ジャン・メレ – Wikipedia
ジャン・メレ(仏: Jean Mairet, 1604年5月10日 – 1686年1月31日)は、17世紀フランスの劇作家。戯曲で活動していたが、自身の慢心による失敗でその成功は長く続かなかった。1638年に演劇界を去ったので、実際の活動期間は長く見積もっても15年程度である。 1604年5月10日、当時神聖ローマ帝国領だったブザンソンでドイツ人カトリック教徒であった父と、シャンパーニュ地方出身のフランス人の母の間に生まれた。早くに両親を亡くして孤児となったが、1624年秋ごろにパリに出て、ブルゴーニュ地方の貧しい学生のためのグラサン学院 (Collège des Grassins) に通った。1625年の6月か7月に大貴族モンモランシー公爵と出会い、劇詩人としての人生が始まった[1]。 公爵はそのころ、ルイ13世の命で海軍司令長官としてユグノー討伐の準備中であった。メレは兵士兼広報担当官として雇われ、レ島沖海戦などに従軍し、戦勝したが負傷してしまった。公爵はラ・ロシェル攻囲戦から外されたため、パリに戻り、1625年11月にお抱え詩人であったテオフィル・ド・ヴィオーと再会した。この詩人は自由思想の持ち主で、陰謀に加わるなどかなりの危険人物であったが、劇詩人として人生を歩もうとしていたメレにとってはこの上ない出会いであった。メレはヴィオーと親密な交際を結び、彼を文学上の師として、その指導のもとにデビュー作『クリゼイドとアリマン』を完成させた[2]。 1626年の春には、公爵の居城・シャンティイ城がある、シャンティイ市で暮らした。公爵夫妻の庇護下には多くの人が集まり、ヴィオーを中心に哲学、文芸、政治を語り合っていた。このサークルでメレに一番影響を与えたのは当然ヴィオーであるが、それに次ぐと考えられるのがクラマユ伯爵である。伯爵は公爵の代理人で、常に公爵に伴って戦場へ赴いており、政治的には徹底して反リシュリュー派であった。メレはこの伯爵の知己を得て、彼やラ・ヴァレット枢機卿などからイタリアの田園劇に匹敵する作品の制作を勧められたが、その制作に取りかかっているうちに、王弟ガストン・ドルレアンの結婚という大問題が持ち上がった。この結婚は宰相リシュリューに押し付けられたもので、王弟は嫌がったため、モンモランシー公爵、クラマユ伯爵ら反リシュリュー枢機卿は、結婚を破談にするためにキャンペーンを張り、その一環としてメレの作品を利用することにした。こうして同年7月に、第2作目『シルヴィ』が完成した。結局、結婚を破談にすることはできなかったものの、同作品は宮廷で大評判をとり、上演も大成功した[3]。 1626年の9月にテオフィル・ド・ヴィオーが亡くなった。メレはお抱え詩人のポストを受け継ぎ、公爵から1500リーヴルの年金を与えられるようになった。年末になって公爵が再び従軍し、ラングドック総督の職責を果たすべく、シャンティイを離れた。そのため、メレは同地に残された公爵夫人を慰めるべく、作詩をして静かに暮らした。1629年の後半になって『シルヴァニール』を制作した[4]。 メレが庇護者のモンモランシー公爵と最後に会ったのは、1631年10月のことであった。この時代は封建的気風を残す大貴族にとって厳しい時代であり、公爵もガストン・ドルレアンの、リシュリュー枢機卿失脚の企みに加わって国家反逆罪として、断頭台の露と消えた。この結果メレは庇護者を失い、新たな庇護者を探さねばならなくなった。1632年に制作した初の喜劇『ドソーヌ公爵艶聞録(Les Galanteries du duc d’Ossonne)』は、新たな庇護者となったブラン伯爵と伯爵が庇護していたマレー座の役者たちの期待に応えるべく、書かれた作品である。1632年から33年にかけては、ブラン伯爵の館に寄宿し、伯爵の勧めに従って若い劇作家たちと交流を深めた。ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌのサロンや宮廷にも出入りし、当代一流の劇作家として持てはやされた。1633年前半に制作された『ヴィルジニー』には、明らかにサロンの貴婦人たちの共感を得られるような女性を登場させている[5]。 1634年は、メレにとってその隆盛がピークを迎えた年であり、フランス演劇史上においても画期的な年となった。この年は悲劇が再び復活した年であり、ジャン・ロトルーがその端緒を切り拓いた。メレもその時流に乗って『ソフォニスブ(La
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