏が医療施設の視察やボランティア活動で選挙的に選挙活動に動き出す。そして、光は選挙をきっかけとしてアイドル活動に精を出すことになり、岬も中学校でのお手伝い要員としては働いていたが世論調査では反映させていなかったことにより活動を検討することとなる。輝・栞は幼少だったので、栞が仕切り役になって共同での選挙活動になった。実はこの国王選挙においては、国王を選定すると共に櫻田家兄弟姉妹の進路を見出して行くという目的もあった。 最終的には葵は自分の能力によるトラウマもあり、世論調査第1位で揺らぎなかったが国王になる資格がないと最終の選挙演説で辞退することにした。その後、選挙宣伝の飛行船事故が起きたが、修がリーダー格となって他の兄弟姉妹と共に被害を最小限にした結果、そのリーダーシップが認められて選挙で修が次期国王に決定した。ただ、国王選挙に修が当初は消極的だったのには恋人であった佐藤 花の件もあったためであり、国王・王妃の馴れ初めで選挙活動に積極的になった所もある。選挙後に恋人の花を家族に紹介(婚約)している。

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全日本ウエイトリフティング選手権大会 – Wikipedia

全日本ウエイトリフティング選手権大会(ぜんにほん―せんしゅけんたいかい)は、日本ウエイトリフティング協会が主催するウエイトリフティングの全国大会である。開催地は持ち回りで、開催時期は国際大会などのスケジュールにより変動する。 歴史[編集] 1936年5月31日に第1回全日本重量挙競技選手権大会として開催。この大会は全日本体操連盟が主催していたが、当日付で日本重量挙連盟(現:日本ウエイトリフティング協会)として独立。 その後、戦争による中断を経て、1946年に国民体育大会が始まるとその中で行われるようになるが、1953年より分離独立し現在に至る。 女子は1987年に第1回全国女子大会として開催した後、1994年からは全日本女子選手権として併催に移行している。 大会方式[編集] 国際ウエイトリフティング連盟が定める階級別に分けて実施。スナッチ・クリーン&ジャークの規定2種目で争う。 開催記録[編集] この節の加筆が望まれています。 男子単独[編集] 年度 回 会場 1941 1 1942 2 1943 3 1944

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森村泰昌 – Wikipedia

森村 泰昌(もりむら やすまさ、1951年6月11日 – )は、日本の現代芸術家。 大阪市生まれ。京都市立芸術大学美術学部卒業、専攻科修了。大阪市在住。 1985年にゴッホの《包帯をしてパイプをくわえた自画像》(1889年)に扮する自身が扮したセルフポートレイト写真《肖像・ゴッホ》(1985年)を発表。初めて展覧会評が美術雑誌に載り実質的なデビューを果たす。 1989年にはベニスビエンナーレ/アペルト88に選出され国際的にもデビューを果たし、その後も一貫して「自画像的作品」をテーマに、セルフポートレートの手法で作品を作り続け、国内外で展覧会を開催している。 主な作品には「西洋美術史になった私」シリーズ、「日本美術史になった私」シリーズの他、ハリウッドなどの映画女優に扮した「女優になった私」シリーズや、20世紀をテーマにした「なにものかへのレクイエム」などがある。 2014年、3年に一度、横浜美術館を中心として開催されるヨコハマトリエンナーレ2014「「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」のアーティスティック・ディレクターに就任。2018年11月3日、自身の美術館「M@M(モリムラ@ミュージアム)」を大阪・北加賀屋に開館する。作品は国内外多数の美術館にパブリックコレクションされている。 2006年、京都府文化功労賞、2007年度、芸術選奨文部科学大臣賞、2011年、第52回毎日芸術賞、日本写真協会賞、第24 回 京都美術文化賞を授賞。2011年秋、紫綬褒章を受章。[1][2][3] 大阪市天王寺区細工谷町生まれ。父は緑茶商。大阪市立桃陽小学校から大阪市立夕陽丘中学校を経て大阪府立高津高等学校を卒業。1年間の浪人生活を経て、1971年、京都市立芸術大学美術学部工芸科デザインコースに入学。 1975年(昭和50年)に京都市立芸術大学を卒業した[4]。同年に松下電工(現パナソニック電工)株式会社に入社するも3日で退職。京都市立芸術大学に聴講生として学ぶ傍ら、非常勤講師として大阪府立高津高等学校工芸科に勤務。 1976年(昭和51年)、京都市立芸術大学美術学部専攻科デザイン専攻に入学。高校や短期大学の非常勤講師を務める。 1980年(昭和55年)に京都市立芸術大学美術学部映像教室非常勤講師。写真家アーネスト・サトウに師事。 1983年(昭和58年)、京都市のギャラリー・マロニエにて初個展を開催。当初は、静謐で幻想的なオブジェや、身体の手足などのモノクロ写真を撮影し関西周辺で発表していた。 1985年(昭和60年)、自らが扮装してフィンセント・ファン・ゴッホの自画像になる写真作品を発表。以後、自らがセットや衣装に入って西洋の名画を再現する写真で評価を受けた。 1988年(昭和63年)にヴェネツィア・ビエンナーレの若手グループ展「アペルト」部門、1989年には全米を巡回した日本美術展「アゲインスト・ネーチャー-80年代の日本美術」展に参加し、鮮烈な国際デビューを飾った。当初はシミュレーショニズムやアプロプリエーション(盗用芸術)などとの関連、美術史と人種・ジェンダーとの関連、シンディ・シャーマンなど他のセルフポートレートを手法とする作家との比較で語られた。以後、日本各地や海外での個展やグループ展に多数参加している。

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土井聱牙 – Wikipedia

土井 聱牙(どい ごうが、1818年2月3日(文化14年12月28日) – 1880年(明治13年)6月13日)は、幕末・明治期の儒学者。伊勢津藩の藩校有造館の督学をつとめ、「資治通鑑」を校訂出版した。名は有恪。字は士恭。通称は幾之助。 津の西町に津藩の儒官であった土井弘(号は橘窓)の次子として生まれた。文政10年(1827年)、兄長裕が早逝したことにより、家禄190石を継いだ。文政11年(1828年)3月、藩主藤堂高猷の命により川村竹坡の門に入った[1]。 土井聱牙旧宅跡 三重県津市中央 文書を斎藤拙堂、経学を石川竹厓に学び、津藩の藩校有造館の助教・講官をつとめた[1][2]。「資治通鑑(有造館本)」の校訂出版に責任者として貢献し、嘉永元年(1848年)には藩主の侍読、明治2年(1869年)には有造館督学となった[1]。 明治元年(1868年)、明治政府から任官の依頼があったが、病を理由に辞退している[1]。 明治13年(1880年)没。 津城址の土井聱牙詩碑 聱牙の祖父長瑶、父弘ともに儒医として藤堂家に使えたが、弘は藩校有造館開校にあたり、講官に任ぜられ、儒医から儒官専任となった。 日夜常人には堪え難いほどの勉学に励んだが、それが禍して左眼を失明した。その後は、右眼を失明することの懸念から、書物を読めば必ず暗誦し、文章などは二度読めば直ちに暗記した[1]。 38歳頃から土井塾を開き子弟を育てた。土井塾は聱牙の死後、次男の楓井純が学問を継ぎ、涑水舎と称した。[1][3]。門人の教育には一家の見識を持っており、その概要は「読書は多読でなければならない」「講義のノートは厳禁」「黙読は不可。大音声で音読すること」などがある[1]。 津城址には土井聱牙の詩碑がある。40歳の時に「書生に示す」との題で作った、七言絶句の詩であり、読書の大切さを伝えている[3]。 学問のほかに書画をよくし、特に墨竹画を多く残した[1]。 出典は『叢書・日本の思想家』および三重県立図書館ウェブサイト[1][4]。 『兵語百計』 『太平寰宇記図』 『旧唐書地理志図』

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