Month: August 2020

安東敏之 – Wikipedia

安東 敏之(あんどう としゆき、1866年5月15日(慶応2年4月1日[1][2])- 1932年(昭和7年)2月9日[1][3])は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員。旧姓・芦田、幼名・利作[1]。 目次 1 経歴 2 脚注 2.1 注釈 2.2 出典 3 参考文献 4 関連項目 美作国勝北郡広戸村[1](岡山県[3]勝田郡広戸村[2]、勝北町[1]を経て現津山市)で芦田藤平の五男として生まれ[2]、1884年(明治17年)4月、同郡、のちの新野村[1](勝北町を経て現:津山市)の安東友七の養嗣子となる[2]。有功学舎、勝北中学校、大阪泰西学舘、関西法律学校を経て[1]、1891年(明治24年)[注 1]東京法学院(現中央大学)法科を卒業した[1][2]。同年、代言人試験(弁護士試験)に合格し東京で開業した[1]。 1893年(明治26年)名古屋市に転居して、1901年(明治34年)名古屋弁護士会長に就任[1][2][3]。1903年(明治36年)愛知県会議員に選出され、同市部会議長、同参事会員、土地収用審査委員なども務めた[1][2][3]。1904年(明治37年)名古屋市会議員にも選出され[1][2][3]、八日会に参画し幹事に就任[2]。その他、名古屋商業会議所特別議員、中央製氷取締役社長、明治銀行顧問、尾三農工銀行顧問、名古屋株式取引所顧問、同米穀取引所顧問、名古屋電気鉄道顧問、名古屋電灯顧問などを務めた[1][2][3]。

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台南駅 (台湾高速鉄道) – Wikipedia

台南駅(たいなんえき)は、台湾台南市帰仁区にある台湾高速鉄道の駅。同市東区にある台湾鉄路管理局縦貫線の台南駅とは別駅であり、当駅は台湾鉄路管理局沙崙線の沙崙駅と接続する。 利用可能な路線[編集] 2002年5月31日 – 起工 2006年11月3日 – 台湾高速鉄道台南駅完工[1]。 2007年 1月5日 – 台湾高速鉄道が仮営業を開始[2]。 3月2日 – 台湾高速鉄道が正式開業[3]。 2011年1月2日 – 沙崙線沙崙駅が開業し、台南市内への鉄道アクセスが実現[4]。 2013年7月18日 –

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オズワルド (お笑いコンビ) – Wikipedia

オズワルド YouTube チャンネル 活動期間 2020年 – ジャンル 漫才ラジオ 登録者数 10.4万人 総再生回数 1737万回 YouTube Creator Awards 登録者100,000人 2021年 チャンネル登録者数、総再生回数は000000002021-12-31-00002021年12月31日時点。 テンプレートを表示 オズワルドは、吉本興業東京本社に所属する畠中悠と伊藤俊介からなる日本のお笑いコンビ。NSC東京校17期出身。M-1グランプリ2019、同2020ファイナリスト[2][3]、同2021準優勝[4][5]。第42回ABCお笑いグランプリ王者[6]。

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レオナルド・ヘシ・オルチス – Wikipedia

レオ・オルチス(Léo Ortiz)ことレオナルド・ヘシ・オルチス(ポルトガル語: Leonardo Rech Ortiz、1996年1月3日 – )は、ブラジルのサッカー選手。ポジションはDF。 クラブ歴[編集] SCインテルナシオナルの下部組織出身。2015年9月2日にBチームで初出場を記録した[1]。 2017年1月にトップチームに昇格し、翌月25日にカンピオナート・ガウショで選手初出場を記録。3月6日には2019年末まで契約を延長した[2]。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエBでは13試合に出場しカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA昇格に貢献した。 2017年12月31日にカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAのスポルチ・レシフェに1年間の期限付き移籍[3]。4月15日に全国1部初出場を記録、同リーグでは6試合に出場したがクラブは降格した。 2018年12月12日にレッドブル・ブラジルに期限付き移籍[4]。翌年4月にレッドブル・ブラジルがCAブラガンチーノと合併しレッドブル・ブラガンチーノとなると、完全移籍で加入した[5]。 2021年6月、コパ・アメリカ2021の最中にフェリピの負傷によって急遽ブラジル代表に招集された。出場はなかったものの、レッドブル・ブラガンチーノとしては初めてのブラジル代表選出となった[6]。 父のオルチスも元サッカー選手、フットサル選手[7]。 参考文献[編集] 外部リンク[編集]   ブラジル代表 – 出場大会

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湧網線 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “湧網線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年8月) 停車場・施設・接続路線(廃止当時) 湧網線(ゆうもうせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道紋別郡上湧別町(現・紋別郡湧別町)の中湧別駅で名寄本線から分岐し、サロマ湖、オホーツク海、能取湖、網走湖の沿岸を通って網走市の網走駅に至る路線であった。 1960年代より沿線の過疎化やモータリゼーションの進行で利用者が減り、国鉄再建法の制定(1980年)により第2次特定地方交通線に指定され、国鉄分割民営化直前の1987年3月20日[1][2]に全線が廃止された。なお、営業末期の列車本数は、全線直通が1日5往復と浜佐呂間発中湧別行きの区間列車1本[3]まで減らされていた。 遠軽駅 – 網走駅間は、名寄本線と当線を経由する方が内陸を通る石北本線経由より営業キロが若干短く、ある時期においては当線の最終の網走発遠軽行き普通列車は、石北本線経由の網走発札幌行き夜行急行列車「大雪」(北見駅までは普通)より遅く出ても遠軽駅に先着するダイヤになっていた[4]。 路線データ(廃止時)[編集] 管轄:日本国有鉄道 路線距離(営業キロ):中湧別 – 網走

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ブライアン・ボウルズ – Wikipedia

ブライアン・ボウルズ 基本情報 本名 ブライアン・デイヴィッド・ボウルズ(Brian David Bowles) 国籍 アメリカ合衆国 生年月日 (1980-06-22) 1980年6月22日(41歳) 出身地 ウェストバージニア州チャールストン 所属 ハードコア・ジム 身長 170cm 体重 61kg リーチ

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泊居郡 – Wikipedia

樺太・泊居郡の位置(1.泊居町 2.名寄村 3.久春内村 水色:後に他郡から編入された地域) 泊居郡(とまりおるぐん)は、日本の領有下において樺太に存在した郡。 以下の1町2村を含む。 当該地域の領有権に関しては樺太の項目を参照。 1915年(大正4年)に行政区画として発足した当時の郡域は、泊居町、名寄村の1町1村の区域に相当する。 郡発足までの沿革[編集] 古代[編集] 泊居郡域では、古墳時代の4世紀ころには鈴谷文化が、5世紀ころからオホーツク文化が栄えた。オホーツク文化は、『日本書紀』や『続日本紀』に記述が見え、飛鳥時代に阿倍比羅夫と交戦した粛慎 (みしわせ)に比定されている。擦文文化が進出し、オホーツク人は樺太南部から駆逐された。 その後、和人社会で武士が台頭しはじめた平安時代中期(10世紀)までに、擦文文化が入れ替わるように泊居郡域に進出。彼らは、矢羽や甲冑などの材料として需要が高まっていたオオワシ羽やアザラシ皮などの交易品の確保が目的で北上したとみられる。これらの流通には安倍氏や奥州藤原氏など奥羽の豪族が関わっていた[1]。同時に和人社会から鉄製品や食料品などの生活物資の流入が増加し、擦文文化からアイヌ文化への転換の契機になったとみられる。擦文文化の担い手は、アイヌの祖先にあたる。 中世[編集] 中世の泊居郡域の状況について、当時の文献『諏訪大明神絵詞』によると、鎌倉時代に蝦夷・えみしの子孫を自称する蝦夷管領・安東氏が、唐子と呼ばれる蝦夷(アイヌ)を統括[2][3] し、十三湊を拠点とし奥州藤原氏を引き継ぐかたちで日本海北部を中心にかなり広範囲にわたって活動していたという(『廻船式目』)[4][5]。中世の安東氏は、陸の豪族であるとともに安藤水軍を擁し、蝦夷社会での騒乱時には、しばしば津軽海峡以北に出兵した[6]。 室町時代になり、安東水軍は関東御免船として活動し、和産物を蝦夷社会へ供給。また北方産品を大量に仕入れ全国に出荷していた(『十三往来』)[7][8][9]。安東氏は応永年間に「北海の夷狄動乱」を平定し、日之本将軍と称した。 15世紀末には、その代官の武田信広(松前藩祖)が唐子の乙名から銅雀台瓦硯を献じられ配下にしたという(『福山秘府』)[10]。それ以降、彼の家系が大陸との交易路を統括するようになる。唐子は近世に西蝦夷地と呼ばれる樺太南部のほか北海道日本海側や北海岸に居住し、十三湊や後の和人地の前身にあたる渡党の領域まで赴き生活必需品などを入手(城下交易も参照)していた。 近世[編集] 江戸時代の泊居郡域は西蝦夷地に属し、慶長8年(1603年)宗谷の役宅が管轄。貞享2年(1685年)になると宗谷場所に含まれた。このとき蝦夷・樺太アイヌたちは、米のほか鉄器や木綿などの生活必需品を入手するため、まだ宗谷まで行く必要があった。元禄13年(1700年)、松前藩から幕府に提出された松前島郷帳に「つなよろ」の記載あり。宝暦2年(1752年)ころ、夷島(宗谷)からシラヌシ(本斗郡好仁村白主)に交易船が来るようになり、寛政2年(1790年)白主に松前藩が樺太商場(場所)を開設。場所請負人は阿部屋村山家。幕府も樺太に勤番所を置くようになった。このときトンナイ(ホントケシ、本斗郡本斗町)にも交易の拠点が開設され、ここで住民に対する撫育政策としてオムシャなども行われるようになる。当時の地方行政の詳細については、場所請負制成立後の行政および江戸時代の日本の人口統計も参照。オムシャでは地元の有力者を惣乙名などに任命、役職に就いた者は役蝦夷と呼ばれた。

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南浦特別市 – Wikipedia

座標: 北緯38度44分 東経125度24分 / 北緯38.733度 東経125.400度 / 38.733; 125.400 衛星写真。写真の右側から左側にうねりながら流れるのは大同江。川の北岸にあるのが南浦市街、写真の左端にあるダムが西海閘門 南浦特別市(ナムポ[1]/ナンポ[2]とくべつし)は、朝鮮民主主義人民共和国の西部にある都市。平壌の外港として重要な貿易港、工業都市である。市名は日本統治時代の旧名「鎮南浦」に由来する。1979年から2004年までは直轄市に位置付けられ、2004年以降は平安南道に属する「特級市」となった。 大同江河口から39km上流にある港湾都市。北側は直轄市の平壌、南側は黄海北道と接する。 行政区画[編集] 2区域5郡を管轄する。 李氏朝鮮時代までは小さな漁村に過ぎなかったが、1894年の日清戦争で日本軍の兵站基地となり、1897年開港し、鉄道も敷設されて急速に発展した。 1945年までは「鎮南浦」(ちんなんほ)と呼ばれ、平安南道に属した。1905年には統監府の地方官署である理事庁が置かれた。日本による韓国併合後の1913年には府制が施行され、鎮南浦府に位置付けられた。 1979年12月、龍岡郡と大安市を編入して直轄市に昇格し、平安南道から分離した(南浦直轄市)。 2004年1月9日、行政区画の再編が行われて南浦直轄市は廃止され、平安南道に編入された。中心部は南浦特級市となり、郊外の区域は南浦から切り離されて郡となった。「特級市」は道に属する行政区分であり、この名を持つ行政区分は同国初である。 2011年2月15日に韓国統一部は、「南浦特別市」への変更が行われたとの見解を発表した。 年表[編集]

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ジャマーアテ・イスラーミー – Wikipedia

ジャマーアテ・イスラーミー(Jamaat-e Islami; ウルドゥー語: جماعتِ اسلامی, ラテン文字転写: Jamāʿat-i Islāmīは1941年8月26日)は英領インドで創設されたイスラーム主義組織。創設者はサイイド・アブルアアラー・マウドゥーディー。1928年にエジプトで設立されたムスリム同胞団と並ぶイスラーム世界において最も影響力のあるイスラーム主義組織のひとつ。[1]パキスタン・インド分離独立以降は、ジャマーアテ・イスラーミー(パキスタン)とジャマーアテ・イスラーミー(インド)に分かれ、後にバングラデシュやイギリス、アフガニスタンでも関連組織が結成された。 時代背景[編集] ジャマーアテ・イスラーミーが創設される前年の1940年、全インド・ムスリム連盟はラーホール大会で、「インド亜大陸のヒンドゥー教徒とムスリムは互いに異なった民族である」とする二民族論を根拠に、インド亜大陸のムスリム多数派地域に国家を創設することを目指すラホール決議が採択された。これをめぐりムスリム内部で統一インドを支持するインド国民会議支持と、分離独立を目指す連盟支持に分かれ対立した。分離独立国家を要求するムスリム連盟に対し、インド国民会議寄りで全インド・ウラマー協会を率いていたデーオバンド派のフサイン・アフマド・マダニーは、統一インドを目指しつつムスリムとヒンドゥー教徒が別々の制度を持つ複合民族主義を主張していた。 インド・パキスタン分離独立に関するマウドゥーディーの見解[編集] マウドゥーディーはイギリスからの独立という点で両者と見解が一致していたが、ムスリム多数派地域での国家建設や統一インドにおける複合民族主義に反対していた。[2]彼は分離独立がもたらす国境という一時的な境界によって、インド・ムスリムが分離されることを危惧し、インド分割はイスラームにおけるウンマの教義に反すると主張した。[3]これは後のバングラデシュ独立戦争において、ジャマーアテ・イスラーミーが東パキスタンの分離独立に反対し、西パキスタンに加担する根拠となっている。彼によれば、ムスリムは自らの社会的・経済的利益を高めるために活動する多くの集団の中の一つの宗教的・共同体的な集団ではなく、「原則と理論に基づいた」集団/イデオロギーであり、「明確に定義されたイデオロギー、単一の指導者への忠誠、服従、そして規律」を持つ「正しい」党(またはコミュニティ)のみがインド全体をダール・アル=イスラームに変えることができ、それはファシストや共産主義者とは異なり、いったん権力を握れば、神の命令に基づいているイデオロギーによって構成されたイスラーム国家は圧迫や専制ではなく、全ての人に公正で慈悲深いものとなるとし考えていた。[4][5] ジャマーアテ・イスラーミーの創設[編集] ナショナリズムはどのような形であれイスラーム的ではなく、人々の日常的な利益に関係していると考えていたマウドゥーディーは、[6]1941年8月26日にラーホールのイスラーミーヤ・パークで75人の参加者とともにジャマーアテ・イスラーミーを発足させた。[7]マウドゥーディーは自らの党を、世界で最初のイスラーム国家創設のためにマディーナに集まった初期ムスリムの足跡に倣ったイスラーム革命の尖兵と見なしていた。[8][9]ジャマーアテ・イスラーミーのメンバーは加入時に信仰の告白であるシャハーダを唱え、ムスリムとしての結束を強めた。[10] 組織構造はピラミッド型で厳密かつ階層的に組織されている。全ての支持者はアミールの指導の下、特に教育や社会活動を通じて、イデオロギー的なイスラーム社会を確立するという共通の目標に向かって動いている[8]。前衛的な政党であったため、支持者全員が党員になれるわけではなく、エリートだけが党員になることができる。党首はアミールと呼ばれ、党員の下は「会員」、さらにその下は「支持者」と呼ばれている [11]。これはマウドゥーディーが、社会は上から下に影響されると考えていたため、イスラーム社会のエリートにイスラームの原理を教育し、まず始めに「彼らの誤った考え方」を正そうと考えていた[12]。そしてパキスタン・インド分離独立が果たされる1947年までの数年間、彼らはインド国民会議とムスリム連盟間の激しい政治対立から距離を置き、党員訓練と組織構造の洗練及び強化に集中していた。[13] 関連組織[編集] ジャマーアテ・イスラーミー(パキスタン)[編集] パキスタンに拠点を置く。1947年に創設者のマウドゥーディーは西パキスタンに活動の場を移した。指導者のマウドゥーディーはパキスタン建国をイスラーム法に基づいたイスラーム国家をする漸4o進的な段階とみなし、一転してパキスタンを支持。そしてパキスタンを単なるムスリム多数派の国からイスラーム国家にするための活動を展開。1971年のバングラデシュ独立に反対。ジアウル・ハク政権下ではイスラーム化政策に大きな影響を与えた。[14] ジャマーアテ・イスラーミー(インド)[編集]

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