Month: May 2022

小若順一 – Wikipedia

小若 順一(こわか じゅんいち、1950年2月2日[要出典] – )は、日本の市民運動家。食品と暮らしの安全基金代表。岡山県岡山市生まれ。現場取材や食品検査を行うことで、ポストハーベスト農薬、環境ホルモン、耐性菌、毒ギョーザ事件、放射能汚染、ミネラル不足など、食品や生活に潜む危険性を各メディアや月刊『食品と暮らしの安全』で告発してきた。 1950年、岡山県岡山市生まれ。 1967年、岡山県立岡山朝日高等学校卒業 1969年、芝浦工業大学中退 1972年、産業能率大学2部事務能率科卒業 1973年、産業能率大学2部販売能率科卒業 1973年、日本消費者連盟事務局員 1973年、遺伝毒性がある合成殺菌料AF2の追放運動に取り組む。 1982年、日本消費者連盟を退職 1984年、市民団体である日本子孫基金を設立、事務局長 1988年~1996年、海外の農場を取材し、小麦、大豆、トウモロコシ、レモン、オレンジ、パイナップル、チェリー、ジャガイモなどのポストハーベスト農薬の使用実態を世界で初めて明らかにする 1997年、遺伝子操作されたジャガイモの葉を食べた虫が死ぬことをビデオで公表 1997年、槌田博氏の「自然処理の原則によるプラスチック分類」を、見やすいポスターにまとめて発表したことで、ダイオキシン対策が進展する 1997年、哺乳瓶などの赤ちゃん用品から環境ホルモンが検出されていることを指摘 1999年、国連の国際食品規格委員会(コーデックス)のオブザーバ-としてスタッフを派遣し、有機農業の規格作成にかかわる 1999年、カップ麺容器から環境ホルモンを検出

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浸透圧 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “浸透圧” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年7月) 浸透圧(しんとうあつ、英: osmotic pressure)は物理化学の用語である。半透膜を挟んで液面の高さが同じ、溶媒のみの純溶媒と溶液がある時、純溶媒から溶液へ溶媒が浸透するが、溶液側に圧を加えると浸透が阻止される。この圧を溶液の浸透圧という(岩波理化学辞典・同生物学辞典等)。浸透圧は希薄溶液中において、物質の種類に依存しない法則が成立するという束一的性質の一種である。 半透膜、すなわち溶媒(小さな分子)だけを透す膜で隔てられた2室に溶媒・溶質が同じで濃度の異なる2つの溶液があると、濃度の低い(溶質分子の密度が相対的に低い)溶液から濃度の高い(溶質分子の密度が相対的に高い)溶液に移動する溶媒分子の数は逆向きのものより多くなる。これは、低濃度溶液中の溶媒分子の方が、高濃度溶液中の溶媒分子よりも、溶媒自身の密度が高く、拡散の原理に従って、溶媒分子が[高]→[低]へと移動することによっている。結果として、溶媒は溶質濃度の高い溶液の方へ移動し、平衡状態に達するまで続く。 浸透圧 π [atm] は次の式で表される(ファントホッフ(van’t Hoff)の式)。 π=MRT{displaystyle pi

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オンライン脱抑制効果 – Wikipedia

オンライン脱抑制効果(オンラインだつよくせいこうか、英: online disinhibition effect)とは、対面時に比べて、オンライン上でのコミュニケーションの方が、抑制が効かなくなる現象を指す[1][2][3]。人々は、完全なる匿名で、コンピュータ画面の向こう側に隠れて存在できるため、実生活上では言えないようなことをオンライン上で発言しても安全であると感じる[4]。この匿名性に加え、非同期通信(英語版)、共感性の欠如、個人の性格、また、文化的背景もオンライン脱抑制効果の一因となる[5][6]。この効果は、良い方向性と悪い方向性のどちらにも発現する。つまり、オンライン脱抑制効果は、良性(benign)と有毒性(toxic)のいずれかに分類可能である[1]。 良性のオンライン脱抑制効果は、サイバースペースの制約がないことにより、何らかの利益を得ている状況を指し[1]、その一例としては、自己開示に見ることができる[7]。インターネット上の匿名性を活用することで、実生活上では消極的であっても、個人的な感情を共有し、自らをさらけ出すことができる[8]。とりわけ若い人たちは、オンラインチャット上で、語られていない秘密や、個人の恥ずかしい話の詳細などを暴露することに安心感を持つ[9]。このような自己開示を使うことで、人々は実生活での対面のコミュニケーションと比較して、より早く[10]、より強い親密な関係性を築くことが可能となる[11]。オンライン脱抑制効果は、内向的、シャイ、社交恐怖や吃音症、また聴覚障害などを持つ、実生活上でのコミュニケーションに消極的な人にも、自らを表現する機会を与える[11]。 有毒性のオンライン脱抑制効果と呼ばれるものは、オンラインでの炎上や、不適切な行為の増加傾向を示している。これらには、悪意を持った言葉、罵倒や恫喝が含まれる[1]。この状況は、サイバースペースにおけるオンライン脱抑制効果の負の副作用を表している。有毒性のオンライン脱抑制効果により引き起こされる反社会的行為は、ブログ、ウェブサイトや、コメント欄といったオンラインプラットフォーム上のヘイト行為のみならず、ネットいじめや社会的手抜きなどの様々な形態で存在する[8]。 ただし、良性と有毒性の境界は必ずしも明らかであるとは言えない。例えば、オンラインチャットでの悪意を持った言葉により、人の自己像(英語版)を毀損する可能性があるものの、その言葉が真実であった場合は、言葉を受け取った側が自身をより深く理解することの助けともなり得る。オンラインコミュニティ上の様々なサブカルチャーを考慮すれば、人々は特定の社会的行為に対しては、様々な寛容さを持つ可能性がある。また、オンラインで急速に成長した人間関係の親密さは、容易に崩壊する偽りの関係である可能性を秘めている[1]。 効果の要因[編集] 匿名性、非同期通信、また、共感性の欠如はオンライン脱抑制効果に影響を与える[5]。匿名性は、まるで別の人物であるかのように、オンライン上で安全であると感じることができ、新しい人格 (ペルソナ) を身にまとうことも可能である。また、実生活への影響がないため、どんな行為や発言もできるという感覚になることもあり得る[1]。 非同期通信では、送信と受信がリアルタイムに行われず[12]、送信したメッセージに対する返信を受け取るまでに時間を要する場合がある。この即応性のなさや、ログアウトが可能なことがオンライン脱抑制効果へ影響を及ぼしている。すなわち、返答を気にする必要がなく、コミュニケーションから逃避することも可能である[1][5]。 共感性の欠如とは、他人の感情に共感できる可能性が減少することを指す[13]。その要因としては、非言語的なフィードバックが不足するためである[14]。間接的なコミュニケーションにおいては、どんな口調や表情でメッセージが伝えられているかを知ることはできず、共感することは容易ではない。匿名性と共感性の欠如の両方の作用により、オンライン上における顔の見えない対話で、その相手を感情のある人間として認識することを困難にしている[1][5]。 オンライン脱抑制効果を提唱したジョン・スラーは、実生活とは切り離されたアイデンティティを確立する「匿名性」、お互いの顔や反応を確認できない「不可視性」、リアルタイムの相互作用が発生しない「非同期性」、相手の声や人格、その振る舞いを勝手に想像する「唯我独尊的な取り込み」、オンラインでのコミュニケーションを、現実世界とは別のキャラクターが存在する空想世界と同一視する「解離的な想像力」、オンライン上では現実世界の地位や権限を軽視する傾向となる「地位や権限の最小化」の少なくとも6つの要因が関連していると述べている[1][2][3]。 効果の研究[編集] オンライン脱抑制効果は、ネットいじめ行為に影響を与えている。ネットいじめは、インターネットを介した恥辱、脅迫、または不快感を与える行為のことである[15]。匿名性は、他人に対する卑劣な発言を発生させる一因となるが、それ単独でネットいじめにまで発展することはない[16]。非同期通信により、いじめを行う者は、自らの主張だけを書き込んで、何事もなかったかのようにログアウトすることができ、インターネットの外で影響を受けることはない[17]。また、共感の欠如により、いじめを行う者は、そういったメッセージの投稿を最初から行うことが可能となる[5]。 人種差別的、性差別的、暴力的、または下品なオンライン上のコメントは、匿名性だけに起因するものではない[16]。こういったコメントは、他の人が同様の発言を行っている場合に発生する。すなわち、オンライン利用者は、オンラインへの投稿時に他のユーザーと同じような論調や、同じような丁寧さ(無礼さ)を保つよう振る舞う傾向がある[16][18]。 ^ a b

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アイス・ロード – Wikipedia

『アイス・ロード』(原題:The Ice Road)は2021年に配信されたアメリカ合衆国のアクション映画。監督はジョナサン・ヘンズリー、主演はリーアム・ニーソンが務めた。 ストーリー[編集] カナダ。イラク戦争の帰還兵でもあるマイクはトラックの運転手として生計を立てていた。ところが、ある日、マイクは弟(ガーティ)―同じくイラク戦争の帰還兵で、心的外傷に苦しめられている―を馬鹿にした同僚を殴りつけたばかりに職場を解雇されてしまった。そんな折、マイクは鉱山会社が腕利きのドライバーを募集していることを知った。同社が所有する鉱山で爆発事故が発生し、閉じ込められた作業員を救出して欲しいのだという。しかし、残された空気量は僅かしかなく、彼らを救い出すには凍結したウィニペグ湖をトラックで突っ切る必要があった。無謀極まりないミッションではあったが、マイクにはオファーを引き受ける以外の道はなかった。 マイクとガーティは他の3人(ゴールデンロッド、ヴァルナイ、タントゥ)と共に鉱山へと出発したが、湖氷に想像以上の苦戦を強いられることになった。しかも、ほどなくして、マイクたちはミッションを妨害せんとする真の敵の存在を知ることになった。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替。 2019年8月22日、ジョナサン・ヘンズリー監督の新作映画にリーアム・ニーソンが出演することになったと報じられた[2]。2020年2月、ローレンス・フィッシュバーンがキャスト入りすると共に、本作の主要撮影がカナダのウィニペグで始まった[3]。2021年3月29日、マックス・アルジが本作で使用される楽曲を手掛けるとの報道があった[4]。6月25日、本作のサウンドトラックとスコアアルバムが発売された[5][6]。 公開・マーケティング[編集] 2020年2月20日、本作の劇中写真が初めて公開された[7]。2021年3月1日、Netflixが本作の全米配信権を1800万ドルで購入したと報じられた[8]。5月18日、本作のオフィシャル・トレイラーが公開された[9]。 本作に対する批評家の評価は平凡なものに留まっている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには71件のレビューがあり、批評家支持率は42%、平均点は10点満点で4.8点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「この作品に出演したからと言って、リーアム・ニーソンが一流のアクションスターであるという評価が揺らぐことはない。しかし、『アイス・ロード』はここ数年のニーソン主演作と同じ欠点、つまり、ストーリーの展開が最初から最後まで予測できてしまうという欠点を有している。」となっている[10]。また、Metacriticには24件のレビューがあり、加重平均値は42/100となっている[11]。 外部リンク[編集]

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江角千代次郎 – Wikipedia

江角 千代次郎(えずみ ちよじろう、1864年12月16日(元治元年11月18日[1][2])- 1934年(昭和9年)6月19日[3][4])は、明治から大正期の地主、農業経営者、政治家、銀行家。衆議院議員。号・楽所、有所[2][5]。 出雲国出雲郡坂田村[1](島根県[3]出雲郡坂田村、出東村、簸川郡出東村[4][5]、斐川村、斐川町を経て現出雲市)で、大地主[2][5]・江角権蔵、すい の長男として生まれる[1][2][5]。普通学を学び[5]、黒田龍二から漢学を[5]、雨森精斎から和漢の歴史を学んだ[1][5]。 村会議員、町村組合会議員、簸川郡会議員、徴兵参事員、所得税調査委員などを務めた[1][2][3][4][5]。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(島根県第3区)で初当選し[1][2][5][6]、その後、第9回総選挙まで3回再選され、最後は大同倶楽部に所属し衆議院議員に連続4期在任した[3][4]。 また、公共、慈善事業に多額の寄付を行い[2]、実業界では、湖西銀行取締役[2]、同頭取を務め[1][3]、1926年(大正15年)に隠居した[7]。 国政選挙歴[編集] ^ a b c d e f g 『人事興信録 初版』876頁。 ^

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学校のカイダン – Wikipedia

この項目では、日本テレビ制作の土曜ドラマについて説明しています。学校を舞台とした怪談については「学校の怪談」を、そのほかの学校の怪談については「学校の怪談_(曖昧さ回避)」をご覧ください。 ライトノベル・2007年の映画「学校の階段」とは異なります。 『学校のカイダン』(がっこうのカイダン)は、2015年1月10日から3月14日まで毎週土曜日21:00 – 21:54[注 1]に日本テレビ系の「土曜ドラマ」枠で放送された日本のテレビドラマ。広瀬すず[1][2]の連続ドラマ初主演作となった。 キャッチコピーは「さあ、コトバの力で世界を変えろ。」。 生徒会長の役目を押しつけられた地味な女子高生が、天才的スピーチライターの教えを受け言葉の力によって学校に革命を起こす学園ドラマ[3]で、タイトルの「カイダン」とは階段のことであり、広瀬が演じる主人公の春菜ツバメがスピーチライターに導かれて「革命の階段を上る」ことを表している[4]。 あらすじ[編集] 通っていた高校が閉鎖となり、名門の明蘭学園高等学校に特別採用として編入した主人公の春菜ツバメ。明蘭高では校長・誉田蜜子の命により、ツバメのような立場の生徒たちが無償で受け入れられるプロジェクトを実施しているが、学園のトップを飾る集団「プラチナ8」からその生徒たちは「特サ(特別採用)枠」と見下されている。プラチナ8の権力を前に途方に暮れる特サ枠の生徒たち。さらにツバメはプラチナ8の策略で実質的な権力のない生徒会長の役目を押しつけられてしまう。そんな中、ツバメに興味を持った車椅子の青年・雫井彗がツバメに近づく。彗はツバメにスピーチのやり方を指導し、それに従ってツバメは全校生徒に学校の改革を宣言する。孤立無援の中で、ツバメは少しずつ周囲の生徒たちを味方につけるが、プラチナたちはさまざまな妨害をしかけてくる。しかし、ツバメに与えられたスピーチの力は彼らの心をも引き付け、ツバメの側につく生徒も現れる。 やがて、ツバメのバックにいる彗の存在が明らかになり、一時は生徒たちの信頼を失って窮地に陥るが、姿を現して自らスピーチをした彗の言葉に打たれた全校生徒たちは再びツバメに信頼を置く。教育に対する熱意を失っていた教職員たちも、ツバメの地道な説得に心を動かし、理解を示すようになる。しかし、校長・誉田の過去を知る教頭の金時は、彗がツバメと因縁を持つ明蘭高の元生徒であることに気付く。 彗は本名を伊勢崎トオルと言い、明蘭高の生徒会長だったが、5年前に当時のプラチナ生徒によるいじめのために障がいを負って学校を去り、その事件は誉田によって隠蔽された。その後教育の成果を売り物に教育大臣候補にまで上りつめた誉田を彗は憎み続け、復讐のためにツバメを含む歴代生徒会長たちに声をかけ、最終的には学校を潰すつもりで改革を煽っていたのだ。この事実がマスコミに暴露され、大臣内定を辞退した誉田は、責任を取ると称して別の学校法人に明蘭高を売却し、事実上廃校とすることを発表する。しかし、契約は誉田を理事とするという内容だった。彗は校長が再び教育者として表舞台にでることを阻止しようと、自らの命を絶つ計画を考える。彗を救いたいと考えたツバメは、生徒たちと校舎に立てこもり、マスコミに対して彗と校長、そしてツバメによる合同記者会見を行うことを宣言した。そこでツバメは自らの力でスピーチをし、誉田が贖罪の気持ちを持ち続けていたことを明かして彼らを和解に導き、彗に対する自分の恋心を明かす。誉田は学校売却を中止し、彗の真の願いである学校への復帰を叶えたのち校長を辞任する。その後、3年生になったツバメと、脚の障がいを克服して2年生に復帰した彗ことトオルが、一緒に登校する場面で物語は終了した。 キャスト[編集] 主要人物[編集] 春菜 ツバメ(はるな ツバメ) 演 – 広瀬すず[5]

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ウルトラマン – Wikipedia

『ウルトラマン』は、1966年7月17日から1967年4月9日まで、TBS系列で毎週日曜19:00 – 19:30(JST)に全39話が放送された、TBS・円谷プロダクション制作の特撮テレビドラマ、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローの名称である。 武田薬品の一社提供枠「タケダアワー」内で放送[注釈 2]。TBSにて最初にカラーで放送された特撮テレビ番組でもある[1]。『ウルトラQ』放送中の1966年4月1日に、初めてマスコミに公開された[1]。 本作品はテレビドラマ(以下、テレビシリーズ)の他、漫画や劇場用映画、小説、テレビゲームなどでメディア展開も行われているが、本項目ではテレビシリーズを中心に記述する。また、本作品に続いて放送された一連の番組、およびその作中に登場する巨大変身ヒーローも「ウルトラマン」と総称される場合があり、便宜上これら後続作品のヒーローと区別するため、本作品に登場するウルトラマンを「初代ウルトラマン」と呼ぶ場合もある。種族としてのウルトラマンについては別節を参照。 概要 横浜マリタイムミュージアム前に設置された4.5メートルの初代ウルトラマンの巨大立像。 本作品は、怪獣や宇宙人によって起こされる災害や超常現象の解決に当たる科学特捜隊と、それに協力するM78星雲光の国の宇宙警備隊員であるウルトラマンの活躍劇である。作中に登場する怪獣が好評だった『ウルトラQ』に続く「空想特撮シリーズ」の第2作として[2]、『ウルトラQ』の世界観を継承する番組として制作・放映された。オープニングタイトルの流れはカラー化された『ウルトラQ』のタイトルロゴ映像から赤画面になり、上に『ウルトラマン』、下に『空想特撮シリーズ』とクレジットされる[注釈 3][注釈 4]。 番組フォーマットは、タケダアワーのOP→タイトル画面→CM→OPテーマ→本編(途中でCMを挟まずラストまで放送)の順番で、本編開始の画面下には『カラー』のマークがあった[3][注釈 5]。 テレビシリーズがスタートするや否や『ウルトラQ』を凌ぐ人気番組となり、本放送時の第1話の視聴率は34.4%[3]、平均視聴率は36.8%[4]、最高視聴率は42.8%(1967年3月26日放送の第37話。ビデオリサーチ調べ、関東地区)[5]を記録。テレビシリーズの放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録した。海外でも1970年代から100を超える国・地域で放映されてきた[6]。 テレビシリーズ初放映から半世紀以上が経過した今日も世代を問わず高い認知度を誇り、『決定! これが日本のベスト100』(テレビ朝日系列)の2002年9月8日放送分「特撮&アニメ ヒーロー&ヒロインベスト100」の第2位にランクインしている[7]。固有名詞としての「ウルトラマン」は、『広辞苑』の見出しにも記載されている[8]。また、第39話(最終回)でウルトラマンがゼットンに倒されたシーンは、初放映当時の子供たちに少なからぬ衝撃を与え、影響を受けたと語る著名人も多い。前田日明は「ウルトラマンの敵(かたき)を討ってやる!」と、格闘技を始めたきっかけになったことを語っている[9]。 商業的にも成功を収め、本作品やそのキャラクターに関連する商品は玩具だけでなく、生活用品などあらゆる分野で発売されている。商業的側面から本作品で特筆すべき点は、日本のテレビ番組で初めて商品化権の入札制度を導入したことである[注釈 6]。本作品が制作される以前は、テレビ局の担当者とコネがある業者が商品化権を取得していたが、本作品で前述の制度が導入されて以降は金のあるものから優先的に商品化権取得の機会が与えられるようになった。もっとも、実際のところは『ウルトラQ』を商品化したマルサン商店などの業者が優遇されており、本格的に入札制度が機能するのは次作『キャプテンウルトラ』以降である。 物語の骨子

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メッツ-ウィレッツ・ポイント駅 (IRTフラッシング線) – Wikipedia

メッツ-ウィレッツ・ポイント駅(Mets–Willets Point)はニューヨーク市地下鉄IRTフラッシング線の駅で、クイーンズ区ウィレッツ・ポイントにある。以前はウィレッツ・ポイント-シェイ・スタジアム駅(Willets Point–Shea Stadium)という名前だった。終日7系統が停車する。また、ラッシュ時の混雑方向やニューヨーク・メッツの試合時、そしてテニス全米オープン開催時には系統も停車する。駅はルーズベルト・アベニューの114丁目-126丁目にあるフラッシング・メドウズ・コロナ・パーク の中にある。駅の北側にあるシティ・フィールド(1964年から2008年まではシェイ・スタジアム)でのニューヨーク・メッツ戦や、南側のUSTAビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニス・センターでのイベント開催時には非常に混雑する。 メッツ-ウィレッツ・ポイント駅は、ウィレッツ・ポイント・ブールバード駅という駅名で1927年5月7日に開業した[4]。当時はウィレッツ・ポイント・ブールバードと126丁目およびルーズベルト・アベニューの交差点にあり、フラッシング線各駅停車が止まるだけでプラットホームに繋がる2本の階段と短い上屋があるだけの地味な駅だった。1936年に1939年ニューヨーク万国博覧会がフラッシング・メドウズ・コロナ・パークで開催されることになったため、予想される混雑に対応できるように現在地に移転したうえで改築され、急行停車駅に格上げされた。 1936年12月には、さらなる混雑に対応するために3面4線に拡張して両方向とも毎時40本が停車可能とすることが計画された[5]。万博輸送のための特別急行列車は1939年4月24日から運行された[6]。北行き相対式ホームとスロープは、再びフラッシング・メドウズ・コロナ・パークで開催されることになった1964年ニューヨーク万博の際に増築された。その後、シェイ・スタジアムが建設されるとしばらく後にウィレッツ・ポイント-シェイ・スタジアム駅に改称された。現在、1927年開業当初の名残は駅のすぐ東側で見ることができ、古い相対式ホームの鉄骨や以前の改札内エリアの一部が残っている。気付きやすいのは南行き相対式ホームが現在の11両編成よりずっと長くなっていることであろう。現在の待合所の東側の部分は以前の南行きホームの一部だが、修繕されないままで立ち入り禁止になっている。 マンハッタン方面ホームの閉鎖区画にある改札跡 ニューヨーク・メッツの平日夜の試合に合わせたマンハッタン方面の急行列車は2007年7月に導入され、2008年4月には平日夜と休日の全試合について試合終了後に運行されるようになった。この超急行列車は、マンハッタンまでの停車駅はクイーンズ区内の3駅(61丁目-ウッドサイド駅、クイーンズボロ・プラザ駅、コート・スクエア駅)のみで、所要時間は約1時間である[7][8][9]。試合後にはマンハッタン方面行き各駅停車は南行き相対式ホームに停車し、マンハッタン方面行き急行とフラッシング-メイン・ストリート方面行きは島式ホームに停車する。 シェイ・スタジアムの閉鎖・解体に伴い、MTAは駅名をシンプルなメッツ-ウィレッツ・ポイント駅に改称した。これは企業名を含む駅名(シティ・フィールドはシティグループが命名権を購入した)を避けるためである。MTAは命名権取引に成功していないが、駅名を自由にしてよいという条件で競売にかけることはないと考えられる[10]。もし命名権取引が成立していれば、駅名はウィレッツ・ポイント-シティ・フィールド駅になっていた可能性もある[11]。 2015年1月20日にニューヨーク州知事のアンドリュー・クオモはグランド・セントラル・パークウェイ上に新交通システム エアトレイン・ラガーディア(英語版)を建設する計画を発表した。これは、当駅とラガーディア空港を結ぶものである[12][13]。 メッツ-ウィレッツ・ポイント駅は3面3線の構造であるが、レイアウトが非常にユニークで、北から南行き相対式ホーム、南行き緩行線、両方通行の急行線、島式ホーム、北行き緩行線、北行き相対式ホームの順に並んでいる。 北行き(フラッシング-メイン・ストリート駅方面)の列車は通常は島式ホームで客扱いを行い、北行き相対式ホームはメッツ戦の開催日や全米オープン・テニスなどテニス・センターでのイベント開催時のみ使用される。駅の南側には中二階と北行き相対式ホームを結ぶスロープがあり、コロナ車両基地の上を通ってロングアイランド鉄道ポート・ワシントン支線のメッツ-ウィレッツ・ポイント駅に向かう横断歩道橋(パスレル・ボードウォークと呼ばれている)に繋がっている。線路およびホームの下に設けられた中二階は全長に渡って木造である。駅北側にはシティ・フィールドのジャッキー・ロビンソン・ロタンダに直接行ける階段が設けられている。 夕方ラッシュ時には何本か当駅止まりの各駅停車が設定されており、この列車は急行線に停車する[14]。 駅の西側には、緩行線と急行線、それに111丁目行きの北側引揚線の間の渡り線が設けられている。駅の東側には急行線から南北両方向の緩行線への渡り線が設けられている(緩行線から急行線に進入することはない)[15]。 障害者対応[編集] 2009年に北行き相対式ホームは障害を持つアメリカ人法(ADA)に基づいて障害者対応が図られた。メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ(MTA)は400万ドルを投じてルーズベルト・アベニューの南側から駅の中二階までの間にスロープを整備した。また、中二階からホーム階までのスロープもADAに準拠するよう改修された。このスロープはニューヨーク市公園レクリエーション局が保有・管理している[16]。 この改修工事まで、当駅は障害を持つ利用者にとって不便な駅であった[17]。対照的に、ヤンキー・スタジアム最寄りの161丁目-ヤンキー・スタジアム駅やマディソン・スクエア・ガーデン最寄りの34丁目-ペン・ステーション駅、バークレイズ・センター最寄りのアトランティック・アベニュー-バークレイズ・センター駅など、ニューヨーク市内の主要なスポーツイベント会場の最寄り駅はこれ以前にすべて障害者対応になっていた。北行き各駅停車は、メッツ戦やイベント開催時のみ相対式ホーム側のドアで客扱いを行う。 歩道橋は、以前はケーシー・ステンゲル・プラザを超えて北に延びており、長い円弧型の階段を下りて改札口を抜けるとシェイ・スタジアムのゲートEに出ることができた。

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ボロト・テムル – Wikipedia

ボロト・テムル(Bolod-Temür, ? – 至正25年7月29日(1365年8月16日))は、大元ウルスの将軍。漢字表記は孛羅帖木児。 チンギス・カン以来のモンゴル譜代部将の子孫で、サルジウト部の出身。父のタシュ・バートルは四川・雲南方面の反乱鎮圧に活躍し宰相格の中書平章政事にのぼった軍閥である。ボロト・テムルは早くから父に従って反乱軍の討伐に活躍し、父の死後にその軍を引き継いだ。至正18年(1358年)には河南行省平章政事の肩書きを与えられ、河南に派遣されて開封を占拠する劉福通らの紅巾軍と戦って河南・山東の各地を転戦し、紅巾軍を打ち破って大きな戦功を残した。 至正19年(1359年)には元の首都大都の西にある要衝大同に入城し、山西の北部から内モンゴルの南辺を支配する大軍閥に成長する。しかし、やがて劉福通との戦いにともに活躍した河南の軍閥チャガン・テムルと山西南部の太原の支配をめぐって争うようになり、この軍閥同士の争いが宮廷における皇太子アユルシリダラと、その父ウカート・カーン(順帝トゴン・テムル)の側近たちとの権力争いと結びついて深刻な抗争となった。ボロト・テムルはもうひとつの首都上都に勢力を伸ばしたために中央政府の政治と軍事を一手に握ろうと目論む皇太子アユルシリダラと不和であり、反皇太子派の重要な後ろ盾となったので、皇太子は逆にチャガン・テムルおよびその後を継いだココ・テムルと結んだ。 至正24年(1364年)、宮廷において反皇太子派の高官が皇太子アユルシリダラによって処刑される事件が起こり、これをとりなして刑の減免を願い出たボロト・テムルも大同駐留を免ぜられる事件が起こった。これを聞いたボロト・テムルはついに決起して軍を居庸関に送り込んで大都に圧力をかけ、皇太子アユルシリダラを逃亡させるとともに政府に迫って皇太子派の高官を引き渡させた。ボロト・テムルが一旦兵を引くとアユルシリダラはココ・テムルに命じて大同を攻撃する一方、自らは大都に戻って対抗しようとしたが、かえってボロト・テムルが主力の大軍をもって大都に迫ったので、ついにアユルシリダラは大都を脱出して太原のココ・テムルのもとに逃げ込んだ。 ボロト・テムルは大都に入城するとウカート・カーンから中書右丞相に任命され、全権を掌握した。大都においてボロト・テムルは宦官やチベット仏教の僧侶を宮廷から追放してトゴン・テムルの宮廷の弊を払おうとしたが、ウカート・カーンの寵臣をはじめ多くの人々を些細な罪で殺害したため、宮廷の不満を買うばかりであった。さらにボロト・テムルに帰京を要請されたアユルシリダラは帰京を拒み、翌年ココ・テムルと結んでついにボロト・テムル打倒の兵をあげた。 ココ・テムルの軍が大都に向けて進軍してくると、ボロト・テムルは迎撃のために軍を送り出したが、迎撃軍はもとより戦意を持たず、アユルシリダラとココ・テムルに降った。ボロト・テムルはこれに驚き、自ら迎撃の軍を率いて出ようとしたが、悪天候のため大都を離れられず失敗した。 ボロト・テムルは苦境に陥ると疑心暗鬼に陥って恐怖政治をひきはじめたので、当初よりその政権に不満を募らせていたウカート・カーンはついにボロト・テムル誅殺の密命を側近の義王コシャンに下し、コシャンは同志を集めてボロト・テムル暗殺計画を立てた。至正25年(1365年)7月、上都において味方が勝利したとの報を受けたボロト・テムルはこれを上奏するために宮殿に向かったが、建物の前の樹下に伏せていた刺客たちに襲われ、殺害された[1]。 ボロト・テムルの死後、その軍閥はことごとく討ち滅ぼされてアユルシリダラとココ・テムルが政権を奪った。ボロト・テムルはその抜群の戦功にもかかわらず、内紛の中で逆臣として殺害されたので、『元史』の「逆臣伝」中に伝が残されることとなる。 サルジウト部ボロルタイ家[編集] ボロルタイ(Boroldai >孛羅帯,bóluódài) ^ 『元史』巻117列伝4寛徹普化伝,「至正二十四年、孛羅帖木児称兵犯闕、遂為中書右丞相、総握国柄、恣為淫虐。和尚心忿其無君、数為帝言之。受密旨、与儒士徐士本謀、交結勇士上都馬・金那海・伯顔達児・帖古思不花・火你忽都・洪宝宝・黄哈剌八禿・龍従雲、陰図刺孛羅帖木児。帝期以事済、放鴿鈴為号、徐士本掌之。明年七月、孛羅帖木児入奏事、行至延春閣李樹下、伯顔達児自衆中奮出、斫孛羅帖木児、中其脳、上都馬等競前斫死之」 参考文献[編集] 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年

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津軽じょんから節 – Wikipedia

津軽じょんから節(つがるじょんからぶし)は青森県津軽地方に伝わる日本の民謡。地方によっては「津軽じょんがら節」とも発音・表記される。日本全国的に知られ、津軽三味線の伴奏と共に唄われる他、三味線演奏だけが行われる「曲弾き」も良く知られる。単に「じょんから(じょんがら)節」とも。 津軽三味線による派手な演奏で良く知られ、「津軽よされ節」「津軽おはら節」と共に津軽三つ物の一つであり、またその代表ともされる[1]。 津軽じょんから節は瞽女や座頭によってよく唄われた北陸の「新保広大寺くずし」を元唄とし、津軽にはいり発展した[2][3]。単に「じょんから節」と呼ばれる場合、津軽に伝わるこの津軽じょんから節を指す場合も多いが、石川県野々市市の「野々市市じょんから節」白山市の「柏野じょんがら踊り」など、他の地方にも「じょんから(じょんがら)」と呼ばれる唄が伝わっている[2]。 津軽三味線によって行われる演奏の曲調はこれまでに数度変化しており、現代のじょんから節の曲調は古来の「じょんから口説」からは離れている[1][2][4]。大きく新民謡流行以前の(1887年(明治20年)頃より前の)ものを「旧節」、昭和初期までのものを「中節」、それ以降の(特には戦後に流行した)ものが「新節」と呼ばれ、2021年現在では旧節のような民謡としての前弾き・民謡の伴奏へと立ち返りながらも盛り上げる「新旧節」がある[1][2][5]。 じょんから節発祥伝説が青森県黒石市(旧・浅瀬石村)に伝わっている[1]。1597年(慶長2年)、浅瀬石城主・千徳政氏が大浦為信によって討たれたが、為信は追い打ちを止めず千徳家の墓所を掘り起こそうとした[1]。これに菩提寺の神宗寺の僧侶・常縁が抗議したために為信によって追われ、常縁は浅瀬石川に身投げすることとなった[1]。この身投げした河原が「常縁河原」と呼ばれのちには「上河原」へと変化した。伝説ではこの常縁の物語を口説唄にした「上河原節」が「じょんから節」となったと伝えられる[1]。黒石市ではこの口説唄「上川原口説き」「黒石じょんから」を津軽じょんから節の元唄であるとしており[6]、「津軽じょんから節の発祥の地」の石碑が当地の民謡家によって建てられている[6][7]。 2020年3月には上妻宏光の『TSUGARU』に旧節・中節・新節が収録されるなど、21世紀にはいっても津軽じょんから節は広く唄われ、演奏される[8]。 津軽じょんから節では多く自由な即興演奏が行われる。戦前にレコードに録音された白川軍八郎による旧節でも確認されるように、節を問わず多く即興演奏が行われた[4]。戦後、新節が流行すると中節で用いられていた三拍子の旋律的装飾音は捨てられ、強く弦を叩く弾法へと変わり、旧節・中節のように唄の構造が重視されない前奏部分が重視されるようになった[9]。 また、津軽じょんから節では、曲弾きといわれる津軽三味線だけの演奏が広く行われる[5]。「発祥の地」の黒石市では毎年「本場津軽民謡全国大会」が行われるが、津軽じょんから節部門では「唄の部」「踊りの部」の他「三味線の部」があり、じょんから節の曲弾きが競われる[10]。津軽三味線の競技会である「津軽三味線世界大会」でも曲弾きが競われ、民謡が歌われるものは別途「唄付き」として分けられている[11]。 ハァー お国自慢の じょんから節よ 若衆唄えば 主人の囃し 娘踊れば 稲穂も踊る (ソリャ ハイサ ハイヨー) ハァー お山かけたよ

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