Month: February 2021

エートハイム – Wikipedia

エートハイム (ドイツ語: Oedheim) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。この町はシュトゥットガルト大都市圏の周縁部に位置する。 位置[編集] コッハー川の橋から堰を望む エートハイムは、ハイルブロン郡北部のコッハー川沿いに位置する。 隣接する市町村[編集] エートハイムに隣接する市町村は、南から時計回りに、ネッカーズルム、バート・フリードリヒスハル、ノイエンシュタット・アム・コッハーで、いずれもハイルブロン郡に属す。エートハイムは、バート・フリードリヒスハルとオッフェナウとともに行政共同体を形成している。 自治体の構成[編集] エートハイムは、エートハイム地区とデグマルン地区の2つの地区から成る。これらは、1971年7月1日合併した。これらには、1851年に合併した大農場のヴィーレンバッハとラウテンバッハおよび小集落のファルケンシュタインとグロレンホーフが含まれる。 エートハイム[編集] エートハイムは、1235年に “Odehein” として文献上で話題となっている。1335年まではヴァインスベルク家に属したが、その後、マインツ選帝侯に売却された。1484年から1806年まではドイツ騎士団領であったが、騎士団領の陪臣化によりヴュルテンベルク王国領となった。 1937年にドイツ空軍は、村の南に航空基地を設けた。第二次世界大戦の際は、この基地からフランスへの攻撃が行われていた。このため、戦争末期には、甚大な被害を受け、全土の約半分が犠牲となった。 デグマルン[編集] デグマルンは、1319年に “Degmaringen” として初めて文献上で言及されている。この村も15世紀にドイツ騎士団領となり、17世紀までレーエンとしてベルリヒンゲン家、ヴァインスベルク家、シェーンタール修道院がこの地を治めた。1806年の騎士団領の陪臣化によりヴュルテンベルク王国領となった。

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踊 (Adoの曲) – Wikipedia

「踊」(おど、英語: Odo)は、Adoの楽曲。作詞はDECO*27、作曲・編曲はGigaとTeddyLoid。4作目の配信限定シングルとして2021年4月27日にVirgin Musicからリリースされた。NHK総合「夜光音楽 ボカロP 5min.」のテーマソングに起用されている[8]。 楽曲は、リリースから4ヵ月後にストリーミング累計再生回数が1億回を突破した。 背景と制作[編集] Adoによると本楽曲は、全体的にこれまでの3曲 (「うっせぇわ」、「レディメイド」、「ギラギラ」) とは違っており、「自分の新しい一面がまた見せられたんじゃないかなと思ってます」と述べている[9]。レコーディングは前3曲の時と同じく大変だったといい、インタビューでは、「『踊』は声を重ねる部分が多くて、特にサビに入ったときの“Woah”が一人で7、8人分くらいの声を入れなきゃいけなくて、しかもそのコーラスが曲の中で結構振られていたので、なかなか苦戦しましたね。」と語っている[9]。 本楽曲は、リズムや楽曲の複雑な展開が特徴的なダンスミュージックである[1]。サウンド面では、K-POPが得意とするビートやベースラインの組み方、音色の選び方、展開の仕方、オリエンタル感が取り入れられている[9]。作詞を担当したDECO*27による言葉遊びがふんだんに散りばめられた歌詞も本楽曲の特色のひとつである[1]。 Adoは自身の歌唱について、「今までのドスの利いた感じと違う、クラブにいてもおかしくないような女の子の感じ」を表現するべく、声色を変えたり、鼻にかかるような声にしてみたと述べている[10]。そのなかで、「半端ならK.O. ふわふわしたいならどうぞ」の部分などでは攻撃的な精神があるという[10]。 チャート成績[編集] 本楽曲は、2021年5月5日公開(集計期間:2021年4月26日~5月2日)のビルボード・ジャパンチャートにて、「HOT 100」初登場4位、「Download Songs」初登場2位 (24,696DL) を獲得した[2]。本楽曲は特に動画再生回数 (国内) ランキングにおいて高水準を記録しており、初登場から3週連続1位を達成している[11]。その後も動画再生回数、ストリーミングを中心に好成績を維持し、2021年6月30日公開「Billboard

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アークライト (企業) – Wikipedia

株式会社アークライトは、出版、ボードゲーム等の製造販売、アナログゲームの企画、トレーディングカードゲーム (TCG) の販売等を行う企業である。 テーブルトークRPG (TRPG) の開発、および関連書籍の企画・編集・出版、ゲーム関連イベントの企画・運営、出版物の編集、日本国外のボードゲームの輸入販売および独自開発ならびに日本国外のボードゲームのライセンス生産、アナログゲームの開発および販売促進業務代行、各種ゲーム向けのイラストレーションやキャラクターデザインの仲介回収業務、ホビー(模型)関係の広告代理業務、アナログゲームや関連書籍の問屋業務(2008年2月から廃業した東京ミムラの営業を引き継ぐ)、さらにTCGの店舗販売[注 1]、TRPG・ボードゲームの店舗販売[注 2]を行っている。 母体となったのはプレイバイメールやTRPGの開発会社であった遊演体の神田事務所。編集業務を中心に行っていたこの部署が1998年2月に独立してアークライトが設立された。 かつては、アダルトゲームの製作も行っており、ブランドTerraLunar、BLACK LIGHT、OUTGROW及びALTERNAを保有していた。 1998年 – 千代田区神田に設立。 ホビーステーション アークライトが展開しているトレーディングカードゲーム(TCG)の販売店舗。 直営店、加盟店あわせて全国に約38店舗。 ロール&ロールステーション アークライトが展開しているTRPGやボードゲームの専門店。 東京都の秋葉原に出店。プレイスペースあり。横浜店もあったが2014年1月閉店。

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蓋 (テレビ番組) – Wikipedia

この項目「蓋 (テレビ番組)」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。加筆の要点 – 番組の放送内容、キャストに関する加筆が求められています。(貼付後はWikipedia:加筆依頼のページに依頼内容を記述してください。記述が無いとタグは除去されます)(2021年9月) 蓋は、テレビ東京で2021年9月7日未明から9月27日未明にかけて不定期に放送されたフェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)。 番組概要[編集] 『ハイパーハードボイルドグルメリポート』プロデューサー・ディレクターの上出遼平とヒップホップユニット・Dos Monosのコラボレーションによる番組。「停波帯」と呼ばれる、通常番組放送後のフィラー時間[1]を用いて放送された。EPG情報では「実験的蓋番組」との記述があるほか、テレビ東京の広報サイトには「居場所の話をしようと思いました。」という上出のコメントとともに、「早朝の停波帯で何をしようとしているのかほとんど不明の『上出×Dos Monos』の取り組みにご期待いただければ幸いです。」との局側のコメントが掲載されている[2]。 ハンディカメラやスマートフォンによる映像と監視カメラのザッピング映像、PC画面のモンタージュで構成されており、説明テロップやナレーションは挿入されない。番組テーマは明言こそされていないものの、放送期間中にリリースされたDos Monosの楽曲『暗渠』『OCCUPIED!』の歌詞が本番組のストーリーを想起させる内容となっているほか、後述のDropboxにアップされたライブ動画では番組に登場する「地下人(ちかんちゅ)」がステージに登場している姿を確認でき、これらの世界観と強い関連性を感じさせるものとなっている。 放送話数は全5話。2021年9月7日から14日にかけて放送されたほか、「再放送」が行われたが、その内容は本放送時と比較して大幅に改変されており、上出も自身のTwitterで「再放送」が事実上のサイドストーリーであることを示唆している[3]。当初「再放送」は本来の意味通り全く同じものである予定だったが、本放送が終わった後に上出が考え直し、急遽新作の映像を制作するに至った[4]。 放送時刻・放送日程[編集] 本放送(1周目) 第1話 2021年9月7日(火) 4:10 – 4:20 第2話

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竹本勢見太夫 – Wikipedia

竹本 勢見太夫(たけもと せいみだゆう)は、義太夫節の太夫。江戸後期より四代を数える。竹本勢ィ見太夫や竹本勢イ見太夫とも表記するように[1][2]、「せいみだゆう」と読む。これは初代が、徳島県にある眉山の一部を構成する勢見山(せいみやま)から「勢見」を取り、勢見太夫と名乗ったためであり、「せみたゆう」と表記する資料もあるが[1]、「せいみだゆう」が適切である。初代は四代目政太夫・五代目政太夫の門弟であり、四代目竹本綱太夫の門弟見立角力の東前頭筆頭に竹本勢見太夫の名があることから四代目竹本綱太夫の門弟でもある。三代目は五代目綱太夫の門弟。四代目は六代目綱太夫・七代目綱太夫の門弟であることから、竹本綱太夫系の名跡として知られる。 (生年不詳 – 天保15年=弘化元年(1844年)[3]) 四代目竹本政太夫の門弟[3]。師の没後は三代目竹本重太夫(五代目竹本政太夫)の門弟[1]となっているが、もともとは素人の浄瑠璃語りで「独教」「鈍教」「蘭芝」「あん玉」等と名乗ったようで[1]、多数の素人名を名乗っていたのか、いずれかが誤りなのか判断がつかないが、素人の浄瑠璃語りとしてかなりの実力者であった。プロとして芝居に出座するために、四代目政太夫の門弟となった。しかし四代目政太夫は天保4年(1833年)に死去しており、師の没後は三代目重太夫(五代目政太夫)の門弟となった。『義太夫年表近世篇』によれば、『元木家記録』の天保4年(1833年)の項に、「一、大坂江戸堀対馬屋と申方ニ番頭役相勤候蘭芝卜申素人浄留リ語リ疾病ニ而四五年以来四国ヘ度々修行仕候所、昨年南方ニ而逗留仕居申候所、富田小学院雇帰リ私宅ニ而浄留リ芝居出来未病気不快ニ而駕ニ而往来仕懸リ候得共、甚面白キ事ニ而藍玉同断と申評判ニ而其後ハ折々座敷杯相勤申候、当正月麻植辺ニ而三ヶ所芝居出来、又追々外村より雇申度候所、右評判ニ仕大阪より政太夫、組太夫、港太夫、角力頭取中より迎之書、状態人差越、何分帰次第市ノ側芝居へ被出候様申来リ右ニ付二月十三日頃罷帰申候、当国ニ而ハ三味線儀鳥大坂罷帰早速芝居へ出申ニ付大夫号勢見太夫卜相名乗申候、右訳ハ御国ニ而厚世話ニ相成申候ニ付、厚恩忘却仕間敷ため御国勢見山ヲ取リ勢見太夫ト自身名付申事ニ候、徳島逗留中三度承リ付合候所、甚人柄宜敷人ニ而御座候直様相勤候、出し物安達原三組太夫、信功記四段目三十日之間、給銀六拾両程取申趣誠ニ珍敷事ニ而御座候」[1]しかし、この資料を引用する『義太夫年表 近世篇』にもあるように、天保4年(1833年)2月北堀江市の側芝居にて2月に藍玉(竹本)組太夫が信功記四段目(『祇園祭礼信仰記』四段目切 爪先鼠)を語り、同年3月同芝居にて勢見太夫が安達原三(『奥州安達原』三段目切 袖萩祭文)を語っている[1]。 この『奥州安達原』三段目切が竹本勢見太夫の初出座となる。この芝居は『酒吞童子語』の通しに切浄瑠璃として『奥州安達原』を付けた演目立てであり、番付に「切浄瑠璃 奥州安達原 三段目 口 竹本錦太夫 切 竹本勢見太夫」とあるように、いきなり切浄瑠璃(附物)の切場を「切」の字を付け語っている[1]。上記の『元木家記録』の通り、実力のある素人太夫(俗にいうバケモノ)の華々しいデビューであった。同年8月同芝居でも『刈萱桑門筑紫(いえずと)』の附け物『摂州渡辺橋供養』「鳥羽の里の段 切」を語っている(口は竹本当磨太夫)[1]。 翌天保5年(1834年)4月いなり社内『彦山権現誓助剣』の附け物『義経腰越状』「泉ノ三郎館の段 切」を語り、文楽の芝居に初出座する(口は四代目豊竹島太夫)[1]。この次々と附け物の切を語る華々しすぎるデビューに対し、様々な意見があったようでしばらく休座する[3]。『増補浄瑠璃大系図』には以下のように記されている。「天保五年甲午四月八日より博労町稲荷社内文楽軒芝居へ初て出勤致すなり前彦山権現切に義経腰越状三段目の切勤る此時には初て出たる太夫に切の一宇を書せども段々素人より中年太夫多くなりてより三芝居の間は切の一宇を書事を仲間より免さず尤此人の浄瑠璃は節に曲有て面白く候得共聞なれぬ素人のよふに思ひ見物余り受よからず依て暫らく退座致されたり」[3]これは、この頃素人藍玉が大名跡竹本組太夫をいきなり名乗り出座するなど、素人のバケモノに対する軋轢があったものと推察される。 休座の間は、『元木家記録』に同年9月徳島石口での浄瑠璃興行に勢見太夫の名前があることから、地元へ戻っていたことがわかる[1]。 「徳島石口ニ而六太夫芝居出来、九月下旬より十月廿二三日迄、太夫浪太夫追抱鈴木太夫、勢見太夫、紀州様御晶負ニ而衣装不残拝領ニ而結構此上なし、余程当申候而少々徳用ニ罷成申趣、宇三郎見物其後お染おちよ罷越島屋ニ而逗留仕見物いたし候、升四匁、木戸外内ニ而壱匁三分[1]」

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孝明天皇 – Wikipedia

孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日〈天保2年6月14日〉 – 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位:1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。 仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。 孝明天皇御胞衣埋納所、胞衣(えな)とは胎盤。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮社内) 1831年7月22日(天保2年6月14日)、仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。 傳役(養育係)は近衛忠煕が就き、1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君。御乳人は押小路甫子。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となった。1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子となり、1843年(天保14年)には侍講に中沼了三を迎えた。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚した。 1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。6月8日(旧暦4月25日)、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われた。11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。代始の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号は嘉永となった。また、侍講の中沼了三を学習院の儒官に任命した。 1850年5月19日(嘉永3年4月8日)に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺[注 1]へ命じた。1853年(嘉永6年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結された。5月2日(旧暦4月6日)、内裏が炎上した。黒船来航、大地震(改元後も大地震が続発し一連の地震は安政の大地震と呼ばれる)、内裏炎上と続いたため、1855年1月15日(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元した。 1858年2月27日(安政5年1月14日)、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。3月10日(旧暦1月25日)には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、結果は公武一和にて決める「定見なし」であった。 太閤・鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白・九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった[注 2]。3月2日(旧暦1月17日)、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。3月10日(旧暦1月25日)の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと述べている。 4月5日(旧暦2月22日)、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許をもらいたいという答書を4月18日(旧暦3月5日)に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て4月27日(旧暦3月14日)に堀田老中へ下すことになったが、4月25日(旧暦3月12日)、88人の公卿が列参して条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した(廷臣八十八卿列参事件)。『孝明天皇紀』では久我建通が4月24日(旧暦3月11日)に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳、岩倉具視とともに行動に移したとされる。5月3日(旧暦3月20日)、堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。 7月29日(旧暦6月19日)、幕府は日米修好通商条約に調印。この条約調印に関する奉書は8月6日(旧暦6月27日)に京都へ着き、朝廷では評議が開かれたが、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。翌8月7日(旧暦6月28日)の評議で九条関白に下した宸翰は譲位の意思を示していた。驚愕した一同は関東より御三家、大老・井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。8月14日(旧暦7月6日)に大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。幕府は8月15日(旧暦7月7日)に井伊大老は多忙のため、御三家の当主は処罰したため上京はできないので、酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成し、8月17日(旧暦7月9日)に京都へ送った。その一方で8月19日(旧暦7月11日)に日露修好通商条約、8月26日(旧暦7月18日)に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。8月30日(旧暦7月22日)、近衛忠煕に再び攘夷の意思を示した宸翰を下した。 9月11日(旧暦8月5日)、近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万に対し、自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、近衛らは九条関白へ交渉し、具体的には9月13日(旧暦8月7日)の朝議のため参内を求めた。しかし九条関白は参内をしなかったため、近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。9月2日(10月8日)、幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。9月2日(10月8日)に辞表を受け取り、4日(10月10日)に内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。9月17日(10月23日)に間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。10月19日(11月24日)、九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。10月25日、徳川家茂の将軍宣下が行われた。 10月24日(11月29日)、間部老中が参内したが、孝明天皇は出御しなかった。九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。11月9日(12月13日)に宸翰で、開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないとする意思を伝えた。間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、皇族や公卿の家臣を逮捕させ続けた。12月24日(1859年1月27日)、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。12月30日(2月2日)、間部老中は帰府の許しを得たが幕府は宮や公卿を処罰する方針を固めていたので、すぐには実現しなかった。 安政6年1月10日(1859年2月12日)、幕府と九条関白からの圧力により、近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合ってもらいたいと宸翰を出したが、2月5日(3月9日)に酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、青蓮院門跡尊融法親王、一条忠香らへの処分案もあった。その後も2月17日(3月21日)に九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。3月28日(4月30日)に辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられ、4月22日(5月24日)に落飾の勅許を出した。 8月12日(9月8日)、幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈り、8月15日(9月11日)、九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞を受けるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。三条前内府を含めて天皇に奉仕した者への受難、殉難は続いたが、その結果として献身的な情熱は熱狂的になってきた。「たとえ世間からは狂人、賊子と呼ばれ非難されようとも、天皇は自分たちの誠心を知っていてくださる」という行動論理を持つ人々が、安政の大獄の反動として生まれた[1]。

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趙毓松 – Wikipedia

趙 毓松(ちょう いくしょう)は、中華民国の政治家・ジャーナリスト。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。変名は邵松。 中国青年党、汪兆銘政権への参加[編集] 初めは貴州軍の袁祖銘や直隷派の呉佩孚の配下であった。1926年(民国)11月、反共主義の立場から中国青年党に加入している。この頃国民革命軍に転じていた袁の下に戻ると、趙毓松は反共のために呉や孫伝芳と結び、容共の武漢国民政府を転覆しようと進言する。袁もこれに応じて計画を準備したとされる[2]。しかし翌年1月末に、袁は武漢国民政府に属する湖南軍指導者・唐生智に謀殺されてしまった[3]。趙は四川へ逃れて反共活動を続けている。 蔣介石が国民政府を掌握した後、趙毓松は中央政治行動委員会委員長、中央検審委員会委員長、『新中国日報』総主筆、討賊聯軍総司令総参賛、川康甘青辺政設計委員会委員などを歴任した[4]。 1940年(民国29年)3月[5]、汪兆銘(汪精衛)の汪兆銘政権(南京国民政府)に参加する。なお、中国青年党から汪兆銘政権に参加した要人は、趙毓松のほかに張英華があげられる。趙は農鉱部部長兼中央政治委員(以後4期務める)に任命された。同年中に、接収日本軍管理工廠委員会副委員長、憲政実施委員会常務委員、全国経済委員会委員を歴任している[4]。 翌1941年(民国30年)2月、趙毓松は東亜聯盟中国総会常務理事、清郷委員会委員を歴任する[4]。8月、司法行政部長に異動したが、調査統計部長・李士群と対立したため1942年(民国31年)3月に同部長を辞任、閑職の銓叙部長に移った。翌1943年(民国32年)8月、自ら望んで国民政府委員のみの地位をつとめた[6]。 晩年[編集] 1945年(民国34年)8月、汪兆銘政権が崩壊すると、趙毓松は素性を隠して山東省の済南に移り住んだ。中国人民解放軍が済南に迫ると、趙は香港へ逃れ、さらに1950年末に日本へ亡命している。日本では、満州国で経済大臣をつとめた韓雲階と知り合い、閻錫山の指示とされる反共の言論活動に従事した。また、満州国国務総理秘書官長をつとめた松本益雄とも親交を結び、その援助を受けている[7]。 1971年(昭和46年)9月、趙毓松はリチャード・ニクソンの訪中表明(ニクソン・ショック)に衝撃を受け、抗議の服毒自殺を図る。この際には辛うじて一命を取り留めたものの、結局これが原因で体調を崩し、同年11月18日、東京都にて死去した。享年75(満73歳)[8]。 1978年(昭和53年)、松本益雄と古沢敏雄は、趙毓松の手記「三十年政治風濤親歴記」(松本訳)を底本として、『迎春花-趙毓松の中国革命回顧録』(明徳出版社)を刊行した。 ^ 松本益雄・古沢敏雄『迎春花-趙毓松の中国革命回顧録』246頁による。東亜問題調査会『最新支那要人伝』132頁は1889年(光緒15年)生まれ、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2295頁は1899年(光緒25年)生まれとする。 ^ 松本・古沢同上、122-133頁。 ^ 通説によれば、唐生智が袁祖銘を謀殺したのは、袁に湖南省の地盤を脅かされることに恐れを抱いたためとされる。 ^

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滝口宗安 – Wikipedia

  凡例 滝口宗安 時代 平安時代末期、鎌倉時代前期 生誕 不詳 死没 不詳 別名 姓名:良岑宗安、実名:前野宗安通称:滝口右馬入道 主君 平忠度、後鳥羽上皇(藤原秀康) 氏族 良岑氏流前野氏、滝口氏 父母 父:滝口宗長 兄弟 滝口宗安、前野明俊、滝口宗俊、滝口俊明 妻

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旭里憲治 – Wikipedia

旭里 憲治(あさひさと けんじ、1965年11月9日 – )は大阪府池田市出身の元大相撲力士。大島部屋に所属した。本名は増田 憲治(ますだ けんじ)。身長187cm、体重140kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ[1]。趣味は睡眠、カラオケ、野球。最高位は東前頭14枚目(1990年7月場所)。 現在は、年寄・中川。元中川部屋師匠。 小学校4年生から中学校1年生までは野球をやっており、4・5年生の時はエースだった。中学2年からは柔道部に所属。その頃から力士を志し、3月場所が開催される大阪府立体育会館の関係者から大島部屋を紹介された。池田市立池田中学校卒業と同時に大島部屋に入門。1981年3月場所で初土俵を踏んだ。翌年9月場所では序二段で優勝し、均整の取れた体格で三段目の頃から注目されていた。立合いについて行けず、幕下で苦労した時期も長かったが、1989年1月場所で新十両に昇進。平成時代初の関取となった。 そして、1990年3月場所では新入幕を果たした。同場所では7勝8敗で惜しくも負け越したが、本人は引退時の思い出の取組として敗れはしたものの、この場所の千秋楽、7勝7敗で迎えた小城ノ花との取組を挙げている。同年7月場所で再入幕。立合い突っ張ってから左上手を取るといった正攻法の取り口で期待されたが、怪我もあり幕内には4場所在位したが、勝ち越すことはできなかった。妻とは1992年の熊本巡業で食事に訪れた店で偶然出会い、それが縁となって1993年1月に結婚[1]。1994年5月場所では4度目の入幕を果たした。同年5月場所と7月場所とともに大敗が続き、9月場所では幕下まで陥落してしまった。 一時は引退も考えていたが、師匠・大島親方(元大関・旭國)や、後援会、家族に励まされ現役続行を決意。1995年3月場所では、西幕下14枚目の地位で7戦全勝して幕下優勝を果たし、翌5月場所で十両に復帰した。その後、長男が生まれた。以降は幕下に陥落することもあったが、十両で相撲を取り続けることが多かった。1998年1月場所では西十両4枚目に在って5勝10敗と負け越し、幕下に陥落するような成績でもなかったが、同場所千秋楽の一番を最後に現役を引退した。 引退後は年寄・熊ヶ谷を襲名し、大島部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たり、1998年10月に引退相撲を執り行った。当初は先代・熊ヶ谷親方(元前頭8・芳野嶺)から年寄名跡を借り受けていたが、1999年に名跡を取得した。しかし2004年7月、十両・金親が先代宮城野親方の娘と結婚し娘婿となり、引退して年寄・宮城野を襲名。宮城野親方(元前頭13・竹葉山)が急遽熊ヶ谷を工面して名跡変更、そのあおりで実は熊ヶ谷が借株であったことが判明して、追手風親方(元前頭2・大翔山)から年寄・中川を譲り受け、以来、追手風部屋の部屋付き親方として、後進を指導していた。引退から10年以上に渡って大阪場所担当委員として故郷の場所を盛り上げた[1]。 2016年10月19日に同じ一門の春日山部屋が、師匠の21代春日山(濱錦)の年寄名跡の襲名資格が決着するまで一時閉鎖、所属力士らが追手風部屋へ転属した。受け入れスペースの都合で追手風部屋施設で受け入れることはできなかったため、春日山部屋が2015年9月まで使用していた部屋施設に中川が師匠代行として出向く形で指導に当たった[2]。 その後、2017年1月16日に21代春日山が日本相撲協会を退職したため、26日の協会理事会で中川の部屋継承が承認され[3][4]、中川は再興された中川部屋の師匠になった。部屋を継承した背景には、20代春日山が自分にとって一門の同期生という大切な仲間であったという事情があり、中川は「祥紀の部屋じゃなかったら引き受け手はいなかったと思う」と話している[1]。 2020年7月、弟子への暴言・暴力行為により中川部屋の師匠を解任され、時津風部屋の部屋付きとなった。2021年7月からは、同月に設置された相撲協会の安全管理委員会委員を時津風一門の代表として務めている[5]。 エピソード[編集] 場内放送や大相撲中継などで「あさひざと」とよく四股名の読みを間違えられた。旭里本人は『「あさひさと」は読みにくいから「あさひざと」でもいいですよ』と言って黙認していたという。 漫画家のやくみつるは、四股名の読みについてテレビ朝日アナウンサー(当時)で大相撲ダイジェストを担当していた山崎正に確認を取った上で、「四股名も中途半端だから肝心の相撲も中途半端なんだ」と旭里を皮肉った四コマ漫画を描いている。 怪物と呼ばれた武双山と十両で2回対戦して旭里の2戦2勝だった。 十両時代の平成3年7月場所、初日から7連勝しながらも8日目から7連敗してしまい、千秋楽にやっと勝ち越したことがあるが、奇しくもそれから6年後、最後に十両昇進を果たした平成9年7月場所には、7連勝した後、連敗し、本人も「7連敗して、千秋楽を迎えた場所の悪夢が一瞬、過った」としているが、少し、もたついたものの、最終的には10勝5敗の成績を上げている。

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串間インターチェンジ – Wikipedia

このページ名「串間インターチェンジ」は暫定的なものです。(2021年9月) 串間インターチェンジ(仮称) 所属路線 E78 東九州自動車道(油津・夏井道路) ◄奈留IC(建設中) (3.9 km) (10.2 km) 夏井IC(建設中)► 通行台数 x台/日 所在地 〒888-0001宮崎県串間市大字西方 テンプレートを表示 串間インターチェンジ(くしまインターチェンジ)は、宮崎県串間市大字西方に建設中の油津・夏井道路(東九州自動車道に並行する一般国道220号の自動車専用道路)のインターチェンジである。名称は仮称である。 当インターチェンジを含む、夏井IC – 奈留IC間が油津・夏井道路として事業中であるが、南郷IC

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