Month: January 2018

西東京市立田無小学校 – Wikipedia

西東京市立田無小学校(にしとうきょうしりつ たなし しょうがっこう)は、東京都西東京市田無町四丁目にある公立小学校である。 学校は西武新宿線の田無駅から西方向に程近く位置し、田無駅北口を出て駅前広場を西方向に進み、田無北口商店街の中を通り抜けると、徒歩で4分程の距離である。 経緯[編集] 刑部真琴像(2015年5月撮影) 田無小学校の歴史は古く、武蔵野国の士族、刑部鉄太郎(おさかべ てつたろう)の二男の刑部真琴(おさかべ まこと)[1][2][3][4]が、漢学や書を学び、学校では習字を教えながら珠算や数学を学んだことに端を発する。刑部真琴は、1872年(明治5年)明治政府が全国に小学校を設置した「学制」を定めたとき、開港したことで賑わっていた横浜に出て小学校で教鞭を執っていた。 1873年(明治6年)8月25日、神奈川県第十一大区、第八中学区第百二十四番小学、真誠学舎を田無村下宿、当時の密蔵院に開く[5]。 密蔵院と総持寺 田無の寺社は総持寺が一番大きく、元は西光寺と称して新義真言宗、石神井三寶寺末であった。明治初年に同じ宿内の密蔵院、観音寺、両寺を併せ、今の名に改めた。密蔵院はもと西光寺の側にあり、同じく新義真言宗三寶寺末で、除地は三石五斗五升与えられていた。観音寺は宿の西方にあり、同じく新義真言宗三寶寺末であった。以上の三寺は1868年(明治元年)振武軍の駐屯所となった[6]。 年表[編集] 1873年(明治6年)8月 – 小学真誠学舎を田無町密蔵院に開く[7]。 1875年(明治8年)7月 – 田無学校と校名を改称する。 1914年(大正3年)

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リーシュ – Wikipedia

この項目では、紐について説明しています。アイルランドの地名については「リーシュ県」をご覧ください。 サーフボードのリーシュ リーシュ (leash) は、何かが離れないよう繋ぎ止める紐である。リーシュコードとも呼ぶ。犬などのペット動物・サーフボードなどが人から離れないよう繋ぎ止める用途に用いられる。 アンリーシュ (unleash) とは、繋ぎ止めていた紐を離すことを指す。 船を岸に繋ぎ留める綱は舫い綱(もやいづな)と呼ぶ。 ペット動物[編集] ペット動物、特に犬の首輪につけ飼い主が握る紐である。リードとも呼ばれる。 サーフボードやボディボード又はスノーボードやスキー・スキーボード等が体から離れないようつなぎ止めておく紐である。ボード等が流されてしまったり斜面を勝手に滑ってしまった場合、本人でなく他の人間が事故に遭う可能性があり、それを予防するための紐である。 サーフボード スタイルにもよるが、通常、ボードの後端と、後ろ側の足首をつなぐ。ボードには、リーシュを通す穴(貫通した孔ではなく、表面の凹みで、リーシュを縛る桁が渡してある)があいている。長さとしては、使用する板によって違いはあるものの大体6フィートから8フィート位である。 ボディボード サーフボードと違い腹ばいにボードに乗るボディボードの場合は、足では無く腕にリーシュを装着する。ボードには元からリーシュが装着されているモノと任意でリーシュ装着部分の穴を開けるものとに分かれる。又、腕に装着する関係上、パドルの邪魔にならないようコイル状に巻かれているモノが主流である。 スノーボード スノーボードは、サーフボードと同じく横乗りと言う共通点はあるものの、重心を前傾に保つことが多い為リーシュは前側の足につなぐ。ボード側にはリーシュの穴と言う物は存在せず、前側の足のバインディングに装着する。スキー場によってはリーシュを付けていないとリフトに乗せてもらえない場合もある。 スキー・スキーボード(ファンスキー) スキーの中でも簡易バインディング(ビンディング)が装着されている板(特にスキーボードやファンスキーと言ったショートの物)は、通常の開放機能の付いているバインディング(ビンディング)のような流れ止め機能(スキーブレーキ)を持たない為、リーシュコードを両足それぞれに装着する。リーシュは踵部分のヒールカップから伸びている物が殆どである。また、主に山岳スキーやバックカントリースキーにおいて、ビンディングにスキーブレーキが装着されていないスキー板が使われる事があるほか、スキーブレーキ装着の有無に関係なく、深雪での転倒時に外れたスキー板が紛失したり回収不可能(外れたスキー板の場所まで移動が困難や不可能)[1]になる事もあり、スキーの回収を容易にする目的と遭難防止のために、従来より「流れ止め」とも呼ばれるリーシュがよく使用されている。

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下山保男 – Wikipedia

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動 検索に移動 下山 保男(しもやま やすお、1947年6月6日 – )は、日本の元裁判官[1]。 異動履歴[編集] 主な担当審理[編集] 1998年12月2日:宇都宮線痴漢冤罪事件控訴審判決(東京高裁第三刑事部陪席裁判官) 2000年2月28日:JT女性社員逆恨み殺人事件控訴審判決(東京高裁第三刑事部陪席裁判官、裁判長:仁田陸郎) 2011年4月12日:闇サイト殺人事件控訴審判決(名古屋高裁裁判長) 第一審・名古屋地方裁判所で死刑判決を言い渡されて控訴していた被告人・堀慶末に対しては、犯行の計画・実行行為においての主犯(控訴取り下げ、死刑確定)との犯行で果たした役割の差、および交通事犯の罰金前科以外に前科がなかったことから「矯正の余地がある」、「殺害された被害者は1人」などとして死刑判決を破棄し、もう1人の被告人(第一審・無期懲役判決、求刑:死刑)と同様に無期懲役判決を言い渡した。同判決はその後2012年7月の最高裁判所第二小法廷決定(千葉勝美裁判長)により、検察側の上告が棄却されたことで確定した(検察側の上告は堀に対してのみ。一審二審ともに無期懲役判決を受けた被告人に対しては、検察側も被告側も上告せず無期懲役が確定)。 しかし堀は最高裁決定直後の2012年8月以降に碧南市パチンコ店長夫婦殺害事件(1998年発生)など連続強盗殺傷事件への関与が発覚して強盗殺人・同未遂罪などで相次いで再逮捕・起訴された。結局、堀はそれらの事件により名古屋地裁・高裁で死刑判決を受け、2019年7月に最高裁第二小法廷(山本庸幸裁判長)の判決で上告が棄却され、訂正申し立ても2019年8月7日付で棄却されたため死刑が確定した。 2012年5月25日:名張毒ぶどう酒事件第7次再審請求差し戻し審決定(名古屋高裁、裁判長) 「捜査段階における被告人(→死刑囚・2015年に病死)の自白は信用性が高い」と判断して検察側の異議申立てを認め、本件の再審開始取り消しを決定した。弁護団が提出した新証拠について「毒物がニッカリンTでないと証明するだけの証拠価値はない」と判断した[2]。 日本弁護士連合会(日弁連会長:山岸憲司)は同日付で同決定を「新証拠によって生じた疑問が解消されていないにもかかわらず、検察官も主張しておらず鑑定人さえ言及していない独自の推論をもって新証拠が『犯行に用いられた薬剤がニッカリンTではあり得ないということを意味しないことが明らかである』として再審請求を棄却した」と非難する声明を出した[3]。 関連項目[編集]

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マンフレッド・マン – Wikipedia

マンフレッド・マン、2017年にドイツ、フライブルクで開催されたツェルト・ムジークフェスティバルで。 マンフレッド・マン (Manfred Mann) の芸名で知られるマンフレッド・セプス・ルボウィッツ (Manfred Sepse Lubowitz[1], 1940年10月21日 – ) は、南アフリカ共和国出身のキーボード奏者、アレンジャー、歌手、ソングライター。彼は、マンフレッド・マン、マンフレッド・マン・チャプター・スリー、マンフレッド・マンズ・アース・バンドの創設メンバーおよびバンド名の由来として最もよく知られる。 生い立ちおよび経歴[編集] ルボウィッツはヨハネスブルグのユダヤ人家族で、デビッド・ルボウィッツとアルマ・コーエンの間に生まれる[2]。彼はウィットウォーターズランド大学で音楽を学び、ヨハネスブルグの多くのクラブでジャズピアニストとして働いた。生まれ故郷の南アフリカのアパルトヘイトに強く反対し[1]、ルボウィッツは1961年にイギリスに移住し、マンフレッド・マン(Manfred Manne, ジャズドラマーのシェリー・マンにちなむ)という名で「ジャズニュース」の執筆を開始した。名前はまもなく Manfred Mann と短縮された[3]。翌年彼はクラクトンの海水浴場のホリデーキャンプでドラマー兼キーボード奏者のマイク・ハグと出会う。彼らは共に、マン・ハグ・ブルース・ブラザーズという大人数のブルースジャズバンドを結成した。このバンドは最終的に5つのグループに発展し、1963年にEMIとのレコード契約を結んだ。 彼らはレーベルのレコードプロデューサーの提案でバンドの名をマンフレッド・マンに変更し、1964年から1969年にかけて「Do

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ネストル・オルティゴサ – Wikipedia

ネストル・オルティゴサ ロシアW杯南米予選エクアドル戦の前日会見時(2016年) 名前 本名 ネストル・エセキエル・オルティゴサNéstor Ezequiel Ortigoza ラテン文字 Néstor ORTIGOZA 基本情報 国籍 パラグアイ アルゼンチン 生年月日 (1984-10-07) 1984年10月7日(37歳) 出身地 サン・アントニオ・デ・パドゥア(英語版) 身長

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源平討魔伝 巻ノ弐 – Wikipedia

『源平討魔伝 巻ノ弐』(げんぺいとうまでん かんのに)は、1992年4月7日に日本のナムコから発売されたPCエンジン用横スクロールアクションゲーム。日本国外でのタイトルは『Samurai-Ghost』。 同社のアーケードゲーム『源平討魔伝』(1986年)の続編であり、前作で倒された後「魔界日本」と呼ばれる世界で復活の機会を窺う頼朝を討つため、再び甦った景清が「鎌倉あぎと」を目指し旅立つという内容になっている[2]。前作に存在した横モードや平面モードはなくなり、BIGモードのみになったためにゲーム性が大幅に変更された事を特徴としている[2]。 開発はナウプロダクションが行い、プログラムはファミリーコンピュータ用ソフト『ワギャンランド』(1989年)を手掛けた東尾直樹が担当、音楽はファミリーコンピュータ用ソフト『高橋名人の冒険島II』(1991年)を手掛けた奥山みよしが担当、美術はPCエンジン用ソフト『ドラゴンセイバー』(1991年)を手掛けた守谷勝と吉田卓史が担当している。 2007年にWii用ソフトとしてバーチャルコンソールにて配信された。 ゲーム内容[編集] 前作からの変更点[編集] ゲームシステムは基本的に前作を踏襲しているが、以下のような変更点がある。 全ステージが、前作でいうBIGモードに統一され、浮遊する要石に乗る・段差があるなど、横モードにあったジャンプアクションの要素が取り入れられた。 前作の「穴」が無くなり、かわりに溶岩や毒の沼など徐々に体力が減る危険地帯が導入された。 敵の攻撃を一度だけ防御する「中段の構え」と空中から剣を突き立てる「兜割り」のアクションを追加。 いくつかのステージを一纏めにしたラウンド制を採用し(全7ラウンド)、各ラウンドの最後にボスキャラクターが登場する。いくつかのラウンドには前作に似たステージの分岐があり、さらに中ボスを倒すとボーナスステージへ進める鳥居が現れる。 三種の神器のうち、草薙剣(および剣の値)を廃止、代わりに前作の衝撃波・旋風剣を含む5種類の剣術アイテムが登場する。八尺瓊勾玉と八咫鏡は回数制限のある通常アイテムとして登場。これにより、頼朝を倒すために神器を集める必要はなくなった。 体力に加え、残り人数の概念(残機制)が導入。残り人数が残っている時に体力が無くなった場合は基本的にそのステージの初めからのやり直しになる。 前作の徳(得点)は攻略上意味を持たなかったが、今回は一定点に達すると残り人数が増加するため、得点稼ぎが多少攻略上の意味を持つようになった。 中ボスとして出現する琵琶法師を(裏技なしで普通に)倒せる。 剣力を表わす数値がなくなり、剣の威力が一定になった。[3] 永久パターン防止キャラクターの鳥が出現しないかわりに、一定時間前進しないと、後ろ(画面左端)から溶岩流が迫ってきて、触れるとダメージを受ける。 各ラウンドのボスとして、骸骨、義経、弁慶など前作のBIGモードに登場する敵のほか、魔神や鬼姫のように他モードのザコ敵からボスキャラクターに格上げされたものが登場する。頼朝は前作では顔と体の色しか変わらなかったが、本作ではイメージイラスト同様の外見に変身する。また今作にボスとして木曽義仲が初登場している。

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アメリカ合衆国内閣 – Wikipedia

アメリカ合衆国内閣(アメリカがっしゅうこくないかく、英: Cabinet of the United States)は、アメリカ合衆国の副大統領や各省長官(閣僚)および閣僚級高官で構成される会議体。「大統領顧問団」とも訳される[1] アメリカにおいて「Cabinet」とは、議院内閣制の国における首相を中心とした合議体の内閣とは異なり、大統領が任免する12名の各省長官により構成され、大統領が主宰する会議体を意味する。憲法上に規定がない慣例上の制度であるため、閣員は何らの法的地位も権限も有していない。また各閣員は大統領に対して責任を負うが、合議体として連帯責任を負うことはない。いわば大統領の諮問機関であり、議院内閣制の国における内閣に相当する機関は、アメリカにおいては大統領である[2]。 議院内閣制の先駆であるイギリスでは、行政権が内閣にあり、その行使に関し、首相を含めて内閣を構成する閣僚全員が連帯して議会下院に責任を負う。日本においても行政権は内閣にあり[3]、首相を含めて内閣を構成する閣僚全員が連帯して国会に責任を負う[4]。それに対しアメリカ合衆国では、行政権を管轄する大統領はその地位を維持するために議会の信任を必要とせず、一旦任命された閣僚は大統領に対してのみ責任を負う[5]。閣議に相当する会合も開かれるが、あくまで諮問会議であり、最終的には大統領の判断に任される。エイブラハム・リンカーン大統領が全閣僚の反対に遭った際に「賛成1、反対7。よって可決。」と諧謔的に述べた逸話もある。 閣僚・閣僚級高官は、連邦議会議員や州知事(英語版)との兼務・兼職を禁止され、連邦議員や州知事が閣僚に就任する際は、その職を辞さなければならない。 閣僚・閣僚級高官は、一部の例外を除き、大統領の指名と上院の過半数による承認[6]と宣誓を経て大統領から任命される。大統領の所属党と上院の多数党が異なる場合でも、概ね大統領の所属党の人物が選ばれる。なお、内閣に含まれる副大統領は基本的には公選職であり、また首席補佐官などは議会の承認手続きを経ずに大統領が任命する。 閣僚・閣僚級高官[編集] オバマ政権時の閣僚・閣僚級高官の面々(2012年7月26日撮影) 以下は、2021年発足の民主党ジョー・バイデン政権の内閣。 以下の表中、「順」は、大統領権限継承順位を示す。表中にない第1位、第2位、第3位は、それぞれ副大統領、下院議長、上院仮議長である。表中で番号のない、エネルギー長官及び国土安全保障長官は、現在の在任者が憲法上大統領に就任する資格(出生による合衆国市民)がないためである。画像の列のソートボタンで元の順序に戻る。 閣僚[編集] 閣僚級高官[編集] 外部リンク[編集]

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サナト・クマーラ – Wikipedia

サナト・クマーラ、サナートクマラ、サナット・クマラ、サナト・クマラ(Sanat Kumāra)は、ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人である。 近代神智学では、1850万年前に金星から、地球のロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における代理人としてやってきた霊的指導者マハトマである。「世界君主」として、マハトマの頂点に位置して、人類を含めた全ての生命体の「進化」を統括しているとされる[1]。 ヒンドゥー教とジャイナ教におけるサナト・クマーラ[編集] サナト・クマーラとはサンスクリット語で「永遠の若者」を意味する。 ヒンドゥー教の宗教文書『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』7章ではリシ・ナーラダとの対話篇が記述されている。『ラーマーヤナ』でも彼の名やエピソードが挙げられ[2][3]、『シヴァ・プラーナ』には「サナト・クマーラ・サンヒター」と呼ばれる部分がある。 ジャイナ教では神である[要出典]。 神智学的観点の影響を受けた人々の主張によれば、ひとを引き付け、全ての信仰信条の人々を団結させるサナト・クマーラのための神殿はスリランカのカタラガマにある聖地に位置している[4]。 近代神智学[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “サナト・クマーラ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年5月) サナト・クマーラ(以下、近代神智学の記述に従い、サナット・クマラとする)は、近代神智学提唱者であるヘレナ・P・ブラヴァツキーが言及し、炎の主方に属するとしたが、その説明は簡素であり[5]、後に、神智学協会から分派したアルケイン・スクールのアリス・ベイリーやシェア・インターナショナルの創始者ベンジャミン・クレーム(英語版)などが発展させ、詳細な設定を追加した。 サナット・クマラは、地球の惑星ロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るために、1850万年前に金星からやって来たとされる。サナット・クマラは、当時から現在までも、エーテル体を纏っている。

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今井城 (越後国) – Wikipedia

この項目では、新潟県中魚沼郡津南町の城について説明しています。 その他の同名の城については「今井城」をご覧ください。 今井城(新潟県) 城郭構造 山城 天守構造 なし 築城主 今井兼平? 築城年 不明、平安時代末? 主な城主 市河氏、金子次郎右衛門 廃城年 慶長3年(1598年)頃 遺構 曲輪、空堀、土塁、畝形阻塞 指定文化財 新潟県指定史跡[1] 再建造物

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本多錦吉郎 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年4月) 観梅図。1892年。東京国立博物館蔵[注釈 1] 本多 錦吉郎(ほんだ きんきちろう、1851年1月3日(嘉永3年12月2日) – 1921年(大正10年)5月26日)は、明治時代の洋画家・風刺漫画家・造園家。号は契山[要出典]。 青山隠田(現・東京都渋谷区神宮前)にあった広島藩の江戸屋敷で、本多房太郎の長男として生まれた。8歳の時、父が没し、15歳と言うことにして、家督を継いだ。1863年(文久3年)(12歳)、広島へ下り、1865年の第二次長州征伐に従軍した[要出典]。 広島藩校の洋学所(現・修道中学校・修道高等学校)で洋式兵学を修め[注釈 3]、英国帰りの野村文夫に英語を学び、藩校の助教授になったが、1871年(明治4年)廃藩置県になって上京し、慶應義塾で一年英学を修め、翌73年に工部省測量司の測量学校に2期生として入学した。そこの測量教師ライマー=ジョーンズ(Richard Oliver Rymer=Jones)が画才を認め、洋画家への道を勧めた。 1874年(明治7年)、川端玉章に入門し、英国帰りである国沢新九郎の『彰技堂』塾に転じた。翌1875年(明治8年)、分舎の塾頭になり、1877年(明治10年)、国沢の没後、遺言により彰技堂を継いだ。弟子に、丸山晩霞・小川芋銭・下村為山・鳩山春子・松本民治、後に実業家となる村居銕次郎らがいた[要出典]。彰技堂では、国沢が持ち帰った英技法書を翻訳し、講義した。その訳稿『画学類纂』9冊を、1890年(明治23年)9月から翌91年2月にかけて自費出版した。 1877-1883年(明治10-16年)に、週刊新聞『団団珍聞』及び姉妹紙の『驥尾団子』(きびだんご)[注釈 4]に風刺漫画を提供した。1893年(明治27年)に小林清親が団団珍聞を退社すると、その後1年半ほど、同紙に関わった。1883年(明治16年)末から1901年(明治34年)まで、陸軍士官学校と陸軍幼年学校の図画の教官を続けた。1886年(明治19年)には、文部省の依頼で『小学画手本』14冊を編んだ。 1889年(明治22年)、岡倉天心・アーネスト・フェノロサらが、日本美術革新のため、洋画を排斥した東京美術学校を設立した時、対抗して、明治美術会を小山正太郎・浅井忠らと設立した。 日本庭園造園を好み、『図解庭造法』(1890年)などを著した。ジョサイア・コンドルは1893年、これを参考に”Landscape gardening in

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