Month: November 2021

マイク・ダー – Wikipedia

マイケル・カーティス・ダー(Michael Curtis Darr、1976年3月21日 – 2002年2月15日)は、1999年から2001年までメジャーリーグベースボールのサンディエゴ・パドレスでプレーした外野手。父は1977年にトロント・ブルージェイズで1試合登板したマイク・ダー・シニア[1]。 カリフォルニア州・コロナで生まれ育ったダーは、1994年にデトロイト・タイガースの1994年のMLBドラフト2巡目、全体52位で指名された。 1997年シーズンの前にサンディエゴ・パドレスにトレードされ、1999年にMLBデビューを果たした。 2000年にパドレスで58試合をプレーした翌2001年にチームの開幕戦の右翼手に指名され、8月まで同ポジションでレギュラーだった。 2002年の春季トレーニングの期間中にアリゾナ州ピオリアでの自動車の単独事故で、元マイナーリーガーであるデュアン・ジョンソンと共に死亡した。運転手だったダーは、血中アルコール濃度が法定限度を超えており、シートベルトを着用していなかった。 メジャー通算で188試合に出場、打率.273、5本塁打、67打点、出塁率.353、17盗塁だった。 プロ入り前[編集] マイケル・カーティス・ダーは、1976年3月21日にカリフォルニア州コロナで産まれた [1]。父親のマイク・ダー、シニアは、1977年にトロント・ブルージェイズで1977年に1試合に登板している[2]。 学生時代のダーは、後にNFLの選手やコーチとなるダリン・チャベリーニ[3]と、 UCLAフットボールチームのアシスタントコーチを務めるドン・ジョンソンの息子でマイナーリーグベースボールの選手のデュアン・ジョンソンと幼馴染だった。コロナ高校にいる間、ダーは薬物乱用に苦しんだ。彼はジョンソン一家と一緒に住むようになり、ドンはダーをカウンセリングに連れて行き、麻薬中毒を克服するのを助けた [4]。 1994年に高校を卒業し、高校時代の恋人であるナタリーと結婚した 。 デトロイト・タイガース(1994–96)[編集] 1994年、ダールはデトロイト・タイガースの2巡目、全体52位で指名され、入団した

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カーディオディクティオン – Wikipedia

カーディオディクティオン(Cardiodictyon[4])は、約5億年前のカンブリア紀に生息した葉足動物の一属。たくさんのアーチ状の甲皮と脚をもつ、中国の澄江動物群で見つかった Cardiodictyon catenulum という1種のみによって知られる[5]。 学名「Cardiodictyon」はギリシャ語の「kardia」(心)と「dictyon」(網)の合成語[4]。模式種(タイプ種)の種小名「catenulum」はラテン語の「catenula」(小さな鎖)に由来し、一連の甲皮の並び方に因んで名付けられた[4]。中国語は「心網蟲」(簡体字:心网虫、模式種は「鏈狀心網蟲/链状心网虫」)と呼ぶ[6][7]。 カーディオディクティオンの全身復元図 体長約3cm[4]。丸い頭部の左右には1対の単眼、腹面には触手状に特化した2対の付属肢(葉足 lobopod)をもつ[5]。残りの長い胴部は25節の同規的な胴節が含まれ、これは知られる葉足動物の胴節数の中では最多である[8]。各胴節の背面には甲皮(sclerite)、両腹面には1対の葉足(脚)をもち、胴節の間は環形の筋(annulation)に分かれる。ヒマワリの種の形に似た左右1対の甲皮は背側に向けて癒合しており、1枚のアーチ状の構造体をなしている[5]。甲皮は縁に沿って反り上げて、鞍のように凹凸している[5]。各胴節の細長い脚は環形の筋に分かれ、それぞれの先端は1対の鉤爪のみをもつ[9][10]。 多くの葉足動物と同様、汎節足動物におけるカーディオディクティオンの系統的位置は不確実で、系統解析によっては有爪動物の初期系統(ステムグループ)に含まれる[13][10][14][15][16][17][18]、もしくは独立した別系統の汎節足動物とされる[11][2][12][3]。一部の系統解析では、本属はハルキゲニアやタナヒタなどに類縁とされ、共にハルキゲニア科(Hallucigenidae、ハルキゲニア類)に分類される[2][3]。 ^ a b Yang, Chuan; Li, Xian-Hua; Zhu, Maoyan; Condon, Daniel

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ハーレム・グローブトロッターズ – Wikipedia

ハーレム・グローブトロッターズ チームロゴ Harlem Globetrottersと金色のロゴ字が入ったバスケットボールを人差し指で支えている 創設 1927年 チーム史 ニューヨーク・ハーレム・グローブトロッターズ(1928年-1929年)ハーレム・グローブトロッターズ(1929年-) 本拠 アリゾナ州フェニックス アリーナ 特定のホームコートを持たず移動している チームカラー 赤・白・青 オーナー シャムロック・キャピタル ヘッドコーチ クライド・シンクレアマイク・セント・ジュリアンバリー・ハーディーテックス・ハリソン ニコラス・カーディナル 優勝歴

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クツワムシ – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年5月) クツワムシ Mecopoda nipponensis 分類 学名 Mecopoda nipponensisHaan 和名 クツワムシ クツワムシ(轡虫、Mecopoda nipponensis)とは、バッタ目キリギリス科の昆虫。体は緑色または褐色で、翅は幅広い。雄は「ガチャガチャ」と鳴く。関東以南から九州まで分布。別名管巻(くだまき)。 大型で体高が高く、ずんぐりとしたその体の側面積は日本のキリギリス亜目中最大(体長ではカヤキリの方が遥かに上回る)。また、肉食性が強い同亜目にあって、草食、しかもほぼクズの単食という食性は異色といえる。 メスはオスよりも翅が細長く、体が巨大であることを除けば、ツユムシやクダマキモドキにやや似るが、産卵管は剣状である。 体色は個体変異が大きく、緑色の個体と褐色の個体がある。保護色と考えられるが、両者は同所的に混在し、生息フィールドごとに同じ色の個体群が安定して棲んでいるわけではない。 本州(茨城県-新潟県以南)、淡路島、四国、九州、隠岐、対馬、朝鮮半島、華東。 夜行性。鳴き声がとても大きく、開けた場所をあまり好まず林縁の下草に棲む。マメ科植物、とりわけクズの葉を好んで食べ、生息地もクズの繁茂している場所である場合が多い。肉食もするが、クズの葉だけでも問題なく生育する。これはマメ科植物がタンパク質を多く含むためだといわれている。 マメ科以外にもカラスウリやアマチャヅル、アレチウリなどのウリ科、ヤブカラシ、ヘクソカズラなど種々の蔓植物を食うのが目撃されている。 また、ツユクサやメヒシバなど一部の単子葉植物も食べる。 羽化した成虫は早い個体では7月下旬より出現し、野生で声が聞かれるのは10月いっぱいまでである。一方、飼育下で餌や容器、温度など良好な環境を整えてやると、年を越して最長2月まで生きることもある。

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六安市 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “六安市” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年1月) 六安市(ろくあん-し、りくあん-し)は中華人民共和国安徽省に位置する地級市。六安瓜片(緑茶)の産地である。 安徽省中部の西寄りに位置し、阜陽市、淮南市、合肥市、安慶市、河南省、湖北省に接する。河南省・湖北省との省境には大別山脈がそびえる。 紀元前121年(元狩2年)、前漢により六安国が設置された。 1999年9月に地級市の六安市が設立。 行政区画[編集] 3市轄区・4県を管轄する。 年表[編集] 皖北行署区六安専区[編集] 安徽省六安地区[編集] 1953年10月17日 –

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グラフトン郡 (ニューハンプシャー州) – Wikipedia

グラフトン郡(英: Grafton County)は、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の中央部西に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は89,118人であり、2000年の81,743 人から9.0%増加した[1]。郡庁所在地はヘイブリル町(人口4,697人、ただしその町の中でもノースヘイブリル・ビレッジに庁舎がある[2])である。1972年まで郡庁舎とその他の事務所はやはりヘイブリル町の中にあるウッズビル・ビレッジの中心街にあった。同郡で人口最大の都市はレバノン市(人口13,151人[3])である。 グラフトン郡はバーモント州にも跨るレバノン小都市圏に属している。郡内にはダートマス大学やプリマス州立大学がある。雑誌「プログレッシブ・ファーマー」は2006年に「田園部アメリカで住みたい所」の第4位にグラフトン郡を挙げ、低い失業率(経済成長は鈍い)、適度な生活費、州内唯一の国立公園であるホワイト山国立の森があることをその要因に挙げていた。 グラフトン郡はニューハンプシャー植民地時代の1769年に作られた最初の5郡の1つであり、郡名はイギリスの議会でアメリカの支援者となり、当時イギリスの首相を務めていたオーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)に因んで名づけられた。グラフトン郡は1771年にウッズビルで組織され、現在はバーモント州に入っている多くの町を含めニューハンプシャーの北部フロンティアの全体を領域にしていた。1803年、北部にコーアス郡が設立された。郡の南にはストラッフォード郡、ヒルズボロ郡、チェシャー郡があり、東の境界はメイン地区に接していた。1797年の郡内には50のタウンシップと17のロケーションが入っていた。人口は23,093人だった[4]。 オールドマン・オブ・ザ・マウンテン、2003年に崩壊した部分を重ねた合成写真 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は1,750平方マイル (4,532 km2)であり、このうち陸地1,713平方マイル (4,437 km2)、水域は37平方マイル (96 km2)で水域率は2.10%である[5]。 グラフトン郡はほとんど田園部である。面積の約半分はホワイト山国立の森に入っている。1981年の映画『黄昏』に使われたスカム湖やオールドマン・オブ・ザ・マウンテンが郡内にあり、またダートマス大学やハバード・ブルック実験森林もある。州内の標高4,000フィート (1,200 m) を超える山の多くが郡内に入っている。アパラチアン・トレイルが郡内の少なくとも10の町を通っている。 隣接する郡[編集]

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Metasequoia – Wikipedia

この項目では、3次元コンピュータグラフィックスソフトウェアについて説明しています。植物のメタセコイアについては「メタセコイア」をご覧ください。 Metasequoia(メタセコイア)は、株式会社テトラフェイスが開発・販売しているWindowsおよびmacOS用3DCGソフトウェアである。略称はメタセコまたはmetaseq。無償で提供されているが、ライセンスを購入してシリアルIDを入力するまでは機能が制限される。 Metasequoia 4以降にはStandard版と高機能なEX版がある。Ver3.1以前は通常版と無償版のLEがあるが、現在はVer3.1のライセンスを購入することはできない。 本項では、開発・販売元の株式会社テトラフェイスについても解説する。 1999年5月の初版リリース時からO.Mizno(水野修)が個人事業で開発やサポートを行っていたが、2012年5月から法人化の準備を進め、同年9月に株式会社テトラフェイスを設立[3][2]。Metasequoia上の表記は2012年10月公開のVer3.1 Beta7から法人名となった。なお、公式ブログでは「法人になったからといって開発や販売体制など実質的な面では何も変わらない」(2012年10月時点)と説明している[2]。 ポリゴンメッシュによる3Dモデルの作成(モデリング)に特化した3DCGモデラーである。 3DCGモデラーとしての機能性や扱いやすさ、入手のしやすさなど、日本における3DCGモデラーとして人気が高い。データ可搬性を重視しており、様々なファイル形式で入力・出力することができる。低価格であり、趣味で使用する個人ユーザーが多いが、プロが製作現場で使用することもある。採用段階でMetasequoiaの使用経験を認める企業もある[4][5]。 Metasequoia 4.3でボーンに[6]、4.5でモーフに[7]、4.8でパストレーシング(英語版)による物理ベースレンダリングに[1]標準対応するなど、これまでプラグインや別の統合ソフトと連携しなければ実現できなかった高度な機能も実装され始めている。 なお、Metasequoia自体は初版からC++ Builderを使って開発されていることが、公式ブログなどで言及されている[8][9]。 ファイル形式[編集] Metasequoia ファイルフォーマット 拡張子 .mqo, .mqoz 開発者

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酈食其 – Wikipedia

酈 食其(れき いき、拼音:Lì Yì-jī、紀元前268年 – 紀元前204年)は、中国秦から楚漢戦争期の儒者、説客。陳留郡雍丘県高陽郷(現在の河南省開封市杞県)の人。通称は酈生(酈先生)。子は酈庎、孫は酈勃(酈遂)[1]。弟は酈商、甥は酈寄。 身長は8尺ほどあり読書を好んだが、貧乏で家業を持たなかった。のちに村の門番となるが、周囲からは「狂生(気狂い先生)」と呼ばれ相手にされなかった。 陳勝、項梁らの挙兵以来、60歳前後ながら仕えるべき人物を探していたが、いずれも意に染まず身を隠した。その後、劉邦が陳留を攻撃した際、酈食其は劉邦を気に入り、伝を頼って面会できるようにした。その伝の人は、劉邦が大の儒者嫌いで儒者がいたらその冠を取ってその中に小便をするような人物であるので止めた方が良いと説いたが、酈食其は意に介さず、とにかく劉邦に面会させてくれと説いた。伝の人の言うとおり、劉邦は初め召使の女性に足を洗わせながら酈食其に面会するという無礼な態度に出た。これを酈食其は「年長の者にそのような態度をとるべきではない」と一喝し、劉邦も慌てて女性を下がらせて姿勢を正し、謝罪した。ようやく話の出来る状態になった後、酈食其は劉邦に対して陳留の率いる秦軍の投降を説いて成功させ、広野君に封じられた。またこの時、弟の酈商を推挙している。 以降は、同じ説客の陸賈とともに諸侯を説得するなど東奔西走して、その折衝に当たった。 紀元前206年、西魏王魏豹が離反すると、劉邦から「おい、お喋りよ、西魏王を説得できたら、一万戸の領主に封じてやる」と命じられて魏豹の説得に赴くが、失敗に終わった[2]。項羽と対峙するにあたり酈食其は劉邦に策を献じ「(戦国七雄から秦を除いた)六国の子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで陛下の臣下になるでしょう」と説いた。劉邦も当初、これを受けたが、張良から「項羽との苦しい戦いの最中にある今の陛下は諸侯を封じても統制できる状況ではありません。今、恩賞を期待して功績を挙げんと陛下に従っている六国の遺臣たちも、故郷に帰って、それぞれの主君に従うようになってしまいます。これでどうして、項羽に勝って天下を御取りになるのですか」と進言され、酈食其の策を却下した。 韓信の斉攻略が進んでいるときに、酈食其は進言して斉との和平交渉に臨み、その弁舌で以って斉の七十余城を一旦帰順せしめることに成功する。しかし酈食其に功績を独り占めにされることを恐れた韓信とその腹心の蒯通は独断で斉を攻撃し、和平を反故にされて怒った斉王田広により酈食其は煮殺された。その際に酈食其は斉王より「お前が漢軍を止められれば命は助けてやる」と言われたが、「大きな事を成すものは細かいことにこだわらないと言う。私はお前のために前言を変えたりしない」と放言し、そのまま煮殺された。 劉邦は前漢王朝を樹立すると、いったん斉を帰順せしめた亡き酈食其を賞して、その子の酈庎は将として軍勢を率いて戦うも父ほど戦功を残せなかったが、劉邦は亡父の功績に免じて彼を高梁侯に封じた。後に武遂侯に転封させている。 紀元前122年に酈庎の孫・酈平(酈勃(酈遂)[1] の子)が皇族の衡山王劉賜(淮南厲王劉長の子)から勅命と偽って、百斤の金額を騙し取った罪で処刑され、晒し首にされる予定だったが、病死した。そのため後を継いだ酈平の子(酈乗?)は爵位を没収された。宣帝の代に、酈食其の玄孫の酈賜が元の爵位を賜った。 酈食其の子孫[編集] 後漢の時代になると、酈食其の子孫と称した范陽(現在の河北省保定市定興県)の人である酈炎、字は文勝が霊帝の時代に存在した[3]。彼は、弁舌爽やかで文辞と詩に巧みで、親孝行で音律に長じていた。朝廷は彼を州郡の官吏として招聘したが、酈炎はこれに応じなかった。その後、酈炎は精神的な病にかかり若くして認知症になった挙句に母が死去した。認知症になった酈炎の妻は初産であったが、夫の病気に驚いてそのまま亡くなると、妻の実家は女婿の酈炎を訴訟したため、175年に州郡は酈炎を逮捕して投獄した。病にかかった彼はまともに返答ができないまま、過酷な拷問に耐え切れずについに獄死した。享年28。酈炎の師であった盧植は彼の死を惜しみ、これを称える徳行の詩を謳った[3]。 ^ a b 『漢書』酈食其伝

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東京吉本 – Wikipedia

東京吉本(とうきょうよしもと)とは、一般的には興行会社・吉本興業の東京のセクションを指す。大阪吉本とはまた独自の展開で、戦前の柳家金語楼、柳家三亀松、あきれたぼういずから、戦後の江利チエミ、近年のロンドンブーツ1号2号、品川庄司、オリエンタルラジオに至るまで、多くの人気タレントを輩出してきた芸能界の老舗である。また映画会社・東映の前身の一つ、太泉映画を設立したことでも知られている。組織上は、時期別に次の3つに大別され、それぞれ性格も異なる。 吉本興業東京支社(戦前期) 吉本株式会社(1946年 – ) – 1が戦後、大阪の吉本興業から分離独立したもの 吉本興業東京本社(1980年 – ) – 2が会社更生法の適用を受けた後、新たに大阪の吉本興業が東京に進出し、設置される。当初は東京連絡事務所、その後東京支社と格上げされ、現在は東京本社 以下で、それぞれについて詳細を述べる。 吉本興業東京支社(戦前期)[編集] 大阪から東京へ[編集] 明治末に大阪に創業した吉本は、大正末に東京・横浜へ進出した。既存の寄席や劇場の買収により東京地区の興行基盤を築いた。まず、経営不振に陥っていた神田神保町の寄席「川竹亭」を買収し、1922年(大正11年)元旦に「神田花月」として開場した。続いて、同年5月には、横浜伊勢佐木町の寄席「新富亭」を収めて、翌1923年「横浜花月」と改称した。昭和に入り、娯楽のメッカ・浅草公園六区の興行街へ進出。1927年(昭和2年)に浅草の「遊楽館」を借用して色物の演芸場として開館。続いて「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と傘下に収めた。1935年(昭和10年)にはその総仕上げとして、東京吉本の本拠地として「浅草花月劇場」を新築開業。 事業組織としては、1932年(昭和7年)3月に吉本興業合名会社の東京支社として正式に発足させ、林弘高が支社長に就任した。以後、大阪吉本を兄の林正之助が、東京吉本を弟の林弘高が率い、2人の姉である吉本せいが吉本興業の社長として両者を束ねる体制を確立させた。 モダン・ハイカラ路線[編集] 東京吉本の特長は、伝統的な演芸路線を採る大阪吉本とは一線を画したモダン・ハイカラ路線であった。 東京吉本を代表する浅草花月劇場は、レビューの「吉本ショウ」を中心に、軽演劇の実演、映画の上映、流行歌手の歌、そして漫才などの演芸でバラエティに富んだプログラムを組んでいた。客は木戸銭を払って入場すれば、幕間や休憩時間を含め6時間ものプログラムの中で、映画も見られれば、歌も聞ける、お芝居も見られて、演芸も楽しめ、半日ゆったりと遊べる一種の娯楽センターであった。その興行形態は日本的な寄席・演芸場というよりもむしろ、アメリカのボードビル・ショウに近かった。

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