アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦 – Wikipedia
アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦 (ドイツ語: Schwere Kreuzer der Admiral Hipper Klasse) は、ドイツ海軍の重巡洋艦。5隻が建造され、3隻が就役した。リュッツオウは完工前にソビエト連邦に売却され、ザイドリッツは航空母艦への改装中に建造が中止され、自沈している。なお、ドイツ語の発音に従えばアトミラール・ヒッパー級重巡洋艦と表記されるが、日本では英語読みのアドミラルで呼ばれるのが一般的である。 1945年にキールの乾ドックで撮られたアドミラル・ヒッパー 本級はドイツ海軍がヴェルサイユ条約を破棄した後の再軍備を見越した1934年に列強の条約型巡洋艦への対抗艦の模索を開始していた。このクラスの仮想敵としてフランス海軍の条約型重巡洋艦「アルジェリー」に対抗可能な砲威力と新戦艦「ダンケルク級戦艦」からは離脱できる高速性能、加えて大西洋での作戦に参加可能な航続性能が求められていた。[1] 設計当初は排水量を条約の制限下にまとめることを前提に研究が進められ、主砲として様々な口径の砲の搭載が考慮されたが、結局アルジェリーやイギリスのカウンティ級重巡洋艦と同クラスの20.3cm砲8門が選択された。1934年8月にまとめられた研究成果では速力32ノットで80mm程度の防御力を持つ基準排水量10,700トン程度の設計で条約制限を約700トンほど超過していた。 だが、この案を検討した海軍司令長官エーリヒ・レーダーは「攻撃力・防御力ともに不足している」として、対空火器と魚雷兵装の強化を踏まえて、砲塔防御と弾火薬庫部分の防御を強化した案をまとめるように命令した。 この要求性能を叶えるために排水量の増加は避けられず、最終的に基準排水量は条約制限を大幅に上回る14,050トンとなり、満載排水量では約18,000トンを超えるという条約に反した大型巡洋艦となったが、レーダーはこの案を承認して対外的には新型重巡洋艦の排水量はワシントン海軍軍縮条約に準じた10,000トンと発表した[1]。 その後、1935年にイギリスと締結した英独海軍協定によりドイツ海軍では大型艦の建造が可能となり、この設計を元にした2隻が建造を開始した。一番艦アドミラル・ヒッパーは15,000トン近くと前弩級戦艦とほぼ同じ大きさにまでなった。さらに三番艦プリンツ・オイゲン以降も艦の拡大はやまず、未成に終わったとはいえザイドリッツとリュッツォウは満載排水量19,800トンと前大戦時の巡洋戦艦である「フォン・デア・タン」に近い数値にまで肥大していた。1936年度計画において本級の設計を元に6インチ砲を持つ軽巡洋艦2隻を建造する予定であったが、同時期にソ連海軍で18cm砲9門をもつキーロフ級巡洋艦の建造が始まったため、これに対抗すべく計画を変更して本級の後期グループ3隻が建造された。 実戦での評価[編集] 重巡洋艦としては他国の同等の艦に比肩する艦であったが、第二次世界大戦でドイツ海軍が必要とした対地支援及び通商破壊には向いていなかった。対地支援においては、有力ではあったが代償が大きく、1940年の北欧侵攻時にドローバックにおいてブリュッヒャーが撃沈され、1944年にはプリンツ・オイゲンが衝突事故を起こしている。通商破壊戦においては、シャルンホルスト級戦艦やドイッチュラント級装甲艦に随伴可能な航続力を持たず、機関も信頼にかけていることから、不充分な戦果に留まった。 ドイツ海軍の近代巡洋艦で主流であった長船首楼型船体から一転して、艦首から艦尾までが一直線の上甲板で結ばれる平甲板型船体に改められていた[2]。これは複雑な加工を要する船首楼型よりも平甲板型のほうが船殻重量が軽減でき、工事も容易であるためである。また船体中央部は平坦な形状であった。艦隊の構造は縦肋骨方式で船体は水密隔壁により14つのブロックに分けられており、船体の72%が二重底で艦首の水線下はバルバス・バウとなっていた[3]。 各艦の船体サイズの相違は以下の通り 艦名
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