Month: December 2019

宮島の猿 – Wikipedia

宮島の猿(みやじまのさる)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)に生息する猿。すべてニホンザル(Macaca fuscata)[1]。 岡田清編 , 山野峻峯斎画『芸州厳島図会 大経堂より眺望の図』[注 1]千畳閣を見物する観光客と右下に楊枝屋がいる。左端に猿、右端に鹿がいる。 『芸州厳島図会 塔岡楊枝店』店の上に猿がいる。ここでも鹿がいる。 宮島にいつ頃から猿が生息していたかわかっていないが[1]、野生の猿が生息していたという伝承があり[3]、ただ宮島の鹿ほどの歴史はないとされる。 厳島神社の神使は烏であり、猿・鹿ともに神社の神使ではない。厳島神社が創建されて以降島自体が神の存在であるとして神の島と呼ばれだし[6]、そこから神の島での不殺生という宮島島民の風習ができあがった[7]。宮島の歴史において厳島=宮島=神の島であると強調されていく中で、鹿は一般的な神社のような神鹿思想から島内で崇められてきた[7]のに対し、猿は人に迷惑をかけていたため弥山に追いやられたとされる[8]。 江戸時代、宮島に猿が生息していたことは確定している。これは天保13年(1842年)『芸州厳島図会』で2枚の挿絵に描かれていること、現在も残る鹿猿や猿瓦は江戸時代から存在していたためである[9][1][8]。厳島詣が盛んになり行楽地・観光地として栄えていくと同時に厳島=宮島=神の島が定着していき、多くの文人・僧がその様子を歌・絵画に残した[3]。そうした中に「宮島では子連れザルが芝居見物する」「弥山の森に猿の声を聞く」など残る[3][1]。当時、日本全国の楊枝屋で看板代わりとして猿が飼われており[注 2]、楊枝屋が島内で開店したことで猿が共にやってきたと推察されている[1][3]。 明治時代に入りこうした猿は絶滅したと信じられている[3]。これに環境NGO広島フィールドミュージアムの金井塚務(元日本モンキーセンター(JMC)研修員)は、江戸時代に猿の個体群がいなかったと結論づけている[3]。理由として、明治期に入り絶滅したと推測できる合理的な理由がないことを挙げている[3]。また江戸期の厳島詣観光ガイド本などの多くで宮島の街中に猿が多いと書かれているが、『厳島図会』では猿は楊枝屋の近くにいるもののみで鹿に比べて圧倒的に登場数が少ないことから、江戸期の観光ガイド本は制作にあたり自分で見たのではなく風説を元に書いており実際の猿は少なかった、としている[3]。 明治初期、山口県岩国市在住の人物が15頭の猿を厳島神社に奉納したが、その猿が街中で悪さを繰り返したことから、ほぼ半年で捕獲された[1][3]。これで明治時代に生息した野生の猿は途絶えたとされる[3]。 現代に生息する猿は、1962年小豆島から47頭が移入され放獣されたもの[1][3]。あくまでJMC宮島研究所が研究対象として導入したもので、目的は宮島での猿の個体群復活と生態学的な学術研究[注 3]であった[3]。これに文化財を管理する文化庁からもいくつか厳しい制限が課せられ、観光利用にも制限がついていた。宮島ロープウェイ終点の獅子岩駅付近に餌場とJMC宮島研究所が設置され、施設管理はロープウェイ運営会社である広島観光開発が行った。こうした状況から実質的にロープウェイとセットでの観光目的で放獣したと言われており[11]、報道では観光会社が猿を連れてきたとしている[12]。 2010年宮島ロープウェイ獅子岩駅。周辺に樹木がないのは猿害による[13]。 猿の存在はロープウェイ集客に好影響を与えたものの、人への猿害が問題となった。1970年代に入ると猿を学術的研究から教育的に利用変換しようと、JMC宮島研究所の野外博物館化が始まった。1989年、JMCの運営方針が変わったことによりJMC宮島研究所は廃止され、その施設は広島観光開発が運営する宮島野猿公苑となった。そうした中で1995年頃から餌付けされていた群れが分裂し野生化し生息域を拡大していった[1][3]。 猿が100頭ほどに増え深刻な猿害が発生していたことから、更に動物愛護法改正により責任問題がより明確になったことから、2010年から2013年にかけて島内の猿を捕獲しJMC本部に再移送された[12][3]。

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碭山県 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “碭山県” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年2月) 碭山県(とうざん-けん)は中華人民共和国安徽省宿州市に位置する県。果物などの農業生産が中心。 安徽省の最北部に位置し、江蘇省・山東省・河南省が交わる位置にある。域内はすべて黄淮平原に属する平野である。 民族構成は多数派の漢族と少数派の回族(ムスリム)、その他多数の少数民族からなる。回族は人口の中では少数派だが政治・経済・社会などの分野で少なからぬ影響を持つ。回族は碭山県城の南関地区や、曹荘鎮の回民許荘などに集まって住む。1990年代には碭山県内で民族間の械闘が多発した。1998年には回民許荘で起こった回族と漢族の械闘が全県規模に拡大し、武器を持って集まった回族と村に土嚢などを積んで立てこもる漢族との間で激しい戦いとなり、警察が介入する事態となった。 秦の始皇帝26年(紀元前221年)、郡県制が施行され碭郡と碭県が置かれた。県城の東南に碭山(現在は河南省永城市に属する)があったことにちなむ。漢の高祖5年(紀元前202年)、碭郡は廃止され、碭県は梁国に属することになった。新の始建国元年(9年)、碭県は節碭県に改められたが、後漢の光武帝が碭県の名に戻した。 三国時代には魏は梁国を廃し、徐州に属したが西晋の泰始元年(265年)に梁国が復活し碭県は下邑県に属するようになった。北魏の孝昌2年(526年)には碭郡と碭県が復活し、北斉の天保6年(555年)には碭郡も碭県も廃止され安陽県が置かれた。 隋の開皇18年(598年)、安陽県は碭山県に改められ睢陽郡の下に置かれた。唐末には宋州に、光化2年(899年)には輝州に属し、後唐には単州に属した。 金の興定元年(1217年)には碭山は帰徳府の管轄下に置かれ、興定5年には永城県が永州に昇格し碭山を管轄下においた。元の至元2年(1265年)には永州は再び永城県に降格し、碭山県は単父県に編入されたが翌年には碭山県が復活し、済寧路の管轄下となった。 明の洪武8年(1375年)、碭山県は徐州に属した。1912年、中華民国成立後は江蘇省徐海道、後に江蘇行政督察銅山区、さらに江蘇省行政督察第九区の所轄となった。1949年、中華人民共和国成立後は商丘や宿県・徐州などの間を転々とし、江蘇省などへ移管されたが1955年以来安徽省に属するようになった。2000年4月、宿県地区は廃止され宿州市となり、碭山県も宿州市に属するようになった。 行政区画[編集] 鎮:碭城鎮、趙屯鎮、李荘鎮、唐寨鎮、葛集鎮、周寨鎮、玄廟鎮、官荘壩鎮、曹荘鎮、関帝廟鎮、朱楼鎮、良梨鎮、程荘鎮 鉄道

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トルイ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “トルイ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年10月) この項目では、モンゴル帝国の皇族について説明しています。10世紀のベラルーシの君主については「トゥルィ」をご覧ください。 トルイ(モンゴル語:ᠲᠤᠯᠤᠢ、Tolui、 1192年[1] – 1232年)は、チンギス・カンの四男。中国語表記は拖雷で、ペルシア語表記ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy

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曹渓宗 – Wikipedia

曹渓宗 各種表記 ハングル: 조계종 漢字: 曹溪宗 発音: チョゲジョン ローマ字転写: Jogyejong テンプレートを表示 曹渓宗(そうけいしゅう、チョゲジョン)は、朝鮮の禅系仏教宗団。韓国では現在、「大韓仏教曹渓宗」として、韓国の仏教界最大の勢力を有する。僧侶の数は約1万2000人、公式に登録されている寺院は1800(禅学院、大覚会などの未登録の寺院を含めると2800余り)を数え、国家が認定している伝統的な寺院870ヶ所余りの90%以上が曹渓宗の寺院である[1]。曹渓宗の代表は「宗正」であるが、教団の実務行政の代表は総務院長である。 目次 1 概要 2 不祥事 3 外国との関係 4

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近衞忠大 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “近衞忠大” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) 近衞 忠大(このえ ただひろ、1970年7月18日 – )は、日本のクリエイティブ・ディレクター、デザイナー、映像作家、ブランディング・アドバイザー。武蔵野美術大学造形学部映像学科(一期生)卒業。宮内庁式部職として宮中歌会始で講師 (こうじ)を務める。公益財団法人陽明文庫評議員、公益財団法人十四世六平太記念財団理事長(能・喜多流の財団)。父は五摂家筆頭の近衞家(陽明家とも)当主で、日本赤十字社名誉社長・近衞忠煇。母は三笠宮崇仁親王の第1王女子・近衞甯子。 1970年(昭和45年)東京都港区に生まれる。 1990年(平成2年)学習院高等科卒業。 1994年(平成6年)武蔵野美術大学造形学部映像学科卒業後、NHK入職。映像ディレクターとして活動する。 1996年(平成8年)NHK退職後、海外遊学。SUNプロデュースに所属し、テレビ番組やイベント企画を担当。 1997年(平成9年)宮内庁式部職宮中歌会始講師(現職)

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美瑛町 – Wikipedia

美瑛町(びえいちょう)は、北海道上川郡にある町。「日本で最も美しい村連合」加盟[1]。 なだらかな丘陵と豊かな自然環境と景観が特徴になっている[2]。町全域を「景観計画区域」の対象にしており[3]、「美しい日本のむら景観百選」、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」(美瑛リフレッシュライン)に選定されているほか[4][5]、美瑛町を含む1市6町村で「富良野・美瑛観光圏」を形成している[6][7]。 町名の由来[編集] アイヌ語の「ピイェ[9]」〔油(転じて油っこい・油ぎっている)〕に由来するとされる[10]。 現在の美瑛川に十勝岳からの硫黄が溶けこんで濁っていた様を表現したものである[10]が、「美しく、明朗で王者の如し」という意味を込め、「美瑛」と当て字された。 北海道のほぼ中央、大雪山国立公園の十勝岳連峰と夕張山系との間に位置している。十勝岳連峰は複数回の大規模噴火によって火砕流が周辺地域にひろく分布し、放射状に河川が流れて谷を形成された。美瑛の波状丘陵は噴火と河川の侵食によるものであり、丘と沢が連続性を持って成り立ち変化に富んでいる。また、波状丘陵の上に格子状の区画割りで開墾を行ったことが美瑛の個性的な景観を生み出すことになった。開拓は沢の平坦地を水田に、丘の傾斜地を畑に開墾していった。 美瑛の代名詞にもなっている波状丘陵 トムラウシ山と北沼(2006年8月) オプタテシケ山と美瑛富士(2005年8月) 美瑛岳から眺めた十勝岳(1998年8月) 美瑛川(2013年5月) 青い池(2014年7月) 白金不動の滝(2010年8月) 白ひげの滝(2013年5月) 気候[編集] 寒暖の差が激しい内陸性気候であり、春夏秋冬が明確になっているため四季の移り変わりを楽しむことができる。 美瑛(1981年 – 2010年)の気候 月

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宇宙船ガリレオ号 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “宇宙船ガリレオ号” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年8月) 『宇宙船ガリレオ号』(うちゅうせんガリレオごう、原題:Rocket Ship Galileo)は、アメリカのSF作家、ロバート・A・ハインラインによるSF小説。 あらすじ[編集] ガリレオ・クラブの3人のメンバー、ロス・ジェンキンズ、アート・ミラー、そしてモーリー・エイブラムズ。彼らは今日も、ロケットエンジンの噴射実験をしていた。スターストラックⅤ号と名付けられたロケットは、初めは良好な燃焼をしており、これまでの最高出力を達成したが、やがて爆発した。3人にケガはなかったが、近くに倒れている男の姿があった。駆け寄ってみたアートが言った。「ドンおじさん。ドナルド・カーグレーブスだ」。ドナルド博士は著名な物理学者である。3人は彼をたきつけて、本物の宇宙船を造らせることにした。もちろん3人も手伝う。人里離れた土地と建物を手にいれた彼らは、さっそくロケットの組み立てに取りかかった。いろいろな部品を買い込み、無いものは自分たちで加工する。トリウム原子炉で駆動するロケットは「ガリレオ号」と命名され、月をめざすことになった。 様々なトラブルを乗り越えて地球を離れた一行は、無事に月面に到着することができた。持ってきた資材で、ガリレオ号から離れた岩かげにキャンプを設置した。無線機を準備して地球に呼びかけたとき、すぐに返答があった。それは「第一次月探検隊」と名乗り、ガリレオ号の位置を確認するので送信を続けてほしいという。キャンプの外に出て見ていると、小型ロケットが飛んできた。それはガリレオ号の上で向きを変え、上昇していった。そして爆発が起こり、ガリレオ号は破壊された。キャンプにいた一行は無事だったが、何者が、何の目的で破壊したのか。小型ロケットは飛び去ったが、爆撃の成果を確認するために再び現れるだろうと予想した一行は、武器を準備して待った。やがて小型ロケットがまた飛んできて、キャンプとガリレオ号の残骸との間に着陸した。宇宙服を着た三つの人影が出てきたが、一行が発射したライフル弾丸で倒された。小型ロケットの中には、もう1人の男が残っていたので捕虜にした。その男はドイツ語を話し、ロケットの計器類の表示もドイツ語だった。 捕虜の話から、地球上の秘密の場所で月ロケットを建造したナチス軍団は、月面の地下にミサイル基地を設置し、世界征服をねらっていることがわかった。この小型ロケットよりもはるかに大型のロケット「ウォータン号」と「トール号」の二隻を持っていて、それらが交代で月に物資を補給しているようだ。小型ロケットには爆弾が残されていたので、地下基地を攻撃することに決定した。なんとかロケットを飛ばし、地下からのエアロックに爆弾を投下すると小石や砂が舞い上がり、それは破壊された。一行が基地の内部に入ってみると、宇宙服を着ていた1人を残して、真空にさらされた他の全員が死亡していた。誘導ミサイルは二百基以上もあった。そして月文明の地下遺跡を利用して、基地を建設していたこともわかった。基地の近くには大型ロケット「ウォータン号」が停泊していたので、一行はここを拠点にして活動することにした。 主な登場人物[編集] ロス・ジェンキンズ – ガリレオ号のエンジニア。

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徳島県立富岡東中学校・高等学校 – Wikipedia

徳島県立富岡東中学校・高等学校(とくしまけんりつ とみおかひがしちゅうがっこう ・ こうとうがっこう)は、徳島県阿南市領家町にある公立中学校・高等学校(中高一貫校)。 2003年度より3年間学力向上フロンティアハイスクールに指定されていた。羽ノ浦町に羽ノ浦校もある。愛称は「富東」(とみひがし)。 高等学校の設置学科[編集] 1912年(明治45年)3月19日 – 徳島県那賀郡立那賀実科高等女学校として開校。 1921年(大正10年)4月13日 – 徳島県立富岡高等女学校と改称。 1948年(昭和23年)4月31日 – 学制改革により徳島県立富岡高等女学校を廃止し、徳島県富岡第二高等学校を開設。 1949年(昭和24年)3月31日 – 高等学校再編成により徳島県富岡東高等学校と改称。 1956年(昭和31年)4月1日 –

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佐藤金三郎 – Wikipedia

佐藤 金三郎(さとう きんさぶろう、1927年3月4日 – 1989年1月19日)は、日本のマルクス経済学者。元横浜国立大学教授。高島善哉ゼミ出身で[1]、専門は『資本論』形成史。 単著 『『資本論』と宇野経済学』新評論、1968年 『マルクス遺稿物語』岩波新書、1989年 『『資本論』研究序説』岩波書店、1992年 共著 『経済学のすすめ』伊東光晴共著 筑摩書房、1968年 『人類の知的遺産50 マルクス』都留重人[編]著、佐藤執筆第Ⅱ部「マルクスの生涯」(第Ⅰ部 都留「マルクスの現代的意義」第Ⅲ部 高須賀義博・島田稔夫「マルクスの著作」第Ⅳ部 高須賀善博「マルクス以後のマルクス思想」)、講談社、1982年 『シンポジウム『資本論』成立史――佐藤金三郎氏を囲んで』高須賀義博編 新評論、1989年 編著 『マルクス経済学』杉原四郎共編 有斐閣双書、1966年 『資本論物語――マルクス経済学の原点をさぐる』杉原四郎共編 有斐閣ブックス、1975年、新版1979年

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山本修二 (陸上選手) – Wikipedia

山本 修二(やまもと しゅうじ、1996年8月17日 – )は、日本の陸上競技選手。専門は長距離種目。広島県出身。遊学館高校、東洋大学出身。旭化成陸上競技部所属。東洋大学OBでマツダに所属する山本憲二、東洋大学で選手として活躍した山本信二は実の兄。 高校時代[編集] 全国高校駅伝では2年・3年とエース区間の1区を務める。3年時には区間14位。 大学時代[編集] 2人の兄を追うかたちで東洋大学に進学。1年時から同学年の小笹椋と共に頭角を表し、2015年4月に10000mで29分12秒72、10月に5000mで14分10秒56の自己記録をマークする。第92回箱根駅伝では小笹とともにメンバー入りし、優勝争いのなか8区を走ったが区間9位に留まり、チームは準優勝に終わった。 2年時になるとエース格に急成長。第48回全日本大学駅伝ではアンカー区間の8区に抜擢され区間4位。第93回箱根駅伝では2区を務めたが、15km過ぎで先頭集団から脱落し区間11位。先頭で受けたタスキを8位まで下げてしまった。 3年時はチームのエースに成長。関東インカレでは5000m、ハーフマラソン共に入賞。特にハーフマラソンでは日本人トップの2位に入った。駅伝シーズンは三大駅伝全てに出場。第29回出雲駅伝では3区区間2位。第49回全日本大学駅伝では4区を務め先頭のまま後続との差を広げる走りを見せたが、ここでも区間2位となり、区間賞とはならなかった。第94回箱根駅伝では当日変更で3区に起用され、先頭でタスキを受けると2位を走る青山学院大・田村和希に一旦8秒まで詰められるもその後は差を広げてタスキリレー。大学駅伝初の区間賞を獲得し、往路優勝に貢献した。 4年時のトラックシーズンは右足の疲労骨折で離脱したものの、駅伝シーズンには復帰。第30回出雲駅伝では3区区間3位、第50回全日本大学駅伝では7区区間3位と好走したもののチームは優勝争いに加わることができなかった。第95回箱根駅伝では2区を務め、先頭でタスキを受けると中大・堀尾謙介と激しく競り合い、区間4位(日本人2位)の好走。チームの往路連覇に貢献した。 実業団時代[編集] 旭化成に入社後は10000m・ハーフマラソンで自己ベストを更新しているが、チームの分厚い選手層もありニューイヤー駅伝への出場は果たせていない(九州実業団毎日駅伝、都道府県対抗駅伝には出場している)。 主な戦績[編集] 大学駅伝戦績[編集] 学年 出雲駅伝 全日本大学駅伝 箱根駅伝

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